恐慌焦燥話

小鳥よ、独歩せよ

2017/04/01 01:23:21
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 上白沢慧音がその小鳥に出会ったのは寺子屋からの帰り路のことだ。
 食品や小物などの露店商が多く列座する賑やかな大道を通った際、慧音は、とある藁むしろに陳列された商品の中に『妹紅』とだけ記された紙片を見出した。妹紅といえば言わずと知れた慧音の友人の名前であるが、その名札めいた紙切れがぞんざいに置かれているのを見て、面食らった慧音は、一瞬それが何を意味したものか分からず困惑した。しかしその紙札と結ばれた釣鐘状の鳥籠にはムク毛の文鳥が一羽おり、まもなく、それの名前こそが『妹紅』であるのだと理解した。
 これは如何なる仔細かと、店番に座っていた竹林の狼女に問うたところ、小鳥自身がそれと名乗っただけで、別段、同名の蓬莱人に何か意趣が在ってのことでは無いそうな。
 つまり偶然の一致と、この狼女はそう主張するわけだ。その言い分は曖昧であるし、少なからぬ疑義も在る。が、その目論見への危懼よりも小鳥への興味関心が結局は勝った。
 その不思議な符合をこそ一興と結論付けて、慧音は彼女を購うことにした。
 代金は籠付きで十六銭。蕎麦の一杯に等しい安値だが、これはこの小鳥が皆目も鳴かぬためであるという。そうしてその言葉の通り、彼女はだいぶ人見知りな気質だった。その鳥籠が慧音の手に渡った際にも、ただ身を縮こまらせるばかりで口を噤み、ヒヨの一声も口にしない。そのまま宿りへ持ち帰ったものの、彼女の畏縮は解けず、小さな身体を殊更に縮こまらせた姿はさながら白餅のようであった。その姿は可愛らしくこそ在れど、そうも畏れられては淋しさが在る。
 なので、とりあえず生米を掌に乗せて与えてみた。さても食べてくれるかどうか、その種の危ぶみこそ在ったものの、小鳥はその儚げな身上に相応しい従順さを持ち備えていたようで、おずおず伺いつつ、その赤いクチバシにて米を啄んだ。
 途端に、ヒヨ、と。実に幼気というか現金な反応だが、とかく生米の味を大層お気に召したらしく、彼女は楽しげな鳴声を聞かせてくれるようになった。啄むたび、ヒヨ、ヒヨ、と。その鳥声は甘やかな旋律を奏で、柔らかく耳に響いた。
 こうなってみれば愛おしさも増すというものだ。そのムクムクな外貌も可愛らしいが、掌にクチバシを寄せながら突付く仕草は誠に可憐で、もはや愛でずも撫でずも居られない。
 米を乗せた手と他方の指で羽の紋様を辿り、背中へ。繰るり、繰るり、と回して開く。すると木目細やかな綿羽が現れ、そこを戯れにくすぐった。
 ヒヨと一際な鳴き声、クチバシが上がり、真白い喉が露わとなった。
 そこでカラリと扉が開いた。
「慧音、居る?」
「おや、妹紅さん。これで、ふたり」
「あー?」
 履物を脱ぎながら呆けた表情をする人妹紅をチラと見て、また小鳥妹紅に眼を戻す。
 慧音は優しい表情で藤原妹紅を紹介した。
「妹紅。今いらっしゃったのは妹紅さんだよ」
 小鳥妹紅が嬉しそうにヒヨと鳴いた。
 当の紹介された人妹紅は怪訝に眉根を寄せつつ歩み寄り、中腰になって覗き込んだ。白い長髪がさらりと覆うその横顔は、彼女の色白も在って、鳥かごの真白な小鳥と似てないこともない。
「妹紅?」と疑問を孕み、指で小鳥妹紅を指しつつ、人妹紅が訊ねた。
