正直に言おう。私は今非常にイラついている。
ちょっとこれは体験したことがないぞ、自分でも未知の領域だぞ、というくらいだ。
普段から気の短いほうではない。私にだって、ちょっとしたからかいの言葉を買って、大げんかをしないだけの分別はある。
だけど、それでも、限度があった。生来温厚なほうではないが、それにしたってこれはない。
いきなり何を言い出すのか、と疑問に思う向きもあるかもしれない。説明するのも億劫なので、まずはこいつを見てほしい。
私の目の前に座っている、ご主人様こと寅丸星の言動である。
「ナズーリン。私には、どうしてもわからないのです」
ご主人様は俯きながら、膝を揃えて座っていた。
正座はぴしりと決まっているのに、しゅんと背を丸めているから、どうにも情けない感じを受ける。
「この世にひとたび生を受け、長いこと過ごしてきましたが、やはりわからないことばかりで」
そうなんですかそれは大変ですね、と適当に相槌を打ちながら、胸中に渦巻き続ける感情にどうにかこうにか蓋をする。
ああ、もう。どうして私が悩んでいるのか。
見ているだけでもどかしい。さりとて、答えを教えるのも業腹だ。
それというのにあの人は、眉を下げながら私に問うのだ。
「この気持ちは一体何なのでしょう。ナズーリン、賢い貴女なら、答えを見つけられるのでしょうか――」
知るか。私が良心を保っているうちに、その口を閉ざしてほしい。
「私にはわからないのです。こんなに苦しく、こんなに醜い気持ちなんて」
あるまじき事、と彼女は言った。あってはならぬのだと。
私だって同感だ。こんな感情、あなたには似つかわしくもない。
「そしてこんなにも、不埒な悦びに満ちた気持ちです。それを考えるだけで、私の頭はいっぱいになってしまうのです」
そんな事より、あなたにはもっと別のことで頭をいっぱいにしてほしい。
「――ああ、でも! そう判っていても、それでも私はその気持ちを持ち続けているのです。仏の偉大なる教えのように、他のあらゆる感情のように、いつか理解できる日が来るのだと信じながら。……ですが、待ち続けることはかくも苦しく、辛いものだったでしょうか」
そうだろうとも。丁度私があなたに抱いているこの気持ちのように、それは独りで抱え続けるには辛く。
「考えるたびに、どこかがきゅっと締まるようで、そんな時は無性にさびしくなって、ぞっとするほど悲しくなって、どうしようもなく泣きそうになって」
知っているとも。それが何であるのかくらい、私でなくても恐らくわかる。
「そんな時はいつもなぜか、あなたの顔が浮かぶのです。お願いです、ナズーリン。私にどうか教えてください、私の抱くこの気持ちを。この浅ましくも穢い感情を、どうかその名を――」
そう言い終えた彼女のお腹が、虎が吠えるような音を奏でた。
◇
これでもご主人様とは長すぎるほどに長い付き合いだ。望まれている答えなんて、とっくにわかり切っていた。
温かい飲み物でも持ってくればいい。茶請けが付けば満点だろう。ご主人様はにっこり笑うはずだ。我が意を得たり。ありがとう、流石ナズーリンは優秀ですね。
その言葉に、ええ、だのまあ、だの相槌を打って、適当な用事でも思い出したふうにその場を去ってしまえばいい。
たったそれだけで、このくだらない茶番も終わる。そうして私たちはいつも通り、元通りのふたりに戻る。
――それでいい、と頭では分かっているのに、そうしたくない自分がいた。
実際のところ、これは千載一遇の好機だろう。
ありとあらゆる可能性を検討して、すべての分岐で失敗の可能性がある、と結論付けた過去があり、それでも万が一成功するとしたらどう話を持っていけばよいのかについても、究めたと言っていいほどに考えて考えて考え抜いた。
そうやって繰り返した戦略計画のなかで、これは、と思った作戦がたったひとつだけあったのだ。
冗談に紛れて接近し、急襲し、翻弄し、撹乱し、徹底的に攻撃を続ける。そうして勝利を収めるまで、攻めて攻めて攻め倒す。
勝率はざっと考えても、なんとほかの作戦の百倍はある。選択肢の中に限って言うなら、それは望外に高い値だ。具体的には……聞いて驚け、千にひとつは成功する。
しかし、ひとたび始まってしまえば、後戻りはできないだろうとわかっていた。
抑えは効かないだろう。止め処なく言葉を連ね、望む物など何一つ手に入らず、積み上げた砂の城を水は押し流すだろう。
今か、今なのか。それでいいのか、本当にいいのか。
手に入れたはずのすべてのものを、この一瞬で失う覚悟はできているのか。
