誰も知らない。
彼女は彼女でないことに
彼女の入れ物が変わっていることに。
あの時、おくうは本当に崖から落ちて、死んだ。
今の彼女の体は、お燐がよみがえらせたものである。
彼女のありったけの妖気をそそぎ込んで。
今はまだ、おくうにはなんの変化もない。だが年月とともに彼女の体を流れるお燐の妖気は、確実に彼女を変容させていくだろう。人から、妖へと。そのとき、お燐は彼女を迎えにいくのだ。
おくうは気がついていない。外せない首輪を填められてしまったことに。
聞こえない鈴の音が、自分の首もとから小さく鳴り響いていることに・・・・
1.出会い
「――今日もにぎやかだね、みんな」
開けた窓から蛙の声が聞こえてくる。人里のはずれにあるこの家は、直ぐ外に田圃が広がっている。夏の夜ともなれば蛙の大合唱大会。コロコロケロケロと騒がしい。
彼女はそんな蛙たちの夏のリサイタルを聴きながら、ぼんやりと布団にうつ伏せになり、少し開けた障子から夜の田圃を眺めていた。夏ののんびり屋な太陽が沈んでから2刻もすぎた頃だろうか。そろそろ寝るにはいい時間である。
彼女は人里の、とある大工の一人娘である。年はこのあいだ十を数えた。真っ黒な長髪を頭の後ろで軽く結っただけの幾分野生的な髪型と大工の一人娘という身上による活発な性格のせいで周囲からは男勝りと評されるが、中身は幻想郷のごくごく一般的な少女だった。名前は空(そら)という。通称、おくう。
本来ならば彼女の友人等はおソラと彼女を呼んであげるべきなのだが、寺子屋で慧音センセが漢字の音読み訓読みを教えてくれたときに、彼女の友人たちは「クウのほうがかっこいいじゃん」とか何とか言い始め、結果それ以来オクウと呼ばれる羽目になった。彼女としては別に嫌ではない。むしろ気に入っている。おくう、と呼ばれるとなんだか自分が別の誰かに変身したような感じで、何ともいえずおもしろおかしい気分になるのだ。少女には往々にしてよくあることだが、軽い変身願望というものを、彼女も持っていた。
「そろそろかな」
蛙の合唱を聴いていたおくうはそうつぶやくと傍らに置いてあったわら半紙と矢立てを枕元にたぐり寄せた。矢立ての中には筆ではなく鉛筆、という筆記具が入っている。以前父親が幻想卿の端の道具屋からお土産として買ってきてくれたものだ。墨がなくても物が書けるので、布団の中で使うにはもってこいの筆記具である。最近、大量にこの世界に流れ着くとかで、ちかごろは街の道具屋でも見かけるようになった。河童が作っているとの話も聞くのだが、詳しいところは彼女にはわからない。
杉板の切れ端を下敷きにして、おくうはわら半紙へ書き付ける用意をする。もうすぐ、いつもどおりならこの夜の田圃の上を、あの光が通る。
蛙が突然鳴くのをやめた。
「きたっ」
口の中でつぶやくと、彼女は障子をそっと手で押して、さらに視界を広くする。その視線の先では、暗いほのかな炭色の明かりが山の上から(暗くて見えないが)出現していた。怪しい炎の玉はゆっくりと山の上を上がり続ける。
火の玉は上昇と同時に、その光と大きさと早さを少しずつ強く大きくしてくる。こちらに向かって飛んできているのだ。コースは一直線。里はずれの山の上から、彼女の家の上を飛んで、里の方へ。
明かりは少しずつ大きくなってきた。おくうの鉛筆を握りしめる手に力がこもる。その明かりが、さらに大きくなったとき、明かりの中に何か見えた。丸い物に、黒い影。
おくうはその火の玉を見つめ続け、火の玉の姿を必死に頭に刻み込む。ひときわ大きくなった火の玉は、猛烈な早さでおくうの視界を駆け抜け、視界の上端、屋根の縁へと消えた。
時間にしてわずか数十秒。そのわずかな時間で見た物を、火の玉が視界から消えた瞬間に彼女は行灯に火を入れ、猛然と藁半紙に書き込み始めた。記憶が薄まる、そのまえに書き込まなくてはならないのだ。あの火の玉の姿を。
音も声もしない、赤い火の玉。数ヶ月前にその火の玉を初めて見たとき、おくうは驚いて、次の日両親と寺子屋のみんなに興奮しながら昨晩見たことを話したのだった。大人たちにはただの人魂であろ、と一蹴されてしまったのだが、おくうはそのとき見せられた妖怪覚え書き帳の人魂の絵を見て、この挿し絵とあの火の玉はどこか違うと感じたのだ。
その後、いつも同じ位の時間にあの光が夜空を飛ぶことに気がついたおくうは、紙にその姿を書き留めることを思いついた。その絵を見せて、大人たちにあの光の正体を聞くのだ。大人がだめなら、東の外れの外れの神社に住んでいる、霊夢という巫女に聞いてみるのもいいかもしれない。とにかく、普通の火の玉とは違うということをはっきりさせなくてはいけないのだ。その手段が詳細なスケッチである。
しかし、火の玉の姿を絵に起こすのは困難な作業だった。何せ、猛スピードで飛ぶ火の玉を見ていられる時間はほんの一瞬。たった一回で描きあげられる物ではない。
ふつうの子ならここであきらめてしまうのだが、おくうは頭のよい子だった。少しずつ描くことにしたのだ。毎日通るなら、観察する箇所を決めて、少しずつ全体像を書いてゆけばよい。
おくうの観測通り、火の玉は毎日同じ姿で飛んできた。途中、雨や風で雨戸を閉めねばならず、観察できない日もあったが、おくうは根気よく少しずつ少しずつ絵を描きあげていった。その作業を始めて一ヶ月程たつ。うまくいけば、今晩で仕上げられるはずだ。
外ではまた蛙が合唱を始めていた。開け放った障子から羽虫が飛んできて行灯に当たり、太鼓のような音を立てている。蛙と虫の奏でるめちゃくちゃなお囃子を聞きながら、おくうはため息をついて鉛筆を置いた。
「こんなもんかなぁ」
ぼんやりとした明かりの中、藁半紙に書き込んだ鉛筆の絵を見ておくうはつぶやいた。少しずつ観察すると言っても光の加減や角度でどうしても判別できないところもある。これ以上はどうしても見えないんだよね、と一人ごちながら畳に置いたわら半紙。そこには、燃える車輪を持つ手押し車と、それを押しはこぶ黒い影、二本の尻尾を持った、不思議な妖怪の姿が描かれていた。
2.正体
"守矢神社参道の修繕、河童と共同作業。期間一月 泊込。糠床腐らすな、茄子に水やれ、鍵閉めろ。父"
"一月も一人にしたら父ちゃんは日干しになるので付いていきます。買い物はツケですること。使いすぎたら百叩き 母"
「今日で七日目、と」
太陽が茶の間を明るく照らす。暦の印と両親の置き手紙を見ながら、おくうは一人で朝食をとっていた。
おくうの父親は先に述べたとおり大工である。それなりに腕の立つ職人の彼は、時たま、遠くの作業にも呼ばれて現場監督をする事があった。当然、現地で宿に泊まりながらの作業となる。そんなときは決まって母親も付いていく。
ずぼらな父ちゃんは三日ほっとくとキノコが生えるからとは彼女の弁。たしかに父さんはずぼらで仕事以外はからきしだらしがないが、ただ単に彼女は父さんが怪我しないか心配で落ち着かなくて一緒に付いて行っているだけなのだとおくうは知っている。本人達にその自覚はないが、おくうの両親は里では結構なおしどり夫婦として評判だった。
おくうが小さい頃は彼女も一緒に付いて行っていたが、彼女もそれなりに成長し、寺子屋の勉学もあると言うことで、最近では一人で何日も留守番をする事が多い。
今朝はご飯に味噌汁にぬか漬けのシンプルな朝食だ。食べながら、寺子屋に持ってゆく布袋の中身を確かめる。母親が居るときにこんな事をしたら行儀が悪いと母親の拳骨が飛んでくる(そしてかばおうとする父親と母親の喧嘩が始まる)。
父親似のずぼらなところが写って来たなぁ、と最近彼女は思う。ずぼらな遺伝子のもっとも強い発現が彼女の狼の尻尾みたいなヘアスタイルなのだが、彼女はそれに関しては何とも思っていなかった。
「いけない」