「ええ、彼女は妹紅という名なのです。妹紅さん」と、慧音は小鳥妹紅を紹介した。
「……止してよ、慧音。鳥を飼うのは勝手だけどさ、勝手に人の名前を付けないでよ」
 唇を尖らせる人妹紅をチラと見て、また小鳥妹紅に眼を戻す。慧音は淋しそうに笑った。
「困ったなあ、妹紅。妹紅さんは恥ずかしがっているようだ」
 小鳥妹紅が哀しそうにヒヨと鳴いた。
「新しく飼ったの?」と、人妹紅。「ま、良いさ、何か食わせてくれ」
「どうぞ。お米はお櫃に、それと焼き魚が在りますよ」
 もうチラリともせず、慧音は小鳥に夢中となりながら伝えた。まだ掌をツンツンして食べている。こそばゆくも和らぎが在り、そのクチバシの営みは愛情を芽吹かすに相応な刺激だ。
 その傍らでは無沙汰げに、人妹紅が慧音の様子を横目に見つつ、やおら台所へと去った。
 やがて小鳥妹紅が米を食べ終えた。満足そうな眼で慧音を見つめている。
「妹紅、歌を唄ってくれないか」
 すると小鳥妹紅は翼を広げ、ヒヨ、ヒヨ、ヒヨと鈴の音さながらの歌声を聞かせた。どこかリズムが感じられるのは、きっと彼女には伝えたい心が在るからなのだろう。
 貴女を愛していますよ、と唄ってくれている気がした。
「私もだよ」と、慧音は穏やかに応じた。
 右手に焼鮭の皿、左手に米の茶碗と湯呑み、口に箸を咥えた人妹紅が戻ってくる。一度、ちゃぶ台の前に座るが、思うところが在るのか膝立ちになって飯台を動かし、慧音の側に座る。
「よっぽど可愛がっているんだな、その鳥」
「ええ、妹紅はとても可愛らしいですから」
 その言葉に、人妹紅はその切れ長な眼を大きく見開かせて動揺の赤面を呈した。しかし、それが小鳥妹紅についてだとすぐに悟り、表情をアンニュイに歪ませた。
「何でも良いけど、紛らわしいよ」
「そうでしょうか」慧音は人妹紅のほうを向き、髪を掻き上げて首を傾げた。
「そうだよ」人妹紅が口元をムスッとさせている。
 小鳥妹紅がヒヨと宥めるように鳴いた。人妹紅はそれをジロと睨み、すぐに視線を慧音に戻した。
「第一、何で私の名前を付けるのさ」
「名前を付けたのは私では在りませんよ。この子自身が妹紅と名乗ったそうです」
「……はあ?」
 眼を細めて唇を薄く呆けさせる人妹紅を尻目に、慧音は視線を小鳥妹紅に戻した。
 真丸で柔和な眼が薄紅色に縁取られて、どこか道化的な面持ちの小鳥妹紅はヒヨと鳴いた。
「なら、名前を変えようよ」
「どちらの名前を?」
「……またまた、そんな冗談は止してよ」
 慧音は軽く眼を瞬かせて人妹紅へと首を向けた。
 涼やかな目元を真丸に見開かせて、どこか滑稽な顔をした人妹紅は慧音と暫く見合い、やがて「え?」と悲鳴じみた声をあげた。
「嘘でしょ、私が妹紅だよ」
「存じてますよ」慧音は優しく頷いた。
「そいつは鳥だよ」
「そうですね、けれど妹紅ですよ、妹紅さん」
 慧音は笑ってみせることにした。ただ笑声を上げてしまえば、たちまちに戯れとなってしまう気がして、声を上げず笑った。すると自分では明るく笑ったつもりだったが、どこか艶やかな笑みになった。
「私が妹紅だよ。蓬莱人の藤原妹紅」
「この子は藤原では在りませんが妹紅です」
「何だよ、ただの鳥じゃんか!」
 癇癪めいた声で、人妹紅が叫んだ。だがこれは別に怒っているわけではなくて、不愉快な状況をどう扱えば良いか分からなくなってしまったためだろう。分別のない子供の駄々と大して変わらない。