一度だけご主人様を見つめる。目が合った。少し不安そうに、私を見返す大きな瞳。私だけを見ている、瞳だ。
その連想に幻想を抱いて、心は一つに定まった。
誰も幸福にしないと知りながら、私は心の裡で呟く。
ときは今。敵は命蓮寺にあり。
その是非を問う者もなく――
「いいか、ご主人様。それは恋だ」
口にしてしまった。ご主人様はぽかんと口を開いたまま固まる。それはそうだ。他ならぬこの私から『恋』なんて言葉を聴こうとは、考えもしなかっただろうから。
そうとも、ご主人様の事だ、絶対に考えもしなかっただろうさ。
自分で考えておきながら、勝手にじくりと胸が痛んだ。意地でも表情には出さないが。
覚悟を決める。自分で作り上げた幻想を自分の手で否定するために、私は言葉を続けていく。
「こい。人を愛おしいと思う気持ちだ。聖のそれような博愛ではなく、ただ一人だけに特別な感情を向けるものを、独占欲や嫉妬も含んでそう呼ぶ」
「……こ、い?」
ご主人様はまだ呆然としたままで、だから私に追撃を許すことになる。
「当然ながら欲の一つであり聖職者には相応しくない。持つな、とは言わないがどうにか自分で処理し給え。では」
そこまで一息で言い切って、そのまま立ち去る素振りを見せる。
「いや、あの、ナズーリン!? 待って、ちょっと待ってください!」
呼び止められるのは、当然のこととして予測していた。
ここではぐらかそうとしても、きっと効果は得られないだろうということも。
「なんだいご主人様。ああ、そうか、すまなかった。説明が不十分だっただろうか」
「そうではなく! ……あの、ナズ?」
「なにかな」
だから、私は言葉を待った。獲物が罠にかかるのを、息を殺して待っていた。
「その理屈だと、その、つまり、私はナズのことが好きである、ということになるんですよね?」
ご主人様はドの付くほどの阿呆だけれど、馬鹿ではない。理解力には並々ならぬものがあり、だからこそ問いを投げかけてしまえば、その回答は予想しやすい。
「その通り、ご主人様はなんと私に恋心を抱いてしまっている、ということになるな」
当然そんなわけはない。今しがたまで色恋の欠片さえ頭の中にはなかったはずだ。
けれど、概念は毒を生む。そういうものなのだ、と言い切ることで、私はご主人様に毒を盛った。
「……いやいや」
ご主人様は困惑しながら、ほんのりと頬を赤らめた。口許に軽く手をやって冷静さを取り戻そうとしているが――そんな暇など与えるものか。
こういう時の扱い方なら、私はいくらでも知っていた。
「どうしたね、何が不満だ。私は午後から探索に入るので、そろそろ準備をしなくてはならない。手短に」
簡単なことだ。次を急かして、慌てさせればいい。ご主人様は人が良い。咄嗟に出た言葉を軽やかに打ち返せば、
「反応が薄すぎませんか!?」
思わぬ反撃を受けて、私は次の言葉に詰まった。おい、ちょっと待て、なんだそれは。
ありえません、と否定されるのが関の山だと思っていたのに。
私はとかく悲観主義者だ。作戦がうまくいかないことを念頭に置いて、それならばこう、と立ち回りを考えることで生き延びてきた。
だから、その、つまり、ええと。
「……なんだご主人様、つまりあれか。年頃の少女ならだれしもが一度は通るというしどろもどろ病のことを言いたいのか」
予定外にうまくいってしまったとき、思わずその幸運を投げ捨ててしまう悪い癖があるのだと、自分でもよくわかってはいるのだ。
「いや、もう、何が何だか」
わからないだろう。私にだってわからない。答えを直視してしまったら、作戦は継続できなくなるという予感があった。
とんだ失態を演じながら、それでも戦いは続いている。まだ終わるわけにはいかない。どうにか言葉を前に進めてゆくのだ。
「歳を考えろご主人様。何が悲しくて亀より長く生きる私たちが愛だの恋だの言い合わなくてはならない」
全く以てどの口が言うのか。自分で自分に呆れながらも、ようやく調子を取り戻した感触があった。
「そりゃそうでしょうけど。それにしたってもっと、こうですね……」
ご主人様は眉を顰めると、なにか良い言葉はないものか、と思案顔になった。
現状、戦局は一見有利だ。傍からは、私が一方的に攻勢をかけているように見えることだろう。
けれど、いくら局地戦で勝利を収めたところで、結局のところ意味はない。そんなに容易い相手であれば、きっと私は惚れていない。
寅丸星という城は堅固だ。野戦でいくら打ち負かしても、決して揺るがない基盤があるからこそ、彼女は千年の長きに渡って己を守り続けてきた。
