――0――
「あの、咲夜さん」
きっかけは些細なことだった。
普段よりも少しだけ、行動が遅い。
普段よりも少しだけ、動きが鈍い。
普段よりも少しだけ、疲れているような、気がした。
「美鈴? どうしたの?」
けれどそう思って声をかけてみても、咲夜さんは普通だった。
少しだけ、少しだけ、そんな風に思っていた姿は消え失せ、いつもどおりの咲夜さんの姿がある。
だから。
「いえ、なんでもないです」
だから、否定してしまった。
「そう? 変な美鈴ね」
だから、私は、誤魔化してしまった。
「あはは、ごめんなさい」
「もう。寝ぼけないでよね」
まるで何事もなかったかのように。
――どこかで、カチリ、と何かが動く音がした。
融界のテラー
――1――
今日という日の始まりは、「特にいつもと変わらない日」だった。
いつものようにのんびりと仕事が出来る程度の、暑くも涼しくもない一日。侵入者が現れるわけでもなく、いつものようにのんびりとした一日。
今日もまた、昨日のような日々が続くと信じて疑うことのない。そんな、一日だった。
そんな一日に、なるはずだった。
「え? 咲夜さんが怪我?」
廊下で咲夜さんの姿を見かけて、そのまま何も言わずに別れて半日ほど時間がたったころ、妖精メイドに告げられた言葉に耳を疑った。
古参の妖精メイドだ。咲夜が怪我をしたと聞いて居てもたってもいられなかったのだろう。
「はい。……と言っても、大怪我とかじゃないんですよ! ただちょっとらしくない怪我だったので、お嬢様もご心配されていて……」
妖精メイドの言葉が言い終える前に、私は咲夜さんの自室へと駆け出していた。
らしくない怪我。お嬢様も心配。もしかして、という言葉が胸の中を駆け巡る。
「……気づいていたのに」
走りながら、呟いた言葉が棘のように胸に突き刺さった。
一目見て咲夜さんの様子がおかしいということになんか気が付いていたのに、気のせいだと自分を誤魔化して流してしまった。
「咲夜さん!」
胸に突き刺さる後悔の痛みを誤魔化すように、扉を開く。
いつものメイド服ではなく、青と白のストライプの寝巻に着替えて、ベッドで上体を起こしている咲夜さん。
その右手は、痛々しい包帯で覆われていた。
「め、美鈴? ちょっとあなた、ノックくらい――」
「怪我は大丈夫なんですか!?」
「――はぁ、まったく。大したことないわよ」
私がベッドに近づくと、咲夜さんは苦笑しながら右手をぷらぷらと振る。痛そうな様子はない。ないが、まったくの軽傷というようにも見えなかった。
「なにが、あったんですか?」
「なにがって、割れた花瓶を片付けようとして手を切っただけなのだけれど――そんなことも知らずに来たの?」
言われて、気が付く。
妖精メイドの話が終わる前に走り出してしまったせいで、私は事の詳細を何も知らずに飛び込んでしまったのだ。
「うぐっ、ご、ごめんなさい」
私が項垂れると、咲夜さんは眉を寄せて困ったように笑う。
「責めてるわけじゃないわ。お見舞い、ありがとう」
「い、いえっ! 私は何かできているわけでもないですし……」
「それは誰でも一緒。なにせ、なにかしてもらうほどの怪我じゃないんだから」
咲夜さんはそれに、「お嬢様も小悪魔も心配しすぎなんだから」と、拗ねたような口調で続けた。
咲夜さんが説明するところによると、新米の妖精メイドがうっかり割った花瓶を片付けてイル最中にうっかり掌を切ってしまったのだという。確かに咲夜さんらしくもないミスだし、そんなミスをすればお嬢様がご心配されるのも理解できる。
「お疲れ、だったんですか?」
「そんなことはないわ。もう、美鈴も気にしすぎよ」
「あはは、ごめんなさい」
無理に笑って誤魔化して、少しだけ雑談をしてから部屋を出る。
お大事に、なんて言葉を残して笑顔で扉を閉じて。
「はぁ」
