恐慌焦燥話

2017/04/01 23:23:35
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ここで死んでも良いかしらと彼女は尋ねた。
勿論です、と私は答えた。

ずぼん、
水音は重く響く。



1.

妖怪も人間みたいに死にたくなる事があるらしい。
今日のご飯さえあれば生きていける、と考えている彼女にはあまり共感できない事だが、
立場を追われただとか、生きがいを見つけられないだとか、理由は様々で、そのどれもが色々考えた末の結論であることは彼女にもわかった。
頭が良いものが自殺するのは人間も妖怪も変わらないのである。
旧がつくとはいえ地獄、生への憧れと怨嗟の声が響くこの場所でわざわざ自ら死ぬ事について、思うところがないわけではないが、自殺について是非を問うことに意味はない。
生きられない奴がが死ぬ、死ねない奴が生きる。それだけだ。
生きるのも死ぬのも本当はもっと簡単(シンプル)な事で全ては言葉が邪魔をしている。

火焔猫燐は考える。
なんにせよ後に残るのは体一つだ。
あたいにはそれだけでいい。
それさえあれば彼女はなんら不満もないのである。

だから火車のお燐がここに来るのも本能に従った結果だった。
主にはあまり近づかないようにと言われていたが本能の前にその忠告はあまりに無力だ。
川底に揺らめく死体をチラリと横目に、
川沿いの道から橋へ、猫車とともにずんずんと行く。
橋の真ん中に佇む少女に声をかける。

「おまちどうさん」
「速いのね」

手摺に寄りかかりぼんやりと川を見つめていた彼女は燐を見て一瞬嫌そうな顔をしたが、
瞬きをする間にそれは笑顔に変わっていた。
たいていは笑顔で、別段愛想も悪くはない。
そこが良くないのだ、と燐の主は言う。
橋の守り人、橋姫のパルスィはいつでもそこにいた。

「この火車お燐、死体と聞いちゃあいてもたってもいられなくてね」
「ふーん。まあ良いわ。腐る前に持って行ってよ」

彼女も腐臭はダメらしい。
やはり物が腐る臭いというのは嫌いな者の方が多いのだ。
燐はどうどうと流れる川にちらりと目をやるとひとつ身震いをし、
猫車にぶら下げた袋から長いロープを取り出した。

「それじゃあまたお願いします、お姉、さん」

困ったような笑顔に、何度も聞いた猫なで声。
死体を手に入れる為なら上目遣いまでやってのけるのだ。

「そういう言い方やめてよね、気持ち悪い」

燐とパルスィはたまにこういったやり取りをしていた。
水死体が腐る前に処分したい。
水死体を持ち去るために水から上げて欲しい。
友情でも義務でもなんでもない、ただの利害の一致である。

ここは旧地獄と地上の境。
二つを未練で繋ぐこの橋は、もう一つの顔を持っていた。
自殺の名所である。
冷たい水、速い流れ。旧都から離れたこの橋は身投げに最適だった。









彼女は最後にありがとうと言った。
石を抱えて、縄で括って。
苦しめば結末が変わるとでも思ったのだろうか。

(ここに私がいるというのに!)



2.

人型が綺麗な弧を描く。
音は水流に紛れ橋まで届かない。
パルスィの飛び込みはもう慣れたもので、胴に括り付けた縄さえ無ければそのまま優雅に泳いで行きそうなものだった。

死体を持ち去るだけなら橋姫の許可がいるなんて事はないし、お願いもしないだろう。
来て、乗せて、帰る。それだけだ。
ただ燐は化けても猫だ。水が苦手なのだ。
友人に会う為業火の中を歩くことがあっても、死体に会う為に水に入るには抵抗があるのだった。
始めに死体を引き上げようと言い出したのはパルスィの方だった。
物欲しげにうろうろされると鬱陶しいのだ。
慣れた動作で水を掻き掻き底へと押し進む。
黒い上衣が窮屈そうに揺らめく。

水深はだいたい1丈と5尺くらいだろうか。
橋の陰には大岩がごろごろと転がっていた。
殆どの岩に縄が結われ、各々結び目の先を泳がせている。
全てパルスィが切ったものだった。

鬼の血でも混じっていたのだろうか。
巨大な石を抱えたその飛び込みは稀に見る凄まじさだった。
水しぶきが酷く橋がずぶ濡れになった。
一昨日の話だ。

頭上に浮く塊を見上げ、パルスィは苦い顔をした。
ぽご、とひときわ大きいあぶくが天に向かう。
左手と足を縄に掛け、間にナイフを宛がう。
死体を水底に繋ぎ留める縄を切る。

ぢぢぢ、ぶちん。

そうして水死体と橋との縁が切れた。
流され流され水面へ。
ぼごりと浮き上がる水死体を、橋の上から燐は見た。









結構な時間、急流に飲み込まれていく姿態を眺めていた。
肺から出て行く空気は水に呑まれて区別がつかず、
もがく四肢も、もう力つきたようだった。
あとは大水に翻弄されるのみだ。



3.