彼女を攻め落とすためには、避けては通れぬ門がある。遠目からでも一目瞭然な、高く聳え立つ常識と言う名の城門。
そこに逃げ込まれたなら、どうあがいても勝ち目はないのだと――わかっているからこそ、先手を打って回り込む。最後の悪あがきのように。
「では逆に訊くけれど。私がご主人様のことを受け入れたとして、その後どうする」
これは、すっと口から出た。
「どう……ですか?」
「聖にも、毘沙門天様にも、申し訳は立たないぞ」
いつからだろう。私は心の片隅に、ずっと申し訳ない気持ちを抱え続けていた気がする。
誰に対してとも、どの行いにとも掴みかねるような、ぼんやりとした気まずさ。
毘沙門天様の弟子なのに。私たちは家族同然なのに。そしてなにより、部下なのに。
そういったひとつひとつが、千年をかけてゆっくりと私のまわりを取り囲んでいったのだ。
両手の指でも足りない程の、種々の標識にはこんな言葉が書いてある。
ここは通ってはいけません。この道は迂回してください。ここに踏み込むのは危険です――
全部その通りにしてきた。すべての事故を避けてきた。無事故無違反を積み重ねて、ご主人様から黄金の如き信頼を得て。
そうして手に入れた安全運転の代償は、絶対的な速度不足と相場が決まっている。
なにも進展しない毎日に、私はいい加減疲れたのだった。
「それは、その……困りますね」
ご主人様はそう答えて、本当に悲しそうな顔をした。
ばかなことを言ってしまったものだ、と今更ながら後悔する。秤にかけられるものでは元からないのだ。
だってそれを投げ捨てたなら、ご主人様は私のご主人様でなくなってしまう。
ああこれは難しいな、無理だろう。そんなの、もとからわかっていたさ。
諦めるほかないような、あまりに強固な門へと向けて、私はたったひとりきりで、最後の突撃を開始する。
結局のところご主人様の中には最初からそんな感情なんてないのだと、ただそれだけを証明するために。
「だろう? なら何が不思議なものか。私は何も聴かなかったし、ご主人様は何も言わなかった。それでその気持ちはおしまいだ。ひと汗かいてヤケ酒でも呑んで忘れ給えよ」
とんだ茶番だ。とんだ嘘だ。好きなのは私で、振られるのも私だ。
それなのに勝手に振り回して、挙句の果てにひとりで自己完結しただけの話だ。
それでも澱みなく最後まで言い切って、私はただその瞬間を待った。
ご主人様は釈然としないながらも、覚悟を決めたような顔で私に向き合った。
そう、それでいい。
これでやっと解放される。こんなどうしようもない悩みなんて、葬り去ってしまえる。
全てはここでなかったことにされて、
「……はい」
私の恋はそれでおしまい、だ。
ああ清々した、肩の荷が降りた、ようやく晴れて自由の徒になる。
「くれぐれも仏の教えを守り、快楽に溺れたり嘘をついたりしてはいけないぞ。毘沙門天様との約束だ」
だというのに、どうして私は言葉を続けているのか。
「……はい。……?」
見ろ、ご主人様だって困惑しているじゃないか。お前は困らせたくないんじゃなかったのか?
違うだろう、そうじゃないだろう。次に言うべきはこんな言葉だ。
『それでは私は出かけるとするよ。帰ってくるころには、もう私たちはいつも通りだ。だろう、ご主人様』
ひとかけらのミスさえもない、完璧な台詞だ。うむ。
「ところで、さっきまでの言葉はすべて嘘だ。忘れてくれ」
口を開き、最初の一音からして舌が縺れた。
「……はい!?」
やってしまった。やらかしてしまった。何をしているんだ本当に。
「――準備がありますので、これで」
「あの、ナズ!? ちょっと!?」
慌てて逃げ出そうとしたけれど、あっさり裾を掴まれてしまう。身体能力ではこのひとに敵うわけもなく。
「全く、何だよ。ご主人様の悩みはすべて解決しただろうに」
「一言で混迷を呼び込みましたよね」
本当にね。
嘘は新たな嘘を呼ぶ。きっとご主人様の頭の中には、いまたくさんの問いと答えが行き交っていることだろう。
「仕方ないなあ。特別に一つだけ質問に答えようじゃないか」
「私、時々ナズーリンのことが分からなくなります……」
頭を抱えながらも、ご主人様は結局のところ人が良い。冗談みたいな私の発言を、どうにか理解しようとしてくれている。
けれどなご主人様、残念ながら、
「奇遇だな、私もだよ」
自分自身がわかっていないものを、ご主人様が理解できるものなのだろうか。
いや、本当に……何だこの状況は。
今自分が何をしようとしているのか、正直さっぱりわかっていない。
私は何を望んでいるのか?