思わず、扉を背にへたり込んだ。
「気づいたときに止めていれば、なにか変ったのかな?」
繰り返し自分に問うても、なにも変わらない。
起こったことはやり直せないし、この想像に意味はない。それでも考えてしまうのだ。もしもこんな小さな怪我じゃなくて、大きな怪我を負ってしまっていたら、と。
在り得たかもしれない、そんなことを。
「ここにいても、邪魔になっちゃうかなぁ」
ここまで気にしている、と咲夜さんに思われたら、それこそ咲夜さんの負担になってしまうことだろう。それがよく理解できたから、私は誰かに見つかる前にと気合を入れなおして立ち上がった。
今日の後悔は今日で終わらせる。明日からまた、後悔が減るように頑張ろう。そう思って、足取り重くも自室に向かって歩き出した。
「あれ?」
そうして自室に向かう途中、廊下の端に落ちているものに気が付いた。
銀色……というより、くすんだ鈍色の懐中時計。咲夜さんのものと形こそそっくりだが、色合いはまったく違う。
「明日、咲夜さんに見てもらえばいいかなぁ」
そんなことをぼやきながら、懐中時計をポケットにしまう。
部屋につくころにはもう、懐中時計のことは頭の隅に追いやって、体をベッドに預ける。
――そしてまた、どこかでカチリと音が鳴った。
――なにかが蠢きだすような、音が。
――2/一日目――
水面から浮き上がるように、唐突に目が覚めた。
「ゆめ……夢?」
頭を振って起き上がる。窓の外は昨日と同じ快晴だった。確か、なにか夢を見ていたと思ったのだが、いくら頭をひねっても思い出せない。きっと、その程度のものだったのだろう。
水桶から一杯掬い飲み干すと、自然と靄のように残った眠気も消えていた。一日の始まりがもやもやとしたものだったら、きっとどこかで調子を崩してしまう。
「さて、今日はなにをしようとしていたんだっけ?」
こんなことだから、咲夜さんに怒られる。
そんな風に苦笑をしながら部屋を出ると、慌ただしく働いていた妖精メイドにぶつかった。
「おっと、ごめんね」
「あわわ、ごめんなさい!」
頭を下げて走り去っていく妖精メイドの姿を見送ると、私は少しだけずれた帽子を整える。あの妖精メイドはなにかミスでもしたのだろうか。
「あの子、怒られたのかな?」
そんな風に苦笑しながら考えていると、ふと、奇妙な既視感を覚えた。以前にも似たようなやり取りをした気がする。
パチュリー様によると、既視感とは頭の中で記憶を整理するときに起こるもので、予知能力とはまったくの別物らしい。ということは、私は似たような光景を見たことがあって、それを知っている光景だ、なんていう風に錯覚してしまったのだろう。
「あ」
つらつらとそんなことを考えていると、窓枠から侵入しようとしてきている氷精の姿を見つけた。
また、既視感。何度も起こるなんて珍しい。余計なことを考えながらも、氷精の首根っこを掴んで確保。仕事はきっちりしないと、“また”咲夜さんの負担に――
「ん?」
「ん? じゃなくて、はーなーせーっ!」
「あ、はいはい。ほらっ」
喚く氷精を窓の外へ放り投げると、彼女は空中で器用に回転すると、悔しそうに舌を出しながら飛び去った。あの子も可愛げはあるのだけれど、どうにも短慮というか。
「そういえば、さっき、なにか違和感が……あれ?」
既視感。
違和感。
喉の直ぐ下まで出てこようとしているなにかが、鈍い鎖に囚われているみたいに出てこない。
その正体を引き上げる前に――
「美鈴さん!」
――カチリと、そんな音が響いた。
「どうしたの?」
古参の妖精メイド一人だ。
息を荒げて、必死に言葉を紡ごうとしている。
「どうしたの?」
――既視感。
「あ、あのっ」
――既視感。
「メイド長がっ」
――既視感。
「職務中に、その」
――既視感?
「怪我をして!」
――本当に?