 慧音はおもむろに頷いた。
「ええ、ええ、小鳥ですね」
「別のを考えたげようよ」声を荒げてしまった自分を恥じたのか、人妹紅が少し声を潜めて告げた。
「けれど名前とはそういう単純なものでは在りませんよ。ねえ、妹紅」
 慧音の問いかけに、小鳥妹紅はヒヨと応じた。その通り、と言っている気がした。
「ちぇ、慧音が鳥にまで優しいのは良いけどさ、博愛主義もそこまで行くと困るよ。慧音だって焼鳥とか焼魚とか食べるじゃんか。鳥とか獣とかに一々配慮する価値なんて無いよ」
「確かに弱肉強食は自然の摂理やも知れません。私も妹紅さんの焼鳥は好物です。けれど生命という一点において如何なる生物も差異在るものでは無いはずです。だからこそ食事前に『頂きます』の感謝をするのでしょう? 本来の名前を取り上げるというのは生命の平等というその尊厳すら奪うことになるのですよ」
「……それでも食べてることに変わりないし、可愛がっても仕方が無いでしょ」
「なら、例えば、白澤という禽獣も愛するには足りませんか?」
 その慧音の切り返しに、人妹紅は首筋を摘まれた猫さながらに大きく眼を見開いた。その動揺を隠さずにマゴついて、すぐに気後れの表情で「ズルイぞ」と口ごもる。
 そのまま彼女は何と反論すべきか考え込んでしまったようで唇をへの字にして沈黙した。
「妹紅、妹紅さんが哀しそうだ。歌を唄ってあげてくれないか」
 小鳥妹紅は翼をパタ付かせ、ヒーヨ、ヒーヨと木笛さながらの拍子を聞かせた。どこかリズムが感じられるのは、きっと彼女には伝えたい心が在るからなのだろう。
 彼女のことも愛しています、と唄っている気がした。
「私もだよ」と、慧音は静かに応じた。
「なーにが『私も』だよ」人妹紅が唇を尖らせる。「ペット狂いのヤツによくある感傷だ。何を思ったか知れないけどさ、慧音はその鳥の言葉を勝手に想像して解釈してるだけじゃないか。私はちゃんと言葉にして伝えられるよ」
「では妹紅さん、妹紅のことをどう思いますか」
「嫌いだよ。今の慧音も、ちょっと嫌い」
 と、そう言ってしまってから、どうにも後悔したのだろう、人妹紅はすぐに「ほんの少しだけど」と捻くれた子供のように釈明した。
 慧音はゆっくりと一度だけ眼を瞬かせ、今度は小鳥妹紅に訊ねた。
「妹紅さんに嫌われてしまうかも知れないよ。どうしよう」
 眉根を寄せた慧音に、小鳥妹紅はヒヨと鳴いた。そうして止まり木から小さく跳躍して、そのまま翼を羽ばたかせ飛翔し、ケージの開いた扉を抜けて慧音の肩に至った。
 ヒヨ、とまた一鳴き。殊更に体を伸ばし、その小さな身体を慧音の下顎に擦り付ける。
「慰めてくれるんだね」慧音は眼を細めた。
 ところが小鳥妹紅のこの行為は、人妹紅の機嫌を大いに損ねたらしい。
「鳥とそんなことするのはダメなんだよ。病気になるんだ」
「そうでしょうか。私の専門は歴史で、そちらの分野はあまり詳しく在りませんが」
「えっと、確か、オウム病とかクリプトコッカスとかになるんだぞ。あとサルコメア」と、人妹紅は半ば小鳥妹紅を中傷するような指摘をした。
 それらの背伸びした知識は、近親に医療者が居る喧嘩相手に教えて貰ったのだろう。或いは常日頃に不死鳥を気取る彼女への罵倒として、その類いの言葉を向けられたのかも知れない。