私はどこへ向かおうとしているのか。
人はどこから来てどこへ行くのか。
赤ちゃんはキャベツ畑から生まれるということで本当によろしいのか。
――よろしいわけは、なかったのだ。
「……じゃあ、一つだけ」
「なんでも訊き給え」
ご主人様はおずおずと、私の顔色を窺った。
「怒ってます?」
「怒っている」
そうとも、私は怒っている。
紛らわしい言い方を続けたご主人様に、そうなるまで放っておいた周りに、そして何より自分自身に、私は酷く苛立っている。
「ごめんなさい」
謝られても困るのだ。だってご主人様には、非なんて微塵もないのだから。
……いや、うん、別段そうでもないか。
ないな。いくらお腹が空いていたからって、あの言い方は正直ないな。
「許さん」
「そんな!?」
当然のように口が回る。人の心を軽率に弄んだのは怒ってもいいところだろう。
「具体的に言うと、古道具屋でご主人様の宝塔を見付けた時くらい怒っている」
「どこにそんな激怒要素がありましたか私」
いやさすがにそれはわかれよ、何だったんだあの小芝居は。
そう思ったけれど口には出さずに、
「宝塔を失くしたこと以外に激怒する要素があると思うのかい」
結局は軽口でごまかしにかかる。
「ずいぶん昔のことを引っ張りますね」
「決して、風化させては、ならない」
「大災害の碑みたいなこと言わないでくださいよ」
ああ、もうどうしようもないくらいに、これはいつも通りに戻ってしまった。
安心するかい、ナズーリン。すべてが変わらなかったことに、きっとこれからも変わらないであろうことに。
それが私の嘘の結末だって言うのなら、それは喜ぶべきじゃないのかい。
「……あの、ナズ」
「なんだい、ご主人様」
ご主人様はぐぉおぎゅるる、となかなか豪快な鳴き声を奏でて、
「お腹空きました」
と申し訳なさそうに答えて目を細めた。
まったく、と息を吐く。
「最初からそう言えば良かったんだ」
「にべもなく断られるのが目に見えていたので」
まあ断っただろうな、と思う。自分で作ればいいだろう、くらいのことは言っただろう。
「だからってあんな小芝居挟まれても困る」
「次から気を付けます」
そう言っておきながら、たぶんまた似たようなことが起きては、同じように元の鞘へと収まるんだろう。
最悪の事態にはならずに、そうしてなにも抜け出せない明日が普段通りにやってくることは、悪いことじゃないんだろうさ。
「仕方ない。何が食べたいんだ」
「カレーがいいです」
「……ムラサに頼め!」
せめて私の得意料理が何なのかくらいは把握しておいてくれ。カレーよりは肉じゃがだ。
そう言いながらも台所へ向かおうとした私を、ご主人様が呼び止めた。
「あの、ナズ」
「なんだい、ご主人様」
ぎゅ、っと手を握られて、突然世界がひっくり返った。
声を上げる間もなく、私は抱きかかえられている。
何を、と見上げた先で、大きな瞳と目が合った。
「実は、私も怒っています」
その言葉に嘘はない。長い付き合いだ、それくらいのことはすぐにわかる。
「私が嘘をついたからだろう」
そうです、と頷きかけてから、少し違います、と慌てて訂正する。
「あなたが、自分に嘘をついたからです」
――ご主人様はドがつくほどの阿呆だけれど、馬鹿ではない。
「それにね、ナズ。私はあなたを嘘つきになんてしません」
ずっと待っていたんですよと苦笑して、大きく優しい瞳の中に、私だけが映っている。
私はがっくり項垂れて、深く、深く溜息を吐いた。
「……ご主人様は本当にご主人様だなあ」
「どういう意味ですか」
「これからも末永く宜しく、ってことだよ」
ちょっとこれは体験したことがないぞ、自分でも未知の領域だぞ、というくらいだ。
普段から気の短いほうではない。私にだって、ちょっとしたからかいの言葉を買って、大げんかをしないだけの分別はある。
だけど、それでも、限度があった。生来温厚なほうではないが、それにしたってこれはない。
いきなり何を言い出すのか、と疑問に思う向きもあるかもしれない。説明するのも億劫なので、まずはこいつを見てほしい。
私の目の前に座っている、ご主人様こと寅丸星の言動である。
「ナズーリン。私には、どうしてもわからないのです」
ご主人様は俯きながら、膝を揃えて座っていた。