昨日描きあげた火の玉の絵を入れ忘れていることに気が付いたおくうは、箸と茶わんを置いて寝室に走る。取ってきた藁半紙を四つ折りにし、布袋へ。
「慧音先生なんて言うだろ」
描きあげたときは結局詳細図とはいえないその出来に余り感慨も湧かなかったのだが、朝になってみると早く誰かに見せたくてたまらなくなった。
なんせ毎夜毎夜空を見上げてこつこつ書きあげた「大作」である。掛けた努力は一級品。早く誰かに見せて、その努力をすごいとほめてもらいたい。そんなときに限って両親はいない。
とりあえず、最初に見せる相手は寺子屋の先生と決まった。先生はがんばっている子が大好きな人だ。手放しで驚き、ほめてくれるに違いない。
「行って来まーす」
戸締まりをして、誰もいない家に挨拶をすると彼女はわくわくしながら寺子屋へと走って行った。
「・・・・なーんか期待はずれ」
「へ?」
「あ、いや、なんでもないよ」
昼。持ってきた握り飯をかじりながら、憮然とした面もちでおくうはため息を付いていた。
「なんか、今日は不機嫌みたいだけど、どしたの?・・・・もしかして、おなか痛い?」
「いや、そんなんじゃないんだけどさ。イネちゃんは何も心配しなくていいよ」
「そう?・・・・具合悪かったら早く言ってね」
「ありがとう」
相変わらずぶすりとした表情のおくうを、彼女の友人であるイネが、首を傾げてのぞきこむ。おくうは米を飲みこむと、また溜息を付いた。
憮然としている理由は一つだ。おくうに半紙を見せられた慧音先生は、あまり良い顔をしなかったのである。
朝、授業前のこと。
慧音の部屋に満面の笑みで駆け込んだおくうは大事な半紙を取り出し、何事かと首を傾げる慧音先生に見せた。少しずつ書き上げたあの火の玉の観察記録を。
手放しでほめてもらえることを今か今かと期待して居たおくうだったが、その半紙を見つめる慧音先生の表情は少しずつ曇っていった。
「・・・・そうか、火車だったか」
「火車?」
「アイツだな・・・・ったく、ハシャぎおって。一度言わんとダメか」
「先生?」
「ん、ああ、こっちの話さ。この絵はおまえが観察して描いたのか?よく描けているな」
「はい!毎晩、少しずつ描いていったんです。あんまり早く通り過ぎちゃうんで、ほんとにちょっとずつしか描けなくて大変でした」
得意げに話すおくうを、慧音は少し困ったような顔で見つめると、静かに口を開いた。
「・・・・もう、やめた方がいい」
「・・・・へ?」
おくうに掛けられたのは先生の賞賛ではなく、警告だった。
「こいつは火車だ。人の死体を運び去る、地獄の妖怪だ。最近、地獄からよく出てくるようになったと聞く」
「地獄・・・・?」
「ああ。おまえが見たのは、たぶん、私の知っている火車の娘だろう。」
「娘って、女の子なんですか?」
おくうの驚きと興味の混じった顔を見て、慧音は余計な事を言ったと後悔した。
妖怪は里でもよく見かける。妖怪の少女もまたよく見かける。おくうはそういう里の妖怪少女をいろいろ見ていたので、少女だという点では別に驚きはなかった。
しかし、地獄の妖怪ともなれば話は別である。地獄にいる妖怪は、話しに聞く牛鬼のように恐ろしいものばかりと思っていたのだが。まさかあんなところの妖怪にも少女の姿をした者が居たとは。ならば―――
「友達になりたい、なんて考えるなよ」
「へっ?」
心の中を見通されて、おくうの両肩が跳ねた。
「姿形はお前達と似ていても、妖怪だと言うことは忘れてはいかん。特に、そいつは地獄から来てまだ日が浅い。街にいるような奴等はそれなりに幻想郷のしきたりを心得ているだろうが、彼らはそうとは限らない。敵視しすぎるのもイカンが、油断はもっとダメだ。双方ともに悲劇となる。忘れるな」
「・・・・・・」
「返事」
「はい・・・・」
近頃の妖怪はそんなに危なくない。襲われる人間も居るには居るけど一昔前ほどではないもんとか、おくうは色々と言い返したかったのだが、自身が半妖である慧音に真剣な顔で言われると、反論する気持ちは萎んでいった。
「とりあえず、この絵は私が預かろう。よく描けている。覚え書き帳に差し込むか、あとで稗田の娘に見せてやろう。とにかく、今言ったこと、忘れるな。人と妖怪のつきあい方は難しいんだ。いいな」
「・・・・はい」
そういうと、慧音先生は授業の準備を始めた。おくうは半紙を先生の机の上に置くと、礼をして部屋から出ていった。憮然とした顔で。
引き戸が閉まる音がすると、慧音は机から顔を上げた。
・・・・本来なら、こんな事をするべきではない。「火車の娘」と口を滑らせた自分が悪いのだから。
おくうの心に沸いてしまった地獄妖怪への興味は、彼女の責任で何とかするしかない。故に注意をした。しかし、おくうの胸の中に沸いた興味の感情は慧音に注意されてもまだ残っているようだった。あの表情がそれを物語っているではないか。
このまま放って置けば、いつか興味に負けて、あの火車と接触を試みるかもしれない。そうなったとき、「危険なこと」が起きない保証はない。仮定に仮定を重ねる、全くのこじつけのような想定だったが、慧音は心配でたまらなかった。
「・・・・許してくれよ」
だから、彼女は能力をおくうに使った。「火車が娘である」と口を滑らせた部分の歴史だけを食べた。
これで、彼女からは地獄妖怪の娘と会ってみたいと言う気持ちは消えたはずである。とりあえずは、これで一安心だ。一つため息をつくと、慧音は今日の授業の準備を始めたのだった。
そんなわけで、昼食の時間、おくうはあの絵があまりほめられなかったことと夜中の妖怪観察を止められた事に対して、憮然としてお握りをほおばっていたのである。
「やっぱりおなかいたいの?ねえ、昨日何食べたか言ってごらん?正直に。おなかが空いてる時って変なもの食べちゃうんだよ」
「イネちゃん・・・・私は犬じゃないんだからさ」
「あ、ごめん」
「素で言わないでよ・・・・」
「髪の毛ぼっさぼさー」
「もふもふするな!」
結論から言えば、慧音の努力は無駄になった。火車が、向こうからおくうに接触してきたのである。
3.遭遇
「あ~あ・・・・」
相変わらず外では蛙の大合唱だ。
おくうは布団に転がって、暗い部屋の天井を見上げていた。
この何日間か続けてきた夜の妖怪観察だったが、今夜はさすがにする気はなかった。杉板の下敷きと鉛筆入りの矢立ては部屋の隅に放り投げられたままだ。
「せっかく描いたのになぁ・・・・」
慧音先生はほめてくれると思ったのに。せめて両親が居てくれたら、代わりにほめてくれただろうか。
この日に限って、家にいてくれない両親をおくうは少し恨んだ。
「いいやいいや。今日はもう寝よう。寝よう」
小さくつぶやくとおくうは目をつぶった。時刻はそろそろあの妖怪――先生は火車と言っていた――が通る時間である。早く寝てしまわなければ、蛙の静寂と一緒にあの妖怪が家の上を通る。その静寂を聞くのが、今日の彼女にはたまらなく悔しく思えた。
連日の夜更かしで少し疲れていたせいもあり、目をつぶるとすぐに睡魔がおくうの体をやさしく押さえ込んだ。
騒々しい蛙の声がだんだん遠くなってゆく。眠りに落ちる、まさにその瞬間だった。
「こーんばんわあ!」
「ふああっ!?」
突如として部屋に響きわたった声に、おくうは死ぬほど驚いた。反射的に声のした方と反対、雨戸の側へ飛びずさる。
掛布を握りしめ、少し震えているおくうの目に映ったのは、赤黒い炎で照らされて橙色に染まる寝室と、部屋の隅に突如として現れた、黒い獣の耳と二本の尻尾を持つ、赤髪の少女だった。
震えるおくうを見下ろす少女は、一瞬片眉を上げてニッコリと微笑みかけると、えへんと咳払いをして喋りだした。
「あー、ごめんねえ。驚かせるつもりはそれほどなかったんだけどねぇ」
「えっ、ええっ、え!?」