 ――ただサルコメアではなくサルモネラだったような気もするが、まあ指摘せずとも良いか。
「それはそれは。流石長命な妹紅さん、お詳しい」
 慧音は妹紅の誹謗をはぐらかす優しい賞賛を口にした。そうして肩口の小鳥妹紅を指に移らせ、鳥かごに戻してやる。止まり木に移り、彼女はヒヨッと鳴いた。どこか抗議めいた鳴声なのは妹紅の乱暴な発言に憤慨してのものだろう。
 彼女の綿羽を撫で、慧音は慰撫に努めた。
「忠告はしたからね」
 人妹紅はムスッと剥れ、慧音に背を向けて卓袱台の焼鮭とご飯に取り掛かった。大きな声での「頂きます」は感謝というより慧音に聞かせるための自己主張だ。
 箸を器用に用いて骨を外し、魚肉をほぐして口に入れ、米を掻き込んでいく。
 それを見ていた小鳥妹紅がヒヨと鳴いた。私も、と言っている気がした。
「そうだね、じゃあ、今度は水をあげよう」
 そう言って、慧音は腰を上げ、水瓶へと向かった。埃払いの瓶蓋を取り、杓子に水を汲む。それを軽く丸め窄めた右掌に注ぐ。
 繊細なこの器は隙間だらけで多くは指間に零れてしまう。とはいえ掌の僅かな窄まりに残った分だけで小鳥妹紅には充分過ぎる量となろう。
 鳥かごの傍へと戻り、右手を差し入れた。手の中の水を、小鳥妹紅は嬉しそうに飲んだ。
「水とか餌の容器くらい中に入れとけば良いじゃないか」人妹紅が口を挟んだ。「そんな一々、面倒じゃないの?」
「妹紅は内気なのです。このように食べさせてあげればきっと人懐っこく育つでしょう」
 慧音は他方の手で、また小鳥妹紅の翼を指で撫で付けた。歌を沢山唄ったためか、すこぶる喉が渇いているようで、彼女はそのクチバシを震わせて水を飲んだ。
「……ふうん」
 人妹紅は食べかけの茶碗と箸を置き、茶を啜るなどして暫らく何事かを思案する素振りを示していたが、やがて慧音の背に縋るようにして提案した。
「ねえ、慧音。私にも食べさせて」
「食べさせてとは、どういう意味でしょうか」
 手に残った水を布巾で拭いながら、慧音は首だけで人妹紅のほうを見た。
 見れば人妹紅は箸を差し出し、雛鳥さながらに口を開けている。歯も舌も露わに。
 慧音は軽く手で口を抑え、笑声を上げて肩を揺らした。言葉を戯れとして受け取ってみせたつもりだった。けれども妹紅は自分の態度を改めようとはしなかった。
「私も慧音に食べさせてもらいたいの」
 その子供のような要求に、慧音は困ってしまって首を振った。
「妹紅さんは妹紅よりずっと大きいでは在りませんか」
「そんなことは瑣末だよ。それよりそっちの鳥がそういうふうにして貰えて、なのに私がして貰えないってのはダメ。ズルイもん」
「いけませんよ」再度、慧音は首を振った。「そんなはしたないことを望むのは」
「そっちの妹紅はしてるじゃないか」
 人妹紅に指差さされ、小鳥妹紅はヒヨ?と小首を傾げた。
「妹紅はまだ幼い小鳥だから仕方ないのです」
「じゃあ、私も子供になる」
「妹紅さん、私より遥かに長命な妹紅さん」慧音は殆ど宥めるように告げた。「いつまでも甘えっ子ではいけませんよ」
 その言葉に、人妹紅は羞恥を覚えたのか顔を紅潮させ、悪口を次々と投げつけた。
「何だよ、慧音のバカ、けちんぼ、牛ちち、BSE、口蹄疫!」
 言いたいことを言って、人妹紅は再び慧音に背を向けた。