正座はぴしりと決まっているのに、しゅんと背を丸めているから、どうにも情けない感じを受ける。
「この世にひとたび生を受け、長いこと過ごしてきましたが、やはりわからないことばかりで」
そうなんですかそれは大変ですね、と適当に相槌を打ちながら、胸中に渦巻き続ける感情にどうにかこうにか蓋をする。
ああ、もう。どうして私が悩んでいるのか。
見ているだけでもどかしい。さりとて、答えを教えるのも業腹だ。
それというのにあの人は、眉を下げながら私に問うのだ。
「この気持ちは一体何なのでしょう。ナズーリン、賢い貴女なら、答えを見つけられるのでしょうか――」
知るか。私が良心を保っているうちに、その口を閉ざしてほしい。
「私にはわからないのです。こんなに苦しく、こんなに醜い気持ちなんて」
あるまじき事、と彼女は言った。あってはならぬのだと。
私だって同感だ。こんな感情、あなたには似つかわしくもない。
「そしてこんなにも、不埒な悦びに満ちた気持ちです。それを考えるだけで、私の頭はいっぱいになってしまうのです」
そんな事より、あなたにはもっと別のことで頭をいっぱいにしてほしい。
「――ああ、でも! そう判っていても、それでも私はその気持ちを持ち続けているのです。仏の偉大なる教えのように、他のあらゆる感情のように、いつか理解できる日が来るのだと信じながら。……ですが、待ち続けることはかくも苦しく、辛いものだったでしょうか」
そうだろうとも。丁度私があなたに抱いているこの気持ちのように、それは独りで抱え続けるには辛く。
「考えるたびに、どこかがきゅっと締まるようで、そんな時は無性にさびしくなって、ぞっとするほど悲しくなって、どうしようもなく泣きそうになって」
知っているとも。それが何であるのかくらい、私でなくても恐らくわかる。
「そんな時はいつもなぜか、あなたの顔が浮かぶのです。お願いです、ナズーリン。私にどうか教えてください、私の抱くこの気持ちを。この浅ましくも穢い感情を、どうかその名を――」
そう言い終えた彼女のお腹が、虎が吠えるような音を奏でた。
◇
これでもご主人様とは長すぎるほどに長い付き合いだ。望まれている答えなんて、とっくにわかり切っていた。
温かい飲み物でも持ってくればいい。茶請けが付けば満点だろう。ご主人様はにっこり笑うはずだ。我が意を得たり。ありがとう、流石ナズーリンは優秀ですね。
その言葉に、ええ、だのまあ、だの相槌を打って、適当な用事でも思い出したふうにその場を去ってしまえばいい。
たったそれだけで、このくだらない茶番も終わる。そうして私たちはいつも通り、元通りのふたりに戻る。
――それでいい、と頭では分かっているのに、そうしたくない自分がいた。
実際のところ、これは千載一遇の好機だろう。
ありとあらゆる可能性を検討して、すべての分岐で失敗の可能性がある、と結論付けた過去があり、それでも万が一成功するとしたらどう話を持っていけばよいのかについても、究めたと言っていいほどに考えて考えて考え抜いた。
そうやって繰り返した戦略計画のなかで、これは、と思った作戦がたったひとつだけあったのだ。
冗談に紛れて接近し、急襲し、翻弄し、撹乱し、徹底的に攻撃を続ける。そうして勝利を収めるまで、攻めて攻めて攻め倒す。
勝率はざっと考えても、なんとほかの作戦の百倍はある。選択肢の中に限って言うなら、それは望外に高い値だ。具体的には……聞いて驚け、千にひとつは成功する。
しかし、ひとたび始まってしまえば、後戻りはできないだろうとわかっていた。
抑えは効かないだろう。止め処なく言葉を連ね、望む物など何一つ手に入らず、積み上げた砂の城を水は押し流すだろう。
今か、今なのか。それでいいのか、本当にいいのか。
手に入れたはずのすべてのものを、この一瞬で失う覚悟はできているのか。
一度だけご主人様を見つめる。目が合った。少し不安そうに、私を見返す大きな瞳。私だけを見ている、瞳だ。
その連想に幻想を抱いて、心は一つに定まった。
誰も幸福にしないと知りながら、私は心の裡で呟く。
ときは今。敵は命蓮寺にあり。
その是非を問う者もなく――
「いいか、ご主人様。それは恋だ」
口にしてしまった。ご主人様はぽかんと口を開いたまま固まる。それはそうだ。他ならぬこの私から『恋』なんて言葉を聴こうとは、考えもしなかっただろうから。