気が付けば、走り出していた。
どくどく、どくどくと早鐘を打つ心臓の音も、今は煩わしい。
ただただ、足を速める。既視感であって欲しいと、何かの冗談であって欲しいと、願いながら走って――
「咲夜、さん」
――白いシーツの上、状態を起こす姿。
「め、美鈴? ちょっとあなた、ノックくらい――」
「怪我! 怪我は、大丈夫なんです、か?」
「――はぁ、まったく。大したことないわよ」
似たようなやり取り。
いや、違う。もうこれ以上目を逸らす事なんてできない。
私は、この“光景を知って”いる。
そのあと、どうやって部屋に戻ってきたのか覚えていない。
咲夜さんを気遣い、それから? それから自分がどうやって一日というサイクルを終えたのか、思い出せなかった。
だが今になって考えてみれば、予知夢のようなものだったのかもしれない。
そう考えると、矛盾もなくすんなりとこの状況を理解することができた。
「なんだ、あはは」
ベッドに体を横たえながら、一息つく。
ようやく心を落ち着かせることができたような、そんな気さえした。
「明日は、パチュリー様に……」
明日になったら、パチュリー様にこのことを相談しよう。
それから咲夜さんと一緒に笑い話にでもできれば、それで良い。
そんなことを考えながら、私はゆっくりと眠りについた。
――カチリ
――2/二日目――
目が、覚めた。
今度ははっきりと、昨日の奇妙な体験のことを覚えている。
「なんだったんだろう、あれ」
予知夢を見る才能だなんて、そんなものは持っていなかったはずだ。けれど現に予知夢を見て、そのとおりのことが起こった。
「なにかの予兆? うーん」
考えても仕方がない。水を一口飲んで目を覚ますと、早々に着替えて部屋を出た。まずは咲夜さんの調子を見て、あとのことはそう考えればいい。
「きゃっ」
「おっと、大丈夫?」
「あわわ、ごめんなさい!」
ぶつかってきた妖精メイドをいなして見送ると、踵を返して歩き出す。
「あれ?」
そのまま進もうとしたところで、ふと、足を止めた。
――既視感。
「今のって、確か」
どくどくと、心臓が跳ねる。
手に汗を握り、気が付けば走り出していた。
窓枠に手をかけていた氷精を押し出し、廊下を走り抜け、こちらに向かってくる見覚えのある顔を視界に収めて――
「あの、美鈴さん! ちょうどよかった! その、メイド長が」
「怪我を、した?」
「えっ、あ、はい、ご存知だったのです……美鈴さん?!」
――崩れ落ちた。
咲夜さんのお見舞いをすることもできず、おぼつかない足取りで自室に戻ってきた。
未来予知? 既視感? そんな単純で気楽な話ではない。昨日と同じ日が、それも、後悔に駆られた日が続くなんて、それは悪夢の中に囚われているのだと理解した。
「どうすれば」
自分でも驚くほど、掠れた声が零れる。
今寝てしまったら、また今日と同じ明日が続くのだろうか。
「どうして、こうなったんだろう?」
思い当たる節はないかと、記憶を探ってみる。“三回目”だということだけはわかる。なら問題は、“一回目”にあったということか。
「うーん、わからない。でも……」
時刻は、夕方の六時。長針と短針が綺麗に時計を割っていた。まだ、“次”までには猶予がある。
一人で考えてもわからないことは、どれだけ考えてもわからない。ならどうすればいいか、なんて、簡単だ。
飛び出すように部屋を出ると、一直線に駆け出す。
目指す先は紅魔館地下。大図書館の主、パチュリー様の下だ。
――と、その前に、やっぱり心配だから咲夜さんのお見舞いだけ行っておこう。
――/――
「胡蝶の夢、かしら」
足を踏み出すたびに、静謐な空間に靴音が響き渡る、大図書館。
その奥に佇む図書館の主、パチュリー様に私がことのあらましを説明すると、彼女はそんな風に呟いた。
胡蝶の夢といえば、ちょうど私の故郷に伝わる言葉だ。思想家であった壮士が蝶になる夢を見て、今ここにいる自分は夢から覚めた自分であるのか、それとも蝶が見ている夢なのか、と唱えたという。
「つまり、私の夢、ということでしょうか?」
「可能性としては在り得なくもないわ。そうすると今ここにいる私も美鈴の夢の中の登場人物、ということかしら? それは癪ね」