 しかし、そのまま彼女は食事を再開するでもなく背中を丸めて悄然としている。言い過ぎたと反省しているのか、または慰めてくれるのを待っているのだろう。多分、後者だ。横目でチラチラとこちらを見ている。
 慧音は優しく微笑んでやったが何を言うこともしなかった。
 人妹紅は淋しそうに箸を取り、黙念と食事を再開した。焼魚は冷めてしまったか、冷えたのは心胆か、どうか。
 小鳥妹紅がヒヨと鳴いた。
 慧音はそちらに眼をやった。黄色いクチバシの円曲した上側で、彼女が掌を撫でてくる。
「ヒーヨ」と、慧音は応じた。「ヒーヨ、ヒーヨ」
 後ろから、ガタン、と音がした。
 慧音が振り向く暇も無く、背後から腹に腕が回され、思い切り重心を引き寄せられた。何か柔らかいものを下敷きにし、慧音の身体は仰向けに転げた。その危うい拍子に、ちゃぶ台を巻き込まなかったのは幸いだったろう。
 うなじの辺りに鼻息と頭髪の纏わり付く感覚がする。腹に回った腕の、その主だ。
「妹紅さん」慧音は落ち着いて訊ねた。「重くは在りませんか?」
「敷布団に潜ったみたいな感じで嫌じゃない」人妹紅は皮肉げに応えた。
「それは……流石に傷つきます」
「柔らかくて、さして重くないってことさ」耳元で、人妹紅が悪戯っ子の声で笑う。
 首筋に妹紅の頬が張り付く。小鳥妹紅の真似でもしているのだろうか。
「離しては頂けませんか」
「いやだ」弾んで逃げるゴムマリのような拒絶だ。どこか捕まえて欲しそうな節が在る。「いやだよ」
「困った妹紅さん」
「そうだ、私は慧音を困らせる藤原妹紅なのだ」鼻にかかった甘え声で、人妹紅は告げた。「あいつはヒヨヒヨ妹紅だ。そういうことにする。今決めた」
 べたりと擦り付けられた頬の温もりが愛おしく、元より母性の強い性質である慧音は今にも相手を抱きしめてやりたい衝動に襲われた。
 しかし、他方、無性な切なさを覚えた。愛情が昂ぶるに比例し、その類いの苦悩は肥大する。
 ――これは妹紅という蓬莱人と親しむことによる、小鳥にとってのオウム病などと同じ、どうしても危ぶまれる疾病やも知れぬ。それは慧音の眼に明らかで、ただ人妹紅には朧な、茫漠たる白亜や霞の如きものである。
 或いは、手に包むには曖昧に過ぎた不安。ちょうど水を汲んだ掌から雫が溢れていくような、滴っていく生命の灯火の喪失感である。この灯火は、どこへ消え行くのだろうか。
 思わず、慧音は自身の眼頭が熱くなるのを感じた。いつもこうなのだ、それを思うと。
「すると今の私はおろおろ慧音ですかね」声色だけは努めて明るく装う。
「おろおろ慧音は好き、大好き」妹紅は愉快げに笑った。
 慧音もまた心底に妹紅を愛していた。だからこそ妹紅が不安でならなかった。
 鬼胎たちまち露呈す、と観念し、殆ど刹那的に口走った。
「好きな私も、嫌いな私も、いずれ総ての追憶が愛おしくなりましょう」蝋燭の揺れるボンヤリした中空を見据え、穏やかに告げた。「その時はきっと別の慧音を探して下さい」
 と、そう迂闊にも口にしてしまってから、すぐさま後悔の念が去来した。
 返事は無かった。つい先程までの弛緩した雰囲気が嘘のような沈黙。徐々に剣呑と成り行く鼻息が耳に届き、眼に映るように激しい感情が行き場のないエネルギーとなって震えた。腹に回った腕が軋み、指が慧音の服を捻った。
「それって」声だ、先程までとは真反対に異なる、怒りに似た感情の放射。「私に、慧音の代わりを探せってこと?」