そうとも、ご主人様の事だ、絶対に考えもしなかっただろうさ。
自分で考えておきながら、勝手にじくりと胸が痛んだ。意地でも表情には出さないが。
覚悟を決める。自分で作り上げた幻想を自分の手で否定するために、私は言葉を続けていく。
「こい。人を愛おしいと思う気持ちだ。聖のそれような博愛ではなく、ただ一人だけに特別な感情を向けるものを、独占欲や嫉妬も含んでそう呼ぶ」
「……こ、い?」
ご主人様はまだ呆然としたままで、だから私に追撃を許すことになる。
「当然ながら欲の一つであり聖職者には相応しくない。持つな、とは言わないがどうにか自分で処理し給え。では」
そこまで一息で言い切って、そのまま立ち去る素振りを見せる。
「いや、あの、ナズーリン!? 待って、ちょっと待ってください!」
呼び止められるのは、当然のこととして予測していた。
ここではぐらかそうとしても、きっと効果は得られないだろうということも。
「なんだいご主人様。ああ、そうか、すまなかった。説明が不十分だっただろうか」
「そうではなく! ……あの、ナズ?」
「なにかな」
だから、私は言葉を待った。獲物が罠にかかるのを、息を殺して待っていた。
「その理屈だと、その、つまり、私はナズのことが好きである、ということになるんですよね?」
ご主人様はドの付くほどの阿呆だけれど、馬鹿ではない。理解力には並々ならぬものがあり、だからこそ問いを投げかけてしまえば、その回答は予想しやすい。
「その通り、ご主人様はなんと私に恋心を抱いてしまっている、ということになるな」
当然そんなわけはない。今しがたまで色恋の欠片さえ頭の中にはなかったはずだ。
けれど、概念は毒を生む。そういうものなのだ、と言い切ることで、私はご主人様に毒を盛った。
「……いやいや」
ご主人様は困惑しながら、ほんのりと頬を赤らめた。口許に軽く手をやって冷静さを取り戻そうとしているが――そんな暇など与えるものか。
こういう時の扱い方なら、私はいくらでも知っていた。
「どうしたね、何が不満だ。私は午後から探索に入るので、そろそろ準備をしなくてはならない。手短に」
簡単なことだ。次を急かして、慌てさせればいい。ご主人様は人が良い。咄嗟に出た言葉を軽やかに打ち返せば、
「反応が薄すぎませんか!?」
思わぬ反撃を受けて、私は次の言葉に詰まった。おい、ちょっと待て、なんだそれは。
ありえません、と否定されるのが関の山だと思っていたのに。
私はとかく悲観主義者だ。作戦がうまくいかないことを念頭に置いて、それならばこう、と立ち回りを考えることで生き延びてきた。
だから、その、つまり、ええと。
「……なんだご主人様、つまりあれか。年頃の少女ならだれしもが一度は通るというしどろもどろ病のことを言いたいのか」
予定外にうまくいってしまったとき、思わずその幸運を投げ捨ててしまう悪い癖があるのだと、自分でもよくわかってはいるのだ。
「いや、もう、何が何だか」
わからないだろう。私にだってわからない。答えを直視してしまったら、作戦は継続できなくなるという予感があった。
とんだ失態を演じながら、それでも戦いは続いている。まだ終わるわけにはいかない。どうにか言葉を前に進めてゆくのだ。
「歳を考えろご主人様。何が悲しくて亀より長く生きる私たちが愛だの恋だの言い合わなくてはならない」
全く以てどの口が言うのか。自分で自分に呆れながらも、ようやく調子を取り戻した感触があった。
「そりゃそうでしょうけど。それにしたってもっと、こうですね……」
ご主人様は眉を顰めると、なにか良い言葉はないものか、と思案顔になった。
現状、戦局は一見有利だ。傍からは、私が一方的に攻勢をかけているように見えることだろう。
けれど、いくら局地戦で勝利を収めたところで、結局のところ意味はない。そんなに容易い相手であれば、きっと私は惚れていない。
寅丸星という城は堅固だ。野戦でいくら打ち負かしても、決して揺るがない基盤があるからこそ、彼女は千年の長きに渡って己を守り続けてきた。
彼女を攻め落とすためには、避けては通れぬ門がある。遠目からでも一目瞭然な、高く聳え立つ常識と言う名の城門。
そこに逃げ込まれたなら、どうあがいても勝ち目はないのだと――わかっているからこそ、先手を打って回り込む。最後の悪あがきのように。