このまま語らせてしまうと、きっと検証を始めて自分の世界に帰ってこなくなる。私はそう、慌ててパチュリー様の言葉を遮った。
「ええとつまり! どうすればいいのでしょうか?」
「そうね……まずは本当に夢かどうか検証すればいいんじゃない?」
「でも、どうやって?」
この奇妙な状況は、「寝ればリセットされる世界」に居るようなものだ。立証のしようがない。そうやって頭をひねる私に、パチュリー様はこれ見よがしにため息をついた。
「はぁ……まったく。起きてたら良いじゃない」
「へ?」
「貴女、妖怪なんだから一日二日寝なくても問題ないでしょう?」
「あ」
言われてみれば、そのとおりだ。
別に寝なければならない理由もない。確かに、だったら明日まで起きていたらいい。まったく思い浮かばなかったことに、私は赤面してしまう。
「試しに、私と朝まで話してみるのがいいわね。実験……んんっ、検証も色々としてみたくもあるしね」
「今実験って言いましたよね?!」
「はいはい、我儘言わない」
「我儘?! ちょっ、パチュリー様?!」
パチュリー様は、魔法で私を縛り付けると、そのままずるずると引きずっていく。私はそれに抵抗らしい抵抗をする暇もなく、パチュリー様の実験室へと運ばれるのであった。
――2/三日目――
――朝。
「あー」
ぱちりと目が覚めて、第一声はそんな気の抜けた言葉だった。
結局夜中までパチュリー様と過ごし、午前零時になった瞬間――瞬きの間に私は“自室で寝ている”状態へと帰ってきた。つまり、朝まで過ごすことなど、どうあってもできなくなっていたのだ。
「でもこれで、一つ分かった」
少なくとも“これ”は、夢なんかじゃない。そんな単純な話ではないのだ。
今自分がいるのがどんな状況なのか、紙に書きだして考えてみる。
「まず『必ず咲夜さんが怪我をした日に戻る』」
何度も繰り返す“今日”という一日。
その始点は、珍しく咲夜さんが怪我をしたという、非日常だ。
「それと、『どこに居ても午前零時になったら意識が途絶え、戻る』」
考えれば考えるほど、解決の糸口が遠ざかる。
今わかっていることといえば、この二つだけ。たった二つのことでなにをどううればいいのだろうか。
「とにかく、もう一度パチュリー様にご相談してみよう」
席を立ち、扉を開ける。
すると、いつもと同じように妖精メイドがぶつかってきたので、軽く避けて図書館へ足を向け――
「あれ?」
――違和感に、気が付いた。
私は、少なくとも一時間近く部屋で解決方法を考えていたはずなのに、なぜ“部屋から出て直ぐに”妖精メイドとぶつかったのか。彼女にぶつかるのは、“朝起きて”数分後だったはずなのに。
違和感。気持ち悪さにふらつきながら、後ずさる。そして、震える手でポケットからコインを一枚取り出して。弾いた。
「っ」
そしてコインが落ちる前に、素早く部屋に戻る。
扉を背に、何分すぎただろうか。一分? 二分? もう十分はたったかもしれない。
これで廊下にコインが落ちているか、もしくはコインが誰かに持ち去られていたらいい。この繰り返しは必ずしも同じ状況ではないと、そう立証されるだけだ。
けれど。
ドアを開け放った先。
視界の中。
地面に“落ちていく”コインを見て、凍り付く。
ノートに書くことが増えてしまった。
扉を出なければ、外の時間は進まない。私は私の部屋ごと、囚われたのだ。
――/――
部屋の中で蹲り、少しだけ落ち込んだ後。
私は大きく深呼吸をして立ち上がった。
なんていうことはない。新しくわかったことが増えたという、たったそれだけのことだ。自分にそう言い聞かせると、自然と体の震えは取れて、早鐘を打っていた鼓動も落ち着いた。
部屋を出て地面の上でくるくると回るコインを拾い上げると、もっと詳しく検証しようと考える。
「部屋の時計は動いていた。けれど、景色は“晴れ”のまま」
混乱しすぎて夜になっていないことにも気が付いていなかった自分が、今は少し恥ずかしい。
時計は確かに動いていて、零時を指すと意識が落ちる。ということは部屋の中でどれだけ蹲っていても、時間を無駄にするだけでなんの益にもならないということだ。
「まいったなぁ」
判明するのは、わかっていてもどうしようもないものばかり。