「嬢ちゃんだろ?毎晩毎晩あたいを見てたのは。いや、あれだけ派手に空を飛んでたもんだから、あたいをみてた人間もほかにもいると思ってたんだけどね。どうもこのあたりの人間は早寝すぎていけないね。店もあっと言う間に閉まっちまう。地底の旧都を見習ってほしいもんだね。あそこの店は店仕舞いなんてないんだからね」
妖怪の喋る勢いに全くついていけないおくうだったが、その不穏な単語にはちゃんと反応することができた。
「ち、地底・・・・?」
「そう、地底。あたいは地獄の妖怪でね」
目を白黒させるおくうに、ニタリと笑い掛けると赤髪の少女はおもむろに自己紹介を始めたのだった。
「・・・・さて、いきなり驚かせてわるかったね。初めましてお嬢ちゃん。あたいはお燐ってんだ。名前はほかにもっとややこしいのがあるけど、ほんとにややこしいんでパスね。地獄で火車をやってる。今日はあたいのことを目ん玉キラキラさせながら見ほれていたオンナノコが気になったんで、お邪魔してみました。よろしくね」
「・・・・」
「別にとって食おうってんじゃないさ。ただ、今日はあたいのこと見てないなーってちょっと気になったんでね」
ベラベラと自己紹介をすませた地獄の猫は、相いも変わらず目をパチクリさせる少女を見下ろすと、すうと目を細めた。そして、ほらほら、と今度はおくうが自己紹介するように、顔で促した。
「あ・・・・あの・・・・」
心臓が早鐘を打っている。目の前ではにやにや猫が笑っている。唾をごくりと飲み込むと、おくうは自己紹介を始めた。
なぜか、答えてはいけない気がした。
「わ、わたしは、空っていいます。と、友達は、私のことおくうって呼びます。どうしても気になっちゃったので、お姉さんを覗いてました。・・・・あの、本当にごめんなさい」
おくうはまず謝った。襲われると思ったのだ。この妖怪は私を拐いにきたのかも。毎晩私が彼女の姿を覗いていたから、と。
里の中では妖怪は人間をおそわない決まりになっていることは彼女は重々承知していた。しかし、おくうの心の中では、朝に慧音から言われた言葉が引っかかっていたのだ。"奴は地獄から来て日が浅い"と。
ぎゅっと目をつぶり頭を下げ、おそるおそる火車の言葉を待っていたおくうに聞こえてきたのは、意外にも嬉しそうな声だった。
「空・・・・へえ!お嬢ちゃんもオクウっていうのかい。いいねえ、実はあたいの友達にもオクウってのが居るんだよ。いやいや、奇遇だねえ」
「え・・・・」
「うんうん、そういや雰囲気も似てるね。黒くて長い髪。だけどそれをあんまり大事にしてないとことか気の強そうな目とか一見オンナノコだけどそんな雰囲気がしないとことかそっくりだ。おお、こいつは本当にびっくりだねえ」
「だ、大事にしてます!それに私はちゃんと女の子です!」
普段気にしてることを妖怪に指摘され、おくうは思わず言い返した。お燐と名乗った妖怪はそんな彼女にころころと笑い掛けた。
「の、割には束ねただけだろ。櫛とかちゃんと使ってるかい?」
「うっ」
的確な指摘だった。
「だめだよ、髪は女の命なんだからね。死体になった時にわかっちゃうよ?」
「死体!?」
突如発せられた物騒な単語に、おくうの警戒心が再燃する。やっぱり、ここで私を殺すきなんじゃあ・・・・
その感情に気がついたお燐は慌てて手を振り振り取り繕った。
「おっと。いや、職業柄死体ばっかり見てるもんでね。つい例えがおっかなくなっちゃったわ。ごめんごめん」
「は、はあ・・・・」
「だーいじょぶだって。お嬢ちゃんを襲う気なんか無いよ。"しきたり"については分かってるからさ」
そう言うと、またお燐はおくうにニカッと笑い掛けた。
しきたりは知っていると聞いて、少しはほっとしたおくうだったが、お燐のそのどうにも相手に警戒心を解かせない胡散臭い笑みに、おくうはアハハ、と気の抜けた笑いで返すしかなかった。
「さて、せっかくお知り合いになったんだ。ちょっとお喋りでもしようか」
そのまま、お燐の「他愛もない話」が始まり、出会いの夜は更けていった。
初めは警戒しきりだったおくうだったが、お燐の巧い喋りに少しずつ引き込まれ、夜が明ける頃にはすっかり彼女の話に夢中になっていた。
旧い地獄、鬼や橋姫、土蜘蛛といった地下の妖怪の話。怖いけど優しくて勇敢なご主人の話(なんと彼女はその妖怪のペットだという)、そして地獄にいるもう一人の"おくう"の話。そのどれもが恐ろしくも面白く、新鮮で、彼女は身を乗り出して聞いていた。
加えて地獄の妖怪とお喋りをしているという非日常的な状況も、両親のいない退屈さと学校での出来事で鬱憤のたまっていたおくうにとって、すばらしく刺激的で面白いものだった。
夜が明けた。
太陽が山の端から顔を出すと、お燐はふにゃ、と伸びをして「お勤めがあるんでね」と言ってお燐は朝焼けの中へ飛んでいった。
一夜の刺激的なひとときを過ごしたおくうの胸に沸き上がる思いはただ一つ。
「ねむい・・・・」
徹夜で話し空かすのは十代の少女には非常に酷な行為である。ましてや、彼女は前日まで毎晩夜更かし気味だったのだ。お燐の話を聞きながら眠らなかっただけ奇跡である。
眠いとつぶやくなり、おくうは布団に崩れ落ちた。
「ああ・・・・寺子屋・・・・きょうは・・・・授業・・ある、のに」
伸ばした手が体を起こそうとするが、力の入らない手はかりかりと畳をひっかくばかり。
「だめ・・・・ちこ・・く・・・・頭突き・・・・」
朝靄のかかる田んぼから、さわやかな朝の空気が流れてくる。少しずつ明るくなっていく風景が落ちる瞼のせいでだんだん狭くなってくる。
開いた雨戸の奥からぼんやりそれを眺めながら、おくうは力つきた。
眠りに落ちる瞬間、頭突きの体勢に入る笑顔の慧音先生が彼女の頭をよぎった。それはきっと予知夢なのだろう。そんな気がした。
「うう・・・・」
果たして予知夢は当たった。頭突きを食らったおでこがまだ痛い。おくうは夕暮れの里の通りを頭をさすりさすり、家へとむかって歩いていた。
立ち並ぶ店や屋台からたちのぼる良い香りがおくうのおなかを刺激する。
「そう言えば今日はまだなにも食べてないなぁ・・・・」
結局彼女が起きたのは遅い午後だった。起きるなり彼女は自分のおかれた恐ろしい状況を一瞬にして把握し、寝起きでほどけた髪もそのままに家を飛び出し寺子屋に走った。
長髪を振り乱して必死の形相で通りを駆け抜けていく彼女は、里の人々に少なからず衝撃と恐怖を与えた。女の子としての大事な部分をかなぐり捨てながら急いだ寺子屋だったが、当然のことながら大遅刻という事態が覆るはずもなく、教室に飛び込んだ彼女を待っていたのは慧音先生のすぺしゃるな頭突きとお説教だったのである。
「あーあ・・・・」
少し前に飛び出したばかりの家に彼女が帰ってきたのはちょうど日が沈んだ頃だった。
手には町で買った竹の皮にくるまれたイワナの塩焼き。きょうはこれとお湯をかけて暖めなおしたご飯(白湯漬け)で夕食をすませるつもりだった。
「あれ?」
家の前まできて、彼女は異変に気がついた。うっすらと、扉の隙間から光が漏れている。はっとして夜空を見上げると、暗い空に薄い煙が立ち上っていた。
誰かが家の中で火を使っている。もしかして、おかあさん?予定ではまだまだ帰ってこないはずなのに。様子を見にきてくれたのだろうか。
思いがけない事態に、彼女は満面の笑みで扉の前まで駆け寄った。息を整え、扉を勢いよく開く。悲しいかな、彼女はまだ子供。母親が帰宅している、それ以外の可能性など想像できなかった。
「どうしたの?早かったねぇ!」
「なーお」
「へ?」
黒猫が、火のついた囲炉裏端で寝ころんでいた。
「あ、あれ? 火、消してったはずなのに」
よく思い出してみれば今朝は(昼は)火など使ってない。
ということは?この猫が火をつけた?