「では逆に訊くけれど。私がご主人様のことを受け入れたとして、その後どうする」
これは、すっと口から出た。
「どう……ですか?」
「聖にも、毘沙門天様にも、申し訳は立たないぞ」
いつからだろう。私は心の片隅に、ずっと申し訳ない気持ちを抱え続けていた気がする。
誰に対してとも、どの行いにとも掴みかねるような、ぼんやりとした気まずさ。
毘沙門天様の弟子なのに。私たちは家族同然なのに。そしてなにより、部下なのに。
そういったひとつひとつが、千年をかけてゆっくりと私のまわりを取り囲んでいったのだ。
両手の指でも足りない程の、種々の標識にはこんな言葉が書いてある。
ここは通ってはいけません。この道は迂回してください。ここに踏み込むのは危険です――
全部その通りにしてきた。すべての事故を避けてきた。無事故無違反を積み重ねて、ご主人様から黄金の如き信頼を得て。
そうして手に入れた安全運転の代償は、絶対的な速度不足と相場が決まっている。
なにも進展しない毎日に、私はいい加減疲れたのだった。
「それは、その……困りますね」
ご主人様はそう答えて、本当に悲しそうな顔をした。
ばかなことを言ってしまったものだ、と今更ながら後悔する。秤にかけられるものでは元からないのだ。
だってそれを投げ捨てたなら、ご主人様は私のご主人様でなくなってしまう。
ああこれは難しいな、無理だろう。そんなの、もとからわかっていたさ。
諦めるほかないような、あまりに強固な門へと向けて、私はたったひとりきりで、最後の突撃を開始する。
結局のところご主人様の中には最初からそんな感情なんてないのだと、ただそれだけを証明するために。
「だろう? なら何が不思議なものか。私は何も聴かなかったし、ご主人様は何も言わなかった。それでその気持ちはおしまいだ。ひと汗かいてヤケ酒でも呑んで忘れ給えよ」
とんだ茶番だ。とんだ嘘だ。好きなのは私で、振られるのも私だ。
それなのに勝手に振り回して、挙句の果てにひとりで自己完結しただけの話だ。
それでも澱みなく最後まで言い切って、私はただその瞬間を待った。
ご主人様は釈然としないながらも、覚悟を決めたような顔で私に向き合った。
そう、それでいい。
これでやっと解放される。こんなどうしようもない悩みなんて、葬り去ってしまえる。
全てはここでなかったことにされて、
「……はい」
私の恋はそれでおしまい、だ。
ああ清々した、肩の荷が降りた、ようやく晴れて自由の徒になる。
「くれぐれも仏の教えを守り、快楽に溺れたり嘘をついたりしてはいけないぞ。毘沙門天様との約束だ」
だというのに、どうして私は言葉を続けているのか。
「……はい。……?」
見ろ、ご主人様だって困惑しているじゃないか。お前は困らせたくないんじゃなかったのか?
違うだろう、そうじゃないだろう。次に言うべきはこんな言葉だ。
『それでは私は出かけるとするよ。帰ってくるころには、もう私たちはいつも通りだ。だろう、ご主人様』
ひとかけらのミスさえもない、完璧な台詞だ。うむ。
「ところで、さっきまでの言葉はすべて嘘だ。忘れてくれ」
口を開き、最初の一音からして舌が縺れた。
「……はい!?」
やってしまった。やらかしてしまった。何をしているんだ本当に。
「――準備がありますので、これで」
「あの、ナズ!? ちょっと!?」
慌てて逃げ出そうとしたけれど、あっさり裾を掴まれてしまう。身体能力ではこのひとに敵うわけもなく。
「全く、何だよ。ご主人様の悩みはすべて解決しただろうに」
「一言で混迷を呼び込みましたよね」
本当にね。
嘘は新たな嘘を呼ぶ。きっとご主人様の頭の中には、いまたくさんの問いと答えが行き交っていることだろう。
「仕方ないなあ。特別に一つだけ質問に答えようじゃないか」
「私、時々ナズーリンのことが分からなくなります……」
頭を抱えながらも、ご主人様は結局のところ人が良い。冗談みたいな私の発言を、どうにか理解しようとしてくれている。
けれどなご主人様、残念ながら、
「奇遇だな、私もだよ」
自分自身がわかっていないものを、ご主人様が理解できるものなのだろうか。
いや、本当に……何だこの状況は。
今自分が何をしようとしているのか、正直さっぱりわかっていない。
私は何を望んでいるのか?