足を図書館の方へ向けながら、呻ってしまう。前回は実証するだけで終わってしまったが、今ならもっと踏み込んだ話ができるのではないのだろうか。
「とにかく!」
あえて声を上げて、その勢いで顔と気持ちを持ち上げる。目の前にあるのは、図書館に続く荘厳な扉だ。
「パチュリー様!」
私はそう、怒られてしまうことも覚悟の上で扉の中へ飛び込んだ。
『胡蝶の夢』
呟いた言葉が綺麗に重なると、パチュリー様は眠たげな瞳をほんの少し持ち上げた。
「……美鈴。私とこうして話すのは、“何回目”?」
「“二回目”、です」
「そう。なら、夜まで一緒にいるのは、やったのかしら?」
「はい。意識が飛んで、戻りました」
事のあらましを説明して、同じような流れ――もっとも今回は、お仕置きで私の体が少しだけ煤で汚れているが――になると、パチュリー様はすかさず回数を尋ねられた。
たったこれだけのことで問題にたどり着いてくれるのだから、説明が楽で申し分ない。
「他には?」
「部屋の時間の流れが外と隔離されています。時計は動きますが」
「なるほどね」
パチュリー様はそれだけ言うと、ぱちりと指を鳴らした。すると数冊の本が彼女の前に現れて、ふわりと落ちる。
「時間の流れ。本来は咲夜の領分なのだけど、今は咲夜も疲労で能力がうまく使えないようだし……」
初耳だった。
けれど、少し考えればわかったことだ。ちょっとしたものとはいえ、怪我をするほど疲れていたのだ。今は能力の使用どころではないのだろう。
「そうね……なら、基点を探しなさい」
「基点、ですか?」
「そう。時間の隔離、そして逆行。どれも簡単には出来ない高等技術よ。ならそこに基点があるはずだわ。だから貴女はその基点を探しなさい」
言われてみれば、そうだ。
そんな高度な技術を使うのなら要となるものは必要なはずだ。ならその要がなんであるか探して見つけてしまえば、光明となるだろう。
「でも本当に見つかるか……」
だが、そんなものはないという可能性も少ないかもしれないがあるだろう。そうなったときにどうすればいいか。
「良いじゃない」
「?」
悩む私に、パチュリー様は紅茶のカップを持ち上げながら、そういった。
「“時間”はたっぷりあるんでしょう?」
言われてみればそのとおりではあるが、そんな簡単に言ってのけられるとどうしていいかわからず、私はただパチュリー様に苦笑を向けることしかできなかった。
――2/七日目――
「あった」
茫然と、そう呟く。
自分の部屋に始まり、床下天井裏窓枠、さらに屋敷の中まで駆け巡り諦めかけていた時だった。六日目の夜にベッドでごろごろしながら見つからないストレスで呻り声を上げながら寝て、翌日。何気なく漁ったポケットの中から出てきたのは、錆びた懐中時計だった。
その懐中時計は何故か秒針だけ動いていて時針と分針は動かず止まっている。その上、触っていればそれだけで“なんともいえない気持ち悪さ”を感じるという代物だった。これで怪しくないはずがない。
私は部屋を出ると、一直線にパチュリー様の下へ走る。
ぶつかりそうな妖精メイドを交わし、氷精が窓枠を乗り越える前に押し戻し、図書館までの階段を駆け下りた。
「パチュリー様!」
「うひゃあっ、美鈴さん?!」
「ごめんこあちゃん! パチュリー様にお会いしてくる!」
気が逸る。
ここまできて、初めて見つかった“鍵”と呼べるものの存在だ。気が逸るのを止められるはずがなかった。
図書館の中央。
静謐と佇む魔女。
その荘厳な空気を打ち崩すかのように、私は勢いよくパチュリー様に飛びついた。
「で?」
“お仕置き”されて焦げ付く私に、パチュリー様は苛立ちを隠そうともせずにそう言い放つ。私はそんなパチュリー様に平身低頭しながら、彼女の質問に口を開いた。
「奇妙な事件に巻き込まれています。お知恵を貸していただけないでしょうか?」
「へぇ? ものを頼む態度には見えなかったけれど?」
「え、ええっとそれは……ごめんなさい」
私が深々と頭を下げると、パチュリー様はこれ見よがしにため息をついてから、私に視線をよこす。その視線は「つまらないことだったらロイヤルフレア」と語っているかのようだった。
「ええとですね。実は私、“今日”こうしてパチュリー様とお話するのは三回目なんです」
パチュリー様は、もう、これでもかというほど憐れむような視線を向けてきた。