縄を手繰って戻ってきたパルスィは煩わしそうに髪をかき上げ、雑に絞る。
ばたばたと音を立て地面に黒い点を作っていく。

流れていく死体を使いに追わせ、燐はパルスィにタオルを差し出した。
あたいらは水が苦手でさぁ、目を細めて笑う彼女は正真正銘の猫だった。

「毎度悪いね。今度は何か菓子折りでも持って来るよ」
「別にいいわ。臭くなるのが嫌なだけ。蛆の橋姫とか言われたら泣くもの」
「あれっ、ここ宇治橋じゃなかった?」
「……なんでもない、合ってるわ。なんでもない」

燐はあわてて橋名板のほうを振り向くがパルスィに止められる。
濡れた手で掴まれた燐は気味の悪さに全身をぶるりと震わせたが流石に文句は言えなかった。
心なしか頬が赤いのでもしかしたら熱を出したのかもしれない。

「それより鬼に伝言、頼めるかしら。泳げれば誰でもいいんだけれど」
「んん、何て」

パルスィはおもむろに橋の下を指差す。

「岩だらけなの。私じゃ引き上げられないから」

鬼にでも言って岩をのけてもらわなくちゃ。
あんなに沢山、水位が上がったら困るわ。
パルスィは腕を組んでため息をついた。

鬼は少し怖いが、一度仲良くなると気さくな奴らだ。きっと快諾してくれるだろう。
燐は必ず伝えると返事をすると、再びずぶ濡れのパルスィを見て身震いした。

「寒くない?」
「寒いわよ」

空気がぴりっとした。









一緒になるはずだった人が死んだと言った。
私は頷いた。

死んだのは自分のせいだと言った。
私は頷いた。

罪滅ぼしに苦しまねばならないと言った。
私は頷いた。

溺死は苦しい、醜いと彼女は言った。
私は頷いて、優しく言った。



4.

「お帰りなさい、お燐」

約束を果たし、燐が地霊殿へ戻ると、折り悪くエントランスで主、古明地さとりに出くわした。

「…ただいま戻りました」

燐は他のペット達と違い、ものを良く考えるほうだったので、たまに隠し事をする事があった。
そしてそれが主人の前では何の意味の持たない事も知っていた。

さとりの目は燐の猫車に乗せられていた死体へ向く。
長い髪と、品の良い一斤染の小紋――たぶん女だろう。
水を吸ったぶよぶよの肌、その苦しみ様が伺えるぐなりと歪んだ表情。
そして鼻につく異臭。
ああなんて、醜い。
けれどさとりの表情は変わらなかった。

「それ、水死体ね」
「はい」

一言のち、静寂。
耐えかねた燐はわたわたと口を開く。

「あ、えと、やっぱり臭いますかね」

さっき鬼にも嫌な顔されちゃって、ダメですねずっと一緒にいると慣れてきちゃって。
あたいみたいなのは本当に鈍感で――その、そのう。
いらない事をべらべらと喋るのは人型に化けるようになってからついた癖だった。
相手が饒舌な時、さとりは決まって黙り込む。
そして三つの目をすうと細めて、大切な、知りたい情報だけを掴むのだ。

「そう。あの橋の」
「…はい」

抗えないとわかりつつもしどろもどろ、取り繕うように話し出す。
あの目を逃れるには考えなければいい。それだけの事だ。
けれどこんな時他の事を考えるほど燐は器用ではなかった。
この水死体、パルスィが引き上げてくれて。
たまに、いつも、お世話になってて。
ああ、さとり様の言いつけやぶっちゃった。でも、でも。

さとりの顔が歪む。
それはほんの僅かだったが、燐にはわかった。

「さとり様……?」
「いえ……」

さとりは少し言葉を濁して、燐に背を向けた。
自らの三の眼にそっと触れる。
指先は冷たかった。

「橋姫には気をつけなさい、あれは――」

さとりは目を閉じた。
死体が、脳裏焼きついたままはなれない。
彼女も水底から見たのかもしれない。

燐の心、記憶の中のパルスィが目を細めて笑っていた。
二つの宝石がチカリと煌く。



(あれは緑の目をした怪物で、餌食とする人の心をもてあそぶものです!)









美しい、お嬢さん。
さあ辞世の句を!
「ああ、ご苦労様。ええ、その辺に置いておいてくださいます? どうせまたすぐ必要になりますので。あら嫌ですわ、どうしたんです、そんな苦虫を噛み潰したような顔をなさって。」



残留思念や記憶の中の人の心も読めるさとりと、対さとり遠隔精神攻撃兵パルスィ、を書きたかった。
赤のあ
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コメント



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2.2890智弘削除
納得の地底封印