私はどこへ向かおうとしているのか。
人はどこから来てどこへ行くのか。
赤ちゃんはキャベツ畑から生まれるということで本当によろしいのか。
――よろしいわけは、なかったのだ。
「……じゃあ、一つだけ」
「なんでも訊き給え」
ご主人様はおずおずと、私の顔色を窺った。
「怒ってます?」
「怒っている」
そうとも、私は怒っている。
紛らわしい言い方を続けたご主人様に、そうなるまで放っておいた周りに、そして何より自分自身に、私は酷く苛立っている。
「ごめんなさい」
謝られても困るのだ。だってご主人様には、非なんて微塵もないのだから。
……いや、うん、別段そうでもないか。
ないな。いくらお腹が空いていたからって、あの言い方は正直ないな。
「許さん」
「そんな!?」
当然のように口が回る。人の心を軽率に弄んだのは怒ってもいいところだろう。
「具体的に言うと、古道具屋でご主人様の宝塔を見付けた時くらい怒っている」
「どこにそんな激怒要素がありましたか私」
いやさすがにそれはわかれよ、何だったんだあの小芝居は。
そう思ったけれど口には出さずに、
「宝塔を失くしたこと以外に激怒する要素があると思うのかい」
結局は軽口でごまかしにかかる。
「ずいぶん昔のことを引っ張りますね」
「決して、風化させては、ならない」
「大災害の碑みたいなこと言わないでくださいよ」
ああ、もうどうしようもないくらいに、これはいつも通りに戻ってしまった。
安心するかい、ナズーリン。すべてが変わらなかったことに、きっとこれからも変わらないであろうことに。
それが私の嘘の結末だって言うのなら、それは喜ぶべきじゃないのかい。
「……あの、ナズ」
「なんだい、ご主人様」
ご主人様はぐぉおぎゅるる、となかなか豪快な鳴き声を奏でて、
「お腹空きました」
と申し訳なさそうに答えて目を細めた。
まったく、と息を吐く。
「最初からそう言えば良かったんだ」
「にべもなく断られるのが目に見えていたので」
まあ断っただろうな、と思う。自分で作ればいいだろう、くらいのことは言っただろう。
「だからってあんな小芝居挟まれても困る」
「次から気を付けます」
そう言っておきながら、たぶんまた似たようなことが起きては、同じように元の鞘へと収まるんだろう。
最悪の事態にはならずに、そうしてなにも抜け出せない明日が普段通りにやってくることは、悪いことじゃないんだろうさ。
「仕方ない。何が食べたいんだ」
「カレーがいいです」
「……ムラサに頼め!」
せめて私の得意料理が何なのかくらいは把握しておいてくれ。カレーよりは肉じゃがだ。
そう言いながらも台所へ向かおうとした私を、ご主人様が呼び止めた。
「あの、ナズ」
「なんだい、ご主人様」
ぎゅ、っと手を握られて、突然世界がひっくり返った。
声を上げる間もなく、私は抱きかかえられている。
何を、と見上げた先で、大きな瞳と目が合った。
「実は、私も怒っています」
その言葉に嘘はない。長い付き合いだ、それくらいのことはすぐにわかる。
「私が嘘をついたからだろう」
そうです、と頷きかけてから、少し違います、と慌てて訂正する。
「あなたが、自分に嘘をついたからです」
――ご主人様はドがつくほどの阿呆だけれど、馬鹿ではない。
「それにね、ナズ。私はあなたを嘘つきになんてしません」
ずっと待っていたんですよと苦笑して、大きく優しい瞳の中に、私だけが映っている。
私はがっくり項垂れて、深く、深く溜息を吐いた。
「……ご主人様は本当にご主人様だなあ」
「どういう意味ですか」
「これからも末永く宜しく、ってことだよ」
雰囲気がとても良かったです
こんな良いss、決して、風化させては、ならない。