そうして私に向かって口を開かれるその言葉に――
「そう、なら」
「永遠亭は、領分が違うと思います」
「永遠亭……っ」
――被せる。
「い」
「異変かどうかも、まだわからないです」
「さく」
「咲夜さんは疲労で、お力を頼れません」
パチュリー様は見定めるように目を眇めると、一息ついて、ゆっくりと口を開いた。
『胡蝶の夢』
合わさる声。
それですべて悟ったのだろう。パチュリー様は少しだけ好奇心を覗かせた瞳で私を見た。
「三回目といったわね」
「はい」
「なら、今日は何回目?」
「七……いえ、八回目です」
「そう。試したことは?」
「書いておきました」
私の“わかったことメモ”に、パチュリー様は目を通す。それだけで現況を把握しきったのだろう。パチュリー様は私に続きを促す。
「で?」
今度の「で?」に先ほどまでの冷たさはなく、むしろどこか熱を含んだような声だった。
「これが、“パチュリー様”に言われて探してきた、“要”……だと思われるものです」
「ふぅん?」
パチュリー様に懐中時計を渡すと、彼女はそれを手にまじまじと眺め始めた。ひっくり返してみたり、開けようとしてみたり、ちょっと舐めてみたり。
「これを持っていると、貴女はどう感じるのかしら?」
「うーん。なんともいえない気持ち悪さです」
「そう。私はなにも感じないわ」
私だけ、気持ち悪く感じるということだろうか。
そう首をかしげていると、パチュリー様はそんな私の内心を読んだかのごとく首を横に振った。
「違うわ。私はこの懐中時計になにも感じない。魔力も妖力も、“触感”や“気配”すらね」
物には気配がある。正確に言えば存在感と呼べるべきものだ。そこになにか物があれば、それを感じ取ることができる。けれどパチュリー様は、それが感じ取れないのだという。
「なるほど。それで舐めてみたのですね」
「ええ。まるで空気の塊を舐めているよう。抵抗感はあるけれど、質感すらないのだもの」
それではまるで、“存在しないもの”ではないか。
そう考えてみると、背筋に冷たいものが奔る。なぜ私はこんなものを拾ってしまったのか。咲夜さんのことで落ち込んで、眼下に偶然落ちていた懐中時計。気になりもって帰ってしまったのが、運の尽き。なんの因果か、私はこうして縛られている。
思わず脱力して、冷たい机に身を預ける。動き回ることで誤魔化してきたが、心のほうにガタが出始めてきたのかもしれない。
「絶望には早いんじゃない? 今ようやく、糸口を見つけたところでしょう?」
パチュリー様にそう言われて、ハッと顔を上げる。
言われてみればそのとおりだ。私は今ようやく糸口を見つけた。そこからまだ何も動いていないし、何も調べていないし、何もわかっていない。
「眠り姫の糸車は、真実の愛に打ち破られた。貴女の見つけた糸口は如何様な真実に打ち破られるのか。そうね、研究材料として悪くないわ」
パチュリー様はそう言いながら、備え付けの時計を見上げる。そして力強く微笑んで見せた。
「まずは検証できることを全て検証してしまうわよ、美鈴。それでもだめだったら、貴女にとっては心苦しいことだろうけれど、レミィに相談しなさい」
確かに、自身の不始末をお嬢様にご相談するのは心苦しい。
けれどパチュリー様が全力を尽くしてくださるというのだ。ならば私の心苦しさなどどうでもいい。
「あの、パチュリー様」
「なによ?」
「ありがとう、ございます」
「ふん。貴女のためじゃないわ。私自身の好奇心のためよ」
そういって背を向けるパチュリー様の髪の間から見える耳は、林檎のように赤くて。
私はその背中に深々と礼をすると、懐中時計片手に歩き始めた彼女の後ろを追いかけた。
検証その一。
「まずは、そうね、耐久力を試しましょう」
「耐久力、ですか?」
「そう。壊れそうな段階を調べるのよ」
パチュリー様はそういうと、懐中時計を魔法で吊るす。それから、今度は懐中時計に弾幕を当て始めた。
「まずはeasy」
小さな土弾が懐中時計に直撃する。けれど懐中時計は傷一つつくことなく宙に佇んでいた。
「normal」
今度は水弾だ。水の弾丸が勢いよく発射されるも、ピクリともしない。
パチュリー様はそのままハードに雷弾、ルナティックにアグニシャイン上級とぶつけるものの、結局、懐中時計が動くことはなかった。