まさか。
・・・・よくみればその猫には二本のしっぽが。
「妖怪!?」
はじけるように声をあげたその刹那、ぼうんと煙が起こり黒猫の体を覆い隠した。その向こうから、「じゃじゃーん」と気の抜けた声が聞こえた。
「いやあ、今日は夜更かしさせないように早めにきてみたんだねえ、これが」
「あんたかーっ!」
煙の向こうの黒猫は昨日の火車の声で喋った。
「今日は怖がらないんだねぇ。昨日はあんなにびくびくしちゃってたのに」
「あれは、突然のことで、びっくりしちゃってただけで・・・・」
おくうの買ってきたイワナを一匹もらい、お燐はうにゃうにゃとそれにかぶりついている。
おくうは茶碗を持った手を止めて、箸をねぶりながらボケッとそれを眺めていた。
視線に気がついたお燐が、顔を上げる。
「なあに?そんなにあたいって可愛いかい?おおー、やっぱ分かる人には分かるんだねえ。センスがあるんだね、センスが。お嬢ちゃんには。不気味だの何だの言う奴らは感覚がおかしいんだね。うちのご主人様みたいな人間もやっぱり居るんだね。いやあ、うれしいねー」
お燐がにゃはー、と嬉しそうにベラベラ喋る。
その様子がおかしくて、おくうは、ぷっと小さく笑った。
「ううん、なんか不思議だから」
「ああら。可愛いんじゃなかったのかい」
「ううん、可愛い。可愛くて不思議」
「どんなところが?」
「喋る猫ってところが」
「そう?猫の妖怪なんざそこら中にいるだろうに」
「私は会うのは初めてだもん」
「おおー。お嬢ちゃんは運がいいねえ。初めて会った猫叉があたいなんだからね。なんせあたいは地獄でも一番の器量よしって評判高い・・・・」
「ふふっ」
「なんだいなんだい。嘘じゃないんだよ」
「あははっ」
お燐のムキになった表情が、おくうはなんだかたまらなくおかしくて、そのままお腹を抱えて笑った。お燐はぶう、とほほを膨らましていた。その顔を見てまたおくうは笑った。
一週間、静かだった小さな家に、一時笑い声があふれた。
「まったく。そんなに笑い転げて。おめでたいねえ。そんなんじゃ目ん玉飛び出てしゃれこうべになっちまうよ」
おくうの幸せそうに笑い転げる様子を見て、お燐も嬉しそうな声で笑う。それをみて、またまたおくうが笑う。ひとしきり笑いあった後、「さて」とつぶやいてお燐は立ち上がり、三和土へ降りた。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
玄関まで着いてきたおくうが、残念そうにお燐に訪ねた。お燐は扉を開けながら「今日はお知らせに来ただけなんでね」と返す。
「おしらせ?」
「明日は土曜だね。寺子屋は半ドンなんだろ。あさってはお休みだ。うふふ、知ってるよ。だからさお嬢ちゃん、出かける用意しときな。良い所に連れてってあげるよ」
「えっ」
おくうは一瞬とまどった。良いところってどこだろう。まさか・・・・
親しくなったとは言え、まだ初めて言葉を交わしてから一晩も経っていない。おくうの警戒心を察知して、お燐はあわてて取り繕った。
「あ、いや、そういう意味じゃない。心配しなさんな。取って食ったりしないさ。里の中じゃ、人さらいは御法度。加えてあたいは死体を運ぶしか能のない妖怪さね」
「・・・・」
胡散臭い。
「それにさ、せっかく地上に来れるようになったんだ。早々に問題起こしてまた出禁、なんてことになったらあたいはほかの地底の連中から袋叩きにされちまう。だから、大丈夫。ヤリたくってもやれないんだよ。世知辛いねえ、まったく」
「・・・・ばれなかったら、するの?」
おくうの質問に、お燐はうひゃああ、とおどけて見せた。
その様子がおかしくて、思わずおくうはぷっ、と吹き出した。
「おお、失敬失敬。冗談だよ、ものの例えさ。だからさ、こう言うわけだから、信じてくれるかい。あたいのこと」
そう言って、お燐は黒猫に姿を変えると足元にすり寄ってきた。初めて触れたお燐の毛皮は、ビロウドの様で心地よかった。
すり寄りながらお燐はお空を見上げる。おくうには、おねがいだよぉと八の字眉で懇願するお燐の表情が見えた気がした。少し迷ったが、結局彼女は「信じる。行く」と答えた。慧音の砕心が無駄になった瞬間だった。妖怪と遊びに行くという、恐ろしげだけどとんでもなくおもしろそうなお誘い。おくうはその誘惑にはどうしても勝てなかった。
行く、という返事を聞いたお燐の目が、すう、と嬉しそうに細められた。
むふふ、と笑いながら黒猫はまた人の姿を取る。
「おー!よっしゃありがとう。じゃあ、明日の昼寝時にまたくるよ。一泊する予定だけど、荷物と銭はいらないからね。ゆっくり寝て、元気で待ってておくれ。戸締まりは忘れないでおくれよ。それじゃ。イワナごちそうさん」
そういうと、お燐はするりと玄関を出て、再度猫の姿になるとつま先から火の粉を散らして、夜空へと駆けていった。
飛んでいった先をしばらく眺めていたおくうは、その赤黒い火の粉が見えなくなると、素早く寝支度に入った。
一時は不安だった彼女だったが、だんだんそんな感情は薄れ、楽しみで仕様が無くなってきた。不安が消え去ったわけではないのだけれども。
その晩、おくうは久しぶりにうきうきとした気分で床についたのだった。
4.地獄へ
最高に気分のいい土曜日だった。
土曜は天気のいい日が多いな、とおくうは頬杖をしながら一人ごちる。見上げた空は雲一つ無い快晴だった。
おくうは土曜日特有のどこか浮かれたハレの感覚が好きだ。いや、おくうに限らず寺子屋の生徒全員がそうだ。
まだ授業も始まらない朝の教室で、今日は午後からどこに行こうか、なにをして遊ぼうか、あちこちでにぎやかに盛り上がっている。いつもならその中におくうも混じっているのだが、今日は一人でただひたすらニヤニヤしていた。
おくうは目覚めると朝食をたべるのもそこそこに準備にかかった。
お燐が言うには一泊とのことだったのであまり用意するものもないはずなのだが、そこはそれ、十代の少女にとって一泊といえど旅行は旅行。大旅行である。しかも妖怪と。
これはしっかり準備をしなければ。そう思った彼女にあれもこれもと荷物を詰め込まれた布袋はすぐに破裂しそうになった。
「着替え・・・・念のため二日分。上着、夏だけど・・・・居るかなぁ。道具は・・・・火打ち石に矢立て(鉛筆入り)、笛に肥後の守・・・・あ、そうだ。父ちゃんの非常食も持っていこう。妖怪に食べられそうになったら代わりにあげるんだ」
そのまま放っておいたら私物をすべて詰め込みそうな勢いの彼女だったが、前日の遅刻のこともあり、後ろ髪を引かれる思いで準備を中断し寺子屋にきた。
まだ授業も始まらぬうちから帰ったら急いで続きをしなきゃ、とすでに帰ることばかり考えている。頬杖をついたその顔は、ニヤケたり考え込んでみたり(持ち物脳内リストアップ作業中である)ハッとしてみたり、そわそわそわそわニヤニヤニヤニヤ忙しい。
「・・・・ねえ、おく・・・・そらチャン」
「なあに、イネちゃん。改まって本名で呼ぶなんて」
友人はそんな彼女におそるおそる問いかける。
「変なキノコでも食べた?ワライタケとか。あれはうんちの上に生えるんだからね。だめだよ。おいしそうに見えたかもしれないけど」
「しまいには怒るよ」
彼女の様子は当然、傍目から見れば変だった。
「じゃじゃーん!」
土曜の寺子屋名物、瓶入り牛乳を持ち帰り、自室で昼食代わりの饅頭と共に食していたおくうは声のした方を満面の笑みで振り返った。
「地獄の特急便、怨霊印のお燐運送、ただいま到着~」
そのおどろおどろしい台詞に満面の笑みも多少ひきつったのだが。
「こんにちは!お燐さん、準備はできてるよ!」
「お燐でいいよ。・・・・おおう、準備ってそれかい、そのパンパンのザックかい」
「うん!あ、これもらってきたから、あげる」
元気よく返事をしながら、おくうはジャンケンにて勝ち取った「休んだ子の分の牛乳」をお燐に渡す。
お燐はうにゃ、とうれしそうにニヤケると、おくうの隣に座って一緒に牛乳を飲んだ。
「いやあ、ありがとね。牛乳も久しぶりだわ」
「普段は飲まないの?」
「妖怪になる前は飲んでたんだけどね。さとり様のペットになってからはあんまり。食生活も変わったし」
「なに食べてたの?」
「怨霊とか、クズ妖怪とか」
「・・・・」
やっぱり地獄はすごいところなんだな、というか、ペットにそんなエサを出すなんて「サトリサマ」とはどんな妖怪なんだろう。きっと恐ろしい姿に違いない。
むむむ、とおくうが唸っていると、バサリ、と横に何かが置かれた。顔を上げる。視界に入ったのは風呂敷包みだった。
「準備してもらったところ悪いんだけどね、荷物はなくても大丈夫だ。それよりこれに着替えてくれないかい」
「え?」
「いやあ、それ、友達が昔着てた服なんだけどさ。これから行くところは、ちょっと人間がうろつくにはアレな所なもんでね。いろいろ危ないんだ。ま、要するに変装だよ」
おくうは今言われたことが一瞬分からなかったが、すぐに理解した。妖怪の格好をして行くと言うことだ。人間とわかると危ないから、妖怪に変装すると。
おくうのドキドキは最高潮に達していた。
「一昨日話しただろ、私の友達のオクウって子。そいつの昔の服。背格好も近いし、ぴったりなはずだよ」
ニヤニヤと笑いながら、お燐が風呂敷包みを解く。中に入っていたのは古びた深緑色の着物に、端のほつれたくたくたの帯、それに数珠のネックレスだった。
「へえ・・・・」
おくうは着物を広げてみた。たしかに、サイズはぴったりのようだ。裾がずいぶん長い。「ちょっと引きずって着てたね」とはお燐の弁。一瞬、おくうの頭に昔絵本で見た蛇女の姿が浮かんだ。