検証その二。
「帰巣能力があるかどうか、かしらね」
パチュリー様はそう言うと、何語か聞き取れない呪文を呟き、空間に“孔”を開ける。異変の時に相対したことのある八雲紫の使うようなモノと違い、規則正しく真四角に開けられた孔だ。
「この空間は私の荷物入れ、みたいなものよ。私しか取り出せないし、私しか入れられない」
パチュリー様はそう言いながら、懐中時計を孔の中に放り込む。すると懐中時計は重力に従い落ちていき、音もなく孔が閉じた。
「これであの懐中時計とあなたは、空間的に断絶された訳なのだけれど……」
「おお、すごいです!」
思わず、パチパチと拍手をしてしまう。
けれどパチュリー様の目は厳しいままだ。
「本当に断絶されているのか、確かめてみなさい」
「確かめるって……」
言われても、困る。
そう口に出そうとして、私はふと違和感を覚えてぴたりと止まった。
ポケットの中。先ほどまではなかったはずの、微かな重量感。震える手で私が“懐中時計”を取り出すと、パチュリー様は大きくため息をついた。
「帰巣本能もばっちり。しっかり、親元に戻ってくるようね」
「ぜんぜん、嬉しくないです……」
つまり、たとえロイヤルフレアに放り込んでも壊れず、三途の川に投げ入れても手元に戻ってくるということだ。判明したところでまったく嬉しくない。
「そう悲観しなくても良いわよ」
「へ?」
私が顔を上げると、パチュリー様はいつもの、ちょっとだけ不機嫌そうな顔で頬杖をついていた。その瞳はどことなく優しげで、また、どこか悔しげでもある。
「そこまでしても壊れなかった以上、それが要であることは間違いないわ。その上、“破壊や手放す”と言った方法は意味をなさず、存在が感じられなかった以上は私が魔法で操作する力も及ばない」
――ここまでわかれば、心置きなくレミィに頼れるでしょう?
そう苦笑したパチュリー様の言葉に、思わず目頭が熱くなる。
時計を見れば、もう十一時を回っている。そろそろ、もう一度“今日”がやってくることだろう。それまでの間に自分自身の手で解決できなかったことは、パチュリー様のことだ、悔しいに違いない。
なのに、パチュリー様は、私を案じてくれた。
「美鈴」
「はい!」
返事をする。
もう、そこまで時間はない。
「私には“次”のことはわからない。だから、“今”の私は貴女を応援してあげる」
パチュリー様はくるりと振り向き、手を振る。
「だから、頑張りなさい。美鈴」
そしてその耳はやっぱり、ほんの少し赤くなっていて。
「はい! ありがとうございます!」
私にはそれが、たまらなくうれしかった。
“次”こそは乗り越えてやる。
それがだめでも、その次こそは。
そんな風に決意を固めながら、私の意識はまた、ゆっくりと闇に落ちていった。
――2/八日目――
――また、目が覚める。
今回で“今日”目が覚めるのは九回目だ。そう考えると、自然と気持ちは重くなる。もう、この扉を開ければ“何もなかった”今日がはじまる。
私が咲夜さんの元へ駆けつけたことも、パチュリー様と様々な検証をしたことも、すべては泡沫。胡蝶の夢のように不確かなものへと変わり、文字通り無かったことになる。
それがどうしようもなく怖くて、ドアノブを握る手がカタリと震えた。
「あ、ああ」
また?
またって、いつまで?
また、いつまで、続く?
また、いつまで、この永久の牢獄が――
『だから、頑張りなさい。美鈴』
――不意に、脳裏で声がした。
それは、とっくに“無かったこと”になったはずの声。
涙を流してしまうほどに嬉しかった、自分を応援してくれた人の声。
「そう、だった」
たとえ、あの瞬間が“無かった”ことになってしまったのだとしても、“あの瞬間”のパチュリー様の言葉と、声と、心は薄れることなく残っている。それなら私は、あの時に固めた意思でもって進むだけだ。
「よし、今日も一日、頑張ろう」
妖精メイドを交わしながら向かう先は、我が敬愛すべき主君の部屋。
レミリアお嬢様の玉座だ。
ループもので特有の適度な緊迫感がやはりあって、ハラハラさせられました。
それにしてもパチュリー様が有能すぎて頼もしい…
美鈴とパチュリーの掛け合いも面白くてすごく好みです