「今も大概変な格好してるんだけどねえ、昔も昔で怪しい格好してたんだ、あいつ。火炎地獄のすすでほっぺた真っ黒にしてその着物ばさばさ言わせてさ。首にジャラジャラ数珠かけて。亡者の腕かじりながらキャアキャアいって飛び回っててね」
それが今じゃ神の火、ヤタガラスルックなんだから、と。ふんふんと鼻歌交じりに昔の思い出をおくうに語りながら、お燐は彼女に妖怪の服を着せていった。
亡者の腕をおやつ代わりについばんでた妖怪の服と聞いてまたもやギクリと固まってしまったおくうである。
そんな彼女の様子を見て「あー、大丈夫。ちゃんと洗ったから」とか言いつつ、お燐は帯を結んで、数珠をおくうの首にかける。仕上げ、と言いながら懐から紅を取り出し(紅と言いつつ乾いた血のようなドス黒い色合いのものだったが)、おくうの唇にちょいちょいと差し、目元にアイラインを引いた。
「さあ、これでかわいいかわいい地獄妖怪のできあがり~」
「・・・・!」
姿見の前に押し出された彼女が鏡の中に見たのは、真っ黒な長髪をバラバラと肩から流し、長い着物を乱暴に帯で留め、怪しい目元でこちらをにらみつける、妖怪少女だった。
「これ・・・・わたし?」
「ふふふ~。かわいいよ~。どっからどうみても地底の妖怪コムスメだよ~。この髪が良いねこの髪が。雰囲気でてる。あー、ってかホンとお空にそっくりだ。この服持ってきてよかったぁ。あたい大正解!」
あははは、とお燐はいたく満足げで、かわいいかわいいとほおずりまでしてきた。
おくうも似合っているといわれ、なんだか自分がほんとの妖怪のような気分になってくる。鏡の中の自分にニヤリ、と笑いかけてみたり、「たーべちゃーうぞー」と口をぱくぱくさせてみたり。
お燐はそんなおくうの様子を見てひひひ、と笑うと、姿見とおくうの間にするりと割り込み、おくうの手を取った。
「さあさあ、準備は整った。お燐運送まもなく出発。行き先は妖怪の街。お客さんは妖怪見習いの女の子だ。街は怖いが楽しいところだ。妖怪らしく調子に乗りつつ、人間らしく調子に乗りすぎないように振る舞うことだ。いいかい?さあお客さん、心の準備は良いかな?出発のじかんだ!」
芝居ががったその口上に、おくうは、「妖怪らしく」ニヤリと笑うと元気に答えた。
「おー!」
おくうが猫車に乗りこむと、妖術だろうか。閉まった雨戸がするりと開いた。
太陽の光が地獄の妖怪どもを祓おうとキラリと差し込んだが、二人にはそんなものへっちゃらだった。
「しゅっぱーつ!」
瞬間、おくうはものすごい加速で猫車に押しつけられた。
悲鳴を上げる暇さえなかった。しばらくしておそるおそる目を開けると、すでに高い空の上だった。眼下には自分のすんでいる里が箱庭のように小さく見える。
「どうだい、‥‥初めて空を飛んだ感想は!」
「すごい、すごいすごいすごい!」
「そうかすごいか!よっしゃ、飛ばすよ。しっかり掴まってな!」
「うんっ!」
返事と共に、火の粉を散らして火車はさらに加速した。
おくうは首をめぐらして眼下を飛び去っていく里を見る。
幸いにも家を飛び出した彼女らを見ていた人間は居なかったらしく、真っ昼間に一軒家から火車が飛び出したというのに、里は至極平穏の様子だった。
「いーやっほー!」
「やっほー!」
二人がそれぞれに歓声を上げる。
火車と人間の少女の、一泊二日の怪しい地底旅行が今、始まった。
「雪・・・・」
「そう。このあたりじゃあ、いっつも雪が降ってる。長い服着てきてよかっただろ?」
「うん・・・・地獄って、熱い所だと思ってた」
「もちろん灼熱地獄なんかもあるけどね。このあたりは古い地獄なのさ。今はほかに移っちゃってね。今は鬼やら橋姫やら、こないだ話したような連中が集まって、都になったんだ。あたいらは旧都って呼んでる。にぎやかで良いとこさ」
「へえ・・・・」
広い広い地下空間の入り口で二人の妖怪少女が佇んでいた。
「5G!」とかいって満面の笑みの釣瓶落としを振り回す汗だくの土蜘蛛や、「なにあんたその楽しそうな顔!地上の新しい友達!?ここを動けない私に対する当てつけ?妬ましい、のろい殺す!(ドップラー効果付き)」とわめく橋姫やらの脇をすり抜けて、火車急便は目的地に到着した。
おくうをつれて颯爽と現れたるはいつもお祭り騒ぎな雪の都。地下の妖怪のふるさと、旧都であった。
日の光の射さないこの街はいつでも黄昏時。飲み屋、食堂、出店。それぞれが色とりどりの提灯を掲げて、ほろ酔い加減で通りを歩く妖怪達を待っている。その明かりはしんしんと降り続く雪に映り、街全体がきらめく宝石を散らされているようだった。
「わあ・・・・」
その光景に見とれて固まるおくうに、火車は「綺麗だろー?」と得意げにほほえみかける。そして、片手をふって猫車をぼうん、と煙にすると「さ、行くよ」とおくうの手を取って、きらめく街へと歩いていった。
「ごゆっくりどうぞ・・・・」
飛頭蛮の仲居が襖を顎で閉める。下半身は首から下げた浴衣に隠れて見えない。見えたらたぶんおくうは気絶するだろう。
旧都の中でも端のあたり。地面が岩壁に移り変わるような所。そこに二人はいた。
そのあたりは温泉がわく地帯であり、旧都では湯治場として栄えていた。あの異変の時には急に源泉の温度が上がり、各々の温泉宿は皆風呂に地下水を引いて温度を下げなければならなかった。「雪見露天風呂鬼釜茹で事件」として、そのあたりでちょっとした異変扱いをされたことは、地下に住むものしか知らないことである。
さて、そんな地底の温泉宿に部屋を取った二人であるが、「まずは飯」とお燐はおくうを街に連れ出した。お燐曰く、地底の温泉宿に泊まる時、まずは近くの浮かれ街で一杯、宿に戻って風呂に浸かりながらもう一杯、というのが基本的な流れであるそうだ。
酔っぱらった妖怪達がそぞろ歩く温泉街。赤と青の提灯(中身は人魂である)が交互に並び道行く者達の顔を照らす。お燐はきょろきょろとあたりを見回すおくうの手を取り、その中を歩いていった。
「すごい・・妖怪ばっかり・・」
そう言って目を丸くするおくうに、お燐は「そりゃそうさ」と答えて笑う。
「ここは地底だよ。あたしが地上の里に行って『すごい、人間ばっかり』て言うようなもんだ」
おくうは、お燐の言葉にううん、と小さくうなると「でも地上には人間だけじゃなくて妖怪も居るもん」とお燐を見上げた。
「あはは、そうか、そうだねぇ。たしかにここは妖怪だけだ」
「この人達、みんな閉じこめられたんだ・・」
「まあ、ね。自分から来た奴らもいるけどね。基本的には、『忌み嫌われた』者達ばっかりさ」
「ふうん・・」
「んで今はお嬢ちゃんもその中の一人ってわけだ」
その言葉に、はっとした顔でおくうは振り向いた。
「わ、わたしも‥・・」
「今日にわかに妖怪の格好したとは思えないくらいここになじんじゃってるよ。なんかこう、才能?妖怪っぽい程度の能力?」
そんな能力なんかない。と言いたかったが、確かにだれもおくうを怪しがらない。最初、おくうは少し心配だった。人間が居る、と襲われたりしないかと。でも、全然そんなことはなくて。
「どうだい、このまんまここに住んでみる?」
ニヤリと笑いかけるお燐。うん、と答えたら、もう地上には帰れない気がした。猫娘のにやにや顔を見つめた後、ふるふるとおくうは顔を振った。そして少し青ざめた顔で「わたし、ここは楽しいけど里も好き・・」と哀願するような声を出す。そんなおくうを見て、シシシ、と歯を見せて猫娘は笑った。
「だーいじょうぶ。冗談さね。さらったりしないよ」
「お、おどかさないでよ」
「だって、お嬢ちゃんからかうの楽しいんだもん」
「もう!」
「あははは」
むう、とおくうがふくれるのを見て楽しそうにお燐は声をあげる。そうやってしゃべっている間に、二人は何度か道を曲がり、温泉街の小路に入ってゆく。
お燐の目指す飯屋は温泉街の大通りから少し横道にそれた場所にあった。
大通りの喧噪を背にして延びる、少しだけ人通りの少ない小路。そこにも何軒もの店が軒を連ねている。その中の一軒の暖簾を二人はくぐった。
「いらっしゃーい」と、元気のいい女の声が二人を出迎える。むわっ、といろんな調味料のニオイの混じったなま暖かい空気がおくうの鼻をくすぐった。
「こんばんはー。女将さん」
出てきたのは割烹着姿の熟年の女性だった。その格好と雰囲気は里の食堂に居たとしても全く違和感がないものだった。ただ一点、その頭巾の下から覗く、ねじくれた耳を除けば。
「はいはい、ええと、二人かい。今日は空いてるからね。小上がりでもいいよ。好きなとこ座ってちょうだい」
「ありがとおばちゃん。さ、奥に座ろ。足伸ばせるほうがいいでしょ」
「うん」
座る場所を決め、二人は女将さんの横を通り抜けた。
そのときである。
「ねえちょっと」
女将が二人を呼び止めた。んん?とお燐は振り返る。その横でおくうは女将の方を振り返らず、そのまま立ち止まっていた。
「その子・・どうしたんだい?」
「どうしたって、何が?」
「いやさ、なんだか人間のニオイがするからさ」
人間。その言葉におくうの背筋が凍り付く。彼女の耳から通りのざわめきが遠くに消えた。
「そう?」
あくまでのんきな声でお燐は答える。
「あたしゃ死体運びだからね。そのニオイかもしんないよ」
「いや、生の人間のニオイだ。人間の息のニオイがする」
そう言っておくうの背中をぎょろ、と女将さんは睨みつける。おくうはお燐の手をギュウと握ったまま、振り返らずに立っていた。
そんな女将さんの様子を見て、にゃ、と舌を出すとお燐はあっさり「ご明察」と口に出した。あら!と女将さんは驚いた声を出したが、それ以上に驚いたのはおくうである。そんなことを言って大丈夫なの?ここじゃあ人間はただの獲物なんじゃないの?
しかし次のお燐の言葉におくうはさらに驚くことになる。
「あたいが拐って来たんだ。渡さないよ」
おくうは思わずお燐の顔を見上げた。その顔は笑っていたが、すう、と細められた目は少しばかりの殺気を帯びていた。
「あらあら。恐い顔しないで。ちょっと懐かしいニオイだったからさ」
お燐のほのかな殺気にひるんだ様子もなく、片手をひらひらと振って女将さんは笑った。
「・・・・」
「取ったりしないさ。それに、最近は巫女が地底にも来るって言うじゃないか。迂闊に手を出して、退治の巻き添えになるなんてごめんだからね」
そう言うと女将は逆にお燐にニヤリと笑いかける。―――退治されんのは人拐いをしたあんた一人だからね―――と。
「わかってんじゃん。それに、食べたりしないさ。この子はお友達だよ」
「へええ。火車が、『生きてる人間』と?こりゃ珍しいね」
笑う女将に、にゃは、と笑い返すとお燐はおくうを引っ張って小上がりへと向かう。そら、と促すとおくうはやっと危機がすぎたと安堵して、下駄を脱いだ。
「いやあ、さっきはごめんなさいね。つい、懐かしくてさ。生きてる人間を見るのが」
「いいのいいの。とりあえず、冷たいお茶とお酒。あ、お酒は熱いのでね」
「あいよ。しっかしよく似合ってるねー。一瞬本当に妖怪かと思っちまったよ」
お絞りと突き出しの小鉢を並べながら、興味津々といった顔で女将さんはおくうの顔をのぞき込む。おくうはなんだか落ち着かなく、うつむき加減に目だけで女将さんを見る。その怯えた様子はいかにも「これから私は太らされて食べられてしまうのです」という感じに女将さんには見えて、ますます可愛い、と彼女の頬をゆるませる。・・・・彼女も妖怪なのだ。
お燐と女将さんはそんなおくうの様子に構うことなく、楽しそうに会話を続ける。
「でしょ?この子はね、なんていうか、コッチ寄りの空気があるんだよ。これ、服貸してちょっと化粧しただけさ。すごいでしょ?」
「へええ!‥‥どう?人間のお嬢ちゃん。いっそのこと人間なんかやめて、妖怪にしてもらっちゃったら?」
またしてもふるふると首を振るおくうに、女将さんは「そうだね」と柔らかく笑いかけると、廚の方へ戻っていった。
「鼻が利くんだ。あのおばちゃん」
おしぼりを広げながらやれやれ、とお燐は苦笑いをする。
「・・・・あの人も、人間を食べるの?」
「ま、ある意味ね」
お燐は一瞬、女将さんの方を見やってから振り返るといたずらっぽく笑う。
「あの女将さんはね、垢舐めなのさ」
「え・・・・」
垢舐め。夜な夜な汚れた風呂場に出現し、桶や風呂を舐める妖怪である。
あのおばちゃんの若いころ想像するとエロいだろー、とお燐は笑った。おくうは、あは、とようやく気の抜けた笑いを返して、安堵のため息をついた。お燐がこの店を選んだのも、いわゆる"人喰いの店"ではないところを選んでくれたからだと思ったからだ。
「ありがとう、お燐お姉ちゃん」と言うおくうに「何が?」と返すと、お燐はおもむろにお品書きを開く。おくうは、安心したら自分がすごくはらぺこなのに気づいた。
「さ、食べよう!お酒も飲んでいいよ!今日のお嬢ちゃんは妖怪なんだから!」
「はーい!」
宴の始まりだった。
「隠しきるでもなく、さりとて見せびらかすわけでもなく・・・・と」
「なあに考えてんのかね。あの黒猫。楽しそうに。ああ妬ましい」
「毎度お約束の台詞ね」
「私はこれで妖怪やってるもの」
ステンドグラスの窓際で、二人の少女が中庭をながめながらティータイム。片方は言わずと知れた地霊殿当主、古明地さとり。そしてもう片方は橋姫、水橋パルスィ。
あんたのとこの猫が人間の子供を拐ってきたわよ――と、ぶつぶつ爪を噛みながら地霊殿にやってきたパルスィに、最初にそう聞かされたときはさとりはちょっぴり驚いた。
あの子も死体以外に興味がわいたのかしら。と。
「食べようとしていたのですか」
「は!そんなんじゃなかったわよ!全然!」
橋姫曰く、二人ともにっこにこ。楽しそうな歓声まであげて、猛スピードですっ飛んでいった、と。
「なによあれ!今まで憎たらしい通行人は幾らでも見たけどあんなのは久しぶりだわ!なに?私に対する当てつけ?あんたんとこの猫は私のこと知ってるでしょう?嫉妬深いのも性格ひねくれてるのも、楽しそうな奴見たら鬱々とグチをぶちまけなきゃすまない暗い暗い性格も!それなのにあんなに、あんなに楽しそうに通る?嫌がらせよ、嫌がらせ!おかげで今日はあと3時間は寝れないわ。3時間恨み言を言わなきゃ私の心は落ち着かない!攻撃よ、これは攻撃よ!私の心と性格と習性を知り尽くしたからこそできる最悪の嫌がらせだわ!――――ですか」
「今ので4時間になったわ」
「それは失礼」
ぺろ、と舌を出すさとり。かわいげに出すならまだしも、口元しか笑っていない表情と他人をからかうような三白眼のおかげで、橋姫の吐き出さなければならないグチの量がさらに30分加算された。
「・・・・なんだか、人間の方もあんたのペットそっくりな格好しててさ。ほら、あー、あのバカガラス。余計に楽しそうで、妬ましいのよ」
「へえ」
その言葉に、さとりは目を丸くする。
なにか、彼女にしては強く驚いているという印象をパルスィは受けた。
「道理で。あなたがうるさい訳だわ。あの子があんなに喜ぶ理由がようやくわかりました。ありがとう」
「その理由って何よ」
「さて」
「教えてくれないの?」
「聞きたい?」
「いいわ。どうせくだらない理由でしょ。さあ、覚悟しなさい。あんたにはこれからたっぷりグチを聞いてもらわないといけないんだから」
「はいはい」
猛る橋姫をだるそうに手を振ってあしらうと、さとりは立ち上がって戸棚に向かう。それを見た橋姫は「え」と何事か言いかけてたじろいだ。かまわずにさとりは液体の入ったガラス瓶を出す。一緒に出したショットグラスを橋姫と自分の前に置くと、おもむろに中身を注いだ。
あたりに若草の匂いが充満する。ズブロッカだ。色々と濃いお酒である。色々と。
「本当はキンキンに冷やしてあるともっとおいしいんだけど・・・・」
「追い水は」
「欲しければ窓の雪を」
「・・・・」
橋姫が沈黙する。
「今日は飲みましょう。グチは幾らでも聞いてあげますよ」
「あんたと飲むのは嫌いよ」
「あら。それはまたどうして」
「強すぎるのよ!こないだ私がどんな目にあったと思ってるの!二日起きれなかったわよ!あんた、自分の外見少しは考えなさい!どこの世界にスピリッツカパカパ空けるロリータが居るってのよ!」
「ここに」
「ぐうっ・・・・!」
「さあ、お姫様。乾杯しましょ」
「何によ」
「あたしのペットの『新しい』友達に」
「結局祝い事なのかい。ああ、畜生。妬ましい、人をさんざんこけにしておいて」
「してませんよ?被害妄想ですよ。ぱるちゃん」
「からかうな!このサド!」
「ふっふっふ」
「きー!」
そう。
私の可愛いペットが幸せになれますように。
あの子のくだらない企み事がうまく行きますように。
そう思うと、さとりはショットグラスを一気に空けた。顔色ひとつ変えずに。
橋姫はいっそう青ざめた。
5.地底温泉郷
カリカリの衣は歯に当たるとサクリと音を立てて割れ、その隙間から熱々の肉汁がさらりと舌の上に流れ出る。噛みちぎった肉を奥歯の上で噛みしめれば、ふにふにとした感触。でもしっかり歯ごたえがある。つまりは―――
「おいしい?」
「うん!」
唐揚げを満面の笑みでほおばるおくうを、お燐も満面の笑みで見つめた。その顔を肴に、お猪口の酒をくい、とあおる。
「いやー、かわいいねえかわいいね。ホンと可愛くていいなぁ」
「えへへ」
その性格と外見のおかげで、「可愛い」という形容詞からは縁遠い日々を過ごしてきたおくうには、お燐の「かわいい」攻撃の前に、ただ照れ笑いを返すことしかできない。
「お空も子供時代があったらこんな感じだったんだろうなぁ。いいなぁ」
「へ?あの、お姉さんの友達の?」
「うん」
口のはしに衣をくっつけながらおくうが尋ねる。
「あたいらはさ、もとは動物だからね。動物から苦労して妖怪になって、それからまた苦労して人に化けられるようになったんだ。そのあいだ、長い時間がかかるわけよ。そうするとね、いざ人間に化けられるようになる頃にはすっかり人間として大きくなってしまった姿になっちゃうのさ」
「へえ・・・・」
大きくなったとはいえそんなに見た目変わらないんじゃないのでは。と思いつつぐい、と素焼きのコップの中身を飲むおくう。片手であおるその姿は人間基準で見ればとても少女がやっていいおしとやかな振る舞いではない。しかし妖怪基準でみれば逆に"おしとやか"的。
「その飲みっぷりもたいしたもんだよ。あんた、父ちゃんか母ちゃんどっちか飲んべでしょ」
「へへー。お母さん強いよ」
「そうだろそうだろ。本直しとはいえ子供にしちゃ大した飲みっぷりだ」
そう、この娘、化け猫におだてられるまま保護者が居ないのを良いことに酒を飲んでいるのだ。
甘い本直しに真っ赤なザクロを絞った、ザクロサワーとでもいえるようなゆるめの酒だ。
鬼がいるような店ではまず出てこない部類の飲み物である。このあたりにも、お燐の店選びの確かさが出ている。
ちなみに2杯目だ(お燐はその間に二合徳利を五本空けている)。
「へへ、あのね。ほんとは、たまに飲んでるの。みんなには内緒にしてね」
「あらあ、すでに酒飲みだったか」
「母さんがどぶろく作ってるんだ。流しの下の瓶に入ってるんだけど、たまーに。お玉で一杯」
おくうは舌をぺろりと出す。
「ひひひ。いいねいいね。ばれないの?」
「お母さんとお父さんは時々一緒に仕事に行くんだ。その間わたし留守番なんだけど。今回みたいに。その間に、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、て我慢できるのはえらいねえ。あたいなんか酒はあったらあるだけ飲んじゃうからさ」
にやりと笑うと、お燐はおかみさんおかわりー、と徳利を振って見せる。6本目。
「うん、一回全部飲んじゃったことある」
「なにー!」
「頭がぐるぐる回って、立てなくなって、畳の上で寝ちゃった」
「そんで?どうなったの?」
「帰ってきた母さんに見つかって、すごい怒られた。庭の杉の木に縛り付けられて、水かけられちゃった。『二日酔いには冷たい水が効くんだよ。好きなだけ掛けてやる。頭を冷やせこのバカ娘』って」
「あっはっは。厳しいねー」
「でもあとでお父さんがね、『どうしてお母さんがあんなに酒強いかわかるか?あいつもな、子供の頃"練習"してたんだぞ』って教えてくれたの」
「うひひ。血は争えないねえ」
「うひひひ」
「良い笑い方だよー」
くっくとお燐は笑う。はいおまち、と持ってこられた徳利の中身をすかさずお猪口に注ぎ、のばした箸で軟骨の酢の物をつまむ。おくうも、モツの煮付けに箸をのばす。地上のものよりも若干赤みの強い玉ヒモ。甘辛い味付けにぷりぷりした玉の食感がおいしい。
「ほーらかんぱーい!」
「おー!」
もう何度目とも知れない乾杯。宴の夜は過ぎてゆく。
「ふにゃー」
「飲んだねえ・・・・お嬢ちゃんは良い酒飲みになるよ。保証する」
「えへっへへへ」
「やれやれ」
お燐は苦笑しながら、おくうをおぶって宿への帰り道について居た。
外は相変わらずにぎやかだ。日の射さない地底では昼夜の概念は非常に薄い。まして、このような歓楽街ではなおさらである。通りには常に喧噪があふれ、酔いどれ妖怪がそぞろ歩いているのだ。
「ねえ・・お燐お姉ちゃん・・・・」
「んー?」
「すっごくおいしかったー」
「あははは。気に入っていただけたのなら何よりだ」
「どうして・・・・こんなにしてくれるの?」
「んっ?」
背中からの問いに、お燐は首を巡らせて横目で声の主の顔を見る。おくうは目をつむり、今にも寝てしまいそうな穏やかな顔をしていた。声も、まるで寝言のような小さいものだ。
「こんなにって?」
縦に瞳の裂けた猫目が、じいとおくうの顔を見つめる。
「・・・・わたしを・・・・地底につれてきてくれたり・・・・こんなふうに・・・・ご飯食べさせてくれたり・・・・」
「それが?」
もぞ、とおくうが顔を上げる。
「わたし・・・・ただの女の子なのに・・・・」
「知り合いじゃないか、あたいと」
「そんなんで?」
「友達を招待して遊ぶことのどこがおかしいんだい?」
よっ、とずり落ち掛けたおくうをおぶい直し、お燐は言を続ける。
「嬉しかったのさ。なんだかね」
「・・・・?」
「半分は、あたいの勝手な気持ちの押し売りかもしれないけどさ」
「なにいってるの?」
「里で、たまたまあたいを見ていた女の子がいた。その子はたまたま、あたいの友達と似てた。だから、ちょっと興味がわいて話しかけてみた。そしたら彼女はたまたま、あたいを怖がらずに話をしてくれた。楽しかった。友達になった。一緒に遊びたくなった。それだけさ」
「・・・・」
「‥‥そう、『それだけ』。だから、何も気にしなくて良いんだよ。さ、宿に着いたら起こしてあげる。宿まではまだ少しあるから。あたいの背中で寝て行きな」
「うん・・・・ありがとう・・・・」
お燐は何も答えず、歩いていく。おくうは礼を言い終えると眠りに落ちたようだ。火車がその顔を振り返り見てみると、安堵した顔ですう、と寝息を立てている。
火車はその顔を確認すると、「やれやれ」とホッとした声で呟いた。唇の端を、吊り上げて。
暗い夜道におくうは一人立っていた。
周りを見渡すが、明かりはなにも見えない。風に鳴る梢の音。森の中だ。
くるりと振り向く。
月もない夜なのに、妙に明るい。闇の中から、墨絵のように木々が浮かび上がってくる。少しの観察の後、おくうはあたりが明るいのではなく、自分の目が異様に良くなっていることを発見した。
天空を見上げてみるが星は見えない。薄くたなびく雲はもやの様に空を覆っている。
むしあつい。
じっとりと汗ばんだ体。火照った体を冷まそうと、おくうは着物をばさばさと煽って風を入れた。
「あついの?」
小さな声がした。ぎょっとしつつも彼女は声のした方向を探す。
「ここだよ」
すぐ近くから声がする。でも、どこからかわからない。
「ここだよ」
くるり、くるりと辺りを見回す。静かなささやき声はからかうように「ここだよ」とくりかえす。小さな笑いを含んで。
「ここだよ」
「ここだよ」
不思議と怖くなかった。早くその声の主を見つけたかった。そして、見つけたら―――
「おはよおー!」
「んんっ」
威勢のいい声に、おくうは森の中から連れ戻された。夢を見ていたのだ。
「あ・・・・お燐さんおはよ・・・・んんんんー!」
「おおー、ばっちり二日酔いだねえ」
当然のごとく、おくうは二日酔いであった。頭が割れるように痛い。はだけた着物からは、昨晩の酒のにおいがまだ強く立ち上ってくる。そのにおいだけで酔っぱらいそうだ。
「あんた飲んだもんねえ。・・・・ひっひっひ」
「ううー」
良か良か、とお燐はおくうの頭をツンツンつつく。そのたびにおくうの口から呪詛がもれる。
「さ、風呂に入ろう。熱いお湯につかれば少しは楽になるさ。さあ、起きた起きた」
「お、押さないで、動かさないで・・・・!」
押されるまま引きずられるまま、おくうは風呂へと連れて行かれた。
二人の泊まっている宿は建物が中庭を囲んだコの字の形をしており、コの字の右側が通りに面しており、左側が温泉の流れる川、上下に他の宿屋といった配置になっている。
風呂はそれぞれコの字の上下の一辺の左端に男女分けて作られていた。二人が泊まっている部屋は下の一辺の一番左側、その二階である。つまり、一階に下りればすぐに風呂という場所である。そのとき、風呂場が女湯であればいいのだが、逆の場合は大回りをしなければならない。
風呂場がそれぞれ男女専用で動かさないのであればこの配置でも良いのだろうが、生憎とこの宿は男女入れ替え有りのため宿泊した妖怪からは不満の声があがっていた。そのために宿側は中庭に近道をつくり、アクセス性を確保した。
二人が泊まった日も反対側の風呂場が女湯であったため、二人は雪の降る中庭を突っ切って風呂場に向かっていた。
相変わらず空はぼんやりと明るく、遙か高い岩の天井からは雪が舞い降りてくる。あたりにはむせかえるような硫黄の匂いが漂っていた。
寝起きのためか、頭痛のためか、前を歩くお燐の背中を追いかけながらおくうは無言で風呂場へと向かっていった。揺れる二本の尻尾が時々手に触れる。付いてきてる?そんなお燐の声が聞こえるような仕草だった。
脱衣場には誰もいなかった。貸し切りだと喜ぶお燐に対し、おくうは相変わらず無言だった。服を脱ぐのにも一苦労。頭を極力揺らさぬように数珠を外し着物を脱いでゆく。しかし脱ぎ終わってホッとしているところをさあ行くよ、とお燐に背中を押され、おくうはたまらずうめき声を上げたのだった。
「あああああー、いいわー」
「あああー」
白濁した熱い湯に浸かりうなり声をあげる二人の少女。しかもほんのり酒臭い。とてつもなくオヤジ的なだらしない行為であるが二人はそんなもの気にしてはいなかった。
「やっぱり温泉はこうでないとねー。あつーいお湯に湯の花たっぷりの白いお湯。サイコーだ」
「おゆがあったかくてとってもきもちいい・・・・」
「ねえ、そう思わないかい、嬢ちゃん」
「そういうものなの?」
「あれ、不満とおっしゃる?」
「ううん、私温泉初めてだから・・・・」
「あら、そうなのか。なら教えてあげるよ。これが温泉だ。どうだい、良いだろ」
「うん。お湯も白くてきれい。なんか変な匂いするけど」
「なれりゃあ大丈夫さ。いい匂いに変わるよ」
「ふーん・・・・」
ぱしゃぱしゃと顔を洗う。顔を拭った手のひらをみておくうはぎょっとした。手に化粧の紅が付いたのだが、化粧をしたときの乾いた血の色ではなく、まるで流れたての血のような明るい赤に変わっていたのだ。
「お、おりんさん、やっぱりこれってまさか本物の・・・・」
「あ、それね。・・・・そだよ」
「―――!」
「冗談です」
「お燐さん!」
「あはは、おこらないでよ。濡れたらそうなるのさ。鉄臭くないだろ?それ。本物の紅だよ。大丈夫大丈夫」
「もう!」
「元気になってきたねー。どうだい、地底の湯は。打ち身切り傷おできに流感、胃潰瘍から二日酔いまでなんでもござれだ。妖怪だってあっという間に元気さ」
「すごーい!」
「むねもでっかくなるでよ」
「ちょっ・・・・!」
わしわし、もみもみ、ぎゃあぎゃあ。二人はしばし酔いも忘れて温泉を満喫した。
6.地獄の土産
地底に太陽はない。人工太陽というのが今はあるので、正確には「本物の太陽はない」なのだが。
朝日を拝み、夕日で家に帰る生活をしていた地上人のおくうには、いつでもなんだかぼんやり明るい地底ではどうにも時間が図りにくい。二人のとまった旅館の大広間には、カラクリ仕掛けの大時計があったのだが、これが地上の時間と同じかどうかは分からない。
要するに、今日は日曜日なのだろうけども正確な地上時間は分からないのである。
散々飲んで眠って温泉に浸かり、部屋に戻ってきてまた一眠りしてしまったおくうは、今が一体何時かわからないということに、遅めの“朝ごはん”を食べながらぼんやりと気が付いたのである。
「ねえ、お燐さん」
「なんだい」
名前も知らぬ小魚の焼物をつつきながら、おくうは朝っぱらからお茶代わりに酒を啜るお燐に時間のことを尋ねてみる。お燐は「だいじょうぶだよー」と笑った。
「気にしなくても大丈夫さ。今はね、だいたい日曜の昼くらいかな。夕方までには家に帰れるから、心配しなさんな」
「どうしてわかるの?」
「腹時計」
「‥‥」
毎度毎度胡散臭いお燐の言動だが、今度も大概だった。眉間にしわを寄せるおくうに、お燐は「おおう」と慌てて手を振ってとりつくろう。
「いや、信じとくれよ。きっちりわかるんだって。心配なら大広間に時計もあっただろ?あれ、大昔に河童が作ったものなんだ。時間もきっちりあってるから。ね」
「‥‥」
「ほんとだって。じゃなきゃ、あたいがどうして毎晩毎晩決まった時間に里の上を飛べたって言うんだい?」
「!」
ここに来るきっかけを作った、毎夜のお燐の定期便。それを思い出し、おくうは「だよね」とようやく納得した。
「さて、ご飯を食べたら、街に出かけようか。おみやげ、買ってあげるよ」
「いいの!?」
「もちろん。でも、地獄のお土産だからね。お母さんたちには内緒だよ」
「うん!」
節くれだった骨の付いたあぶり肉を齧り、おくうは満面の笑みでご飯をかき込んだ。
相変わらずのぼさぼさ頭で、地獄鴉の衣装で歯を見せて肉を噛みちぎるおくうの様子はどうみても妖怪のままで、お燐はまた「いいねえ」とつぶやいて酒を啜っていた。
薄暗い通りに面した軒先に、人魂の提灯がぶら下がる。赤と青の光に照らされた地獄の住人達が、淡雪の振る通りをそぞろ歩く。
旧都の大通りは、相変わらずお祭りでもやっているかのような賑やかさだった。
鬼や、妖獣、異形の者たちが歩く中をかき分け、お燐とおくうは通りを進んでいた。これだけたくさんの妖怪の中に人間の娘が居るというのに、誰も、お空のことを気に掛けない。時たま、お燐の顔見知りと思われる妖怪達が声をかけてくるくらいなうえ、彼ら彼女らにはおくうは完全に地獄鴉の女の子として扱われていた。最初のうちはいきなり頭を撫でられ、「お空ちゃんそっくりー!」などと目の前でぎゃあぎゃあ騒がれる度に寿命が縮まる思いだったのだが、それが何回も続くとさすがに慣れてくる。今ではにっこり笑って、朝食の御膳から持ってきたあぶり肉の骨をしゃぶる様子を見せたりして、ちびっ子妖怪ぶりを存分に楽しんでいた。
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「‥‥なんか、クサい。おくうちゃん、怖い匂いがする」
「え」
たっぷりお湯を浴びて、匂いを落としたはずだったのに。おくうはあわてて自分の腕に鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。しかし、別に変な匂いはしなかった。
「そう、かな」
「うん‥‥なんていったら、いいんだろ。あのね、なんか、空気が、っていうか、雰囲気が‥‥
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「あいつ?まずいよ、やめときな。地底一の変態さ。筋金入りのネクロフィリアだよ――――」
軽の声とか描写がすごく繊細でこだわりを感じました。
新鮮な距離感と関係の時間がゆったりと描かれててとても癒されました