「代わりでは在りません。それもまた慧音です。愛してあげて下さい」
「嫌だっ!」耳鳴りがするくらいに大きな反発だった。「私以外に私がいるって、認めるだけでも本当は凄く不愉快だった。けど慧音が言うならって思って我慢した、我慢できないことじゃあなかったから」
 無軌道な、しかし慧音への激情だ。人妹紅は恐慌に陥ったらしい。
「でも、でもっ、慧音以外に慧音がいるって考えるなんて私には無理だ。そんなの嫌だっ!」
「しかし、この身は妹紅さんと共に在るには脆すぎるのです」
 慧音は殆ど断ずるように告げた。本当は面と向かってそう言うべきだったのだろうが、今の慧音には天井しか見えない。背後の人妹紅はどんな表情をしているのだろうか。
 小鳥妹紅が鳴いている。ヒヨ、ヒヨ、と。
「どうして生きてるうちからそんなことを考えるんだ。別れは哀しいことなのに」
「妹紅さんに見えないものが私にはどうしても見えてしまうのです」
「見なけりゃ良いんだ」
「見たいものだけを眼に映すのは心の盲です」慧音は、諭した。「聞きたいものだけを耳にするのは心の聾です。言いたいことだけを口にするのは心の唖です。これらに惑い続ければ遂には心の白痴となってしまうでしょう」
 そう口にして反応を待つも、哀しきかな、やはり返事は無かった。
 人妹紅は腹に回した拘束を緩めぬまま、もぞもぞと下敷きから抜け出て、その傍らに転び、慧音の上腕を額で無闇に押し退けてその腋下をくぐった。すぐ傍に膨らむ乳房を頬で潰しながら、そのまま腋窩を安寧として顔を上げた。
 見ねば良かったと思うことには、彼女は頑迷な表情をしていた。譲るつもりはないと、聞くつもりはないと、そういった類いの表情だ。
 小鳥妹紅が鳴いている。ヒヨ、ヒヨ、と。
「妹紅が笑っていますよ、妹紅さん」
「笑うな!」人妹紅が火を吐くように怒鳴った。
 大声を浴びせられた小鳥妹紅は竦み上がってしまった。白餅のように。
「慧音、前に言っていたでしょう。人は孤独に生きてくものじゃないって。なのに私を突き放すようなことを言うのは止めてよ、酷いよ」
「確かに人は独りで生きていくものでは在りません。しかし独歩せねばならぬ瞬間が誰にでも在るのです」
「それでも慧音は他にいないよ」
「きっと見つかりますよ。大丈夫で――」
 痺れに似た痛みが走る。癇癪を起こした人妹紅が服の上から乳房の肌膚を噛んだのだ。
 当人なりに加減はしてくれているようで、たぶん出血には至ってないだろう。苛めることではなく、これは、従わせることが目的だろうから。牧牛犬が牛を噛むのと同じだ。
 慧音はしじまに、なるたけゆっくりと人妹紅の髪を撫でた。髪の合間に指を差し入れて櫛のように梳いてやった。暫くそれを続けると、人妹紅は漸くにして口を離した。けれども、すぐに唇を押し付ける。その歯型の場所へ、名残惜しげに。
「悪い妹紅さん」
「良いもん」
「我儘な妹紅さん」
「もっかい噛むぞ」
 並びの良い歯を見せて威嚇する人妹紅に、慧音は眼を細めて笑ってやった。
「他の慧音を噛んではいけませんよ、嫌われてしまうかも」
「他の慧音なんていない」人妹紅は繰り返した。「慧音が良い。慧音が好き。さっきのは嘘だよ。ホントはどんな慧音だって好きなんだ」
「……私も妹紅さんが好きです。けれど私は小鳥の妹紅を見つけました。愛するものを増やすことはとても素晴らしいことなんですよ」
 慧音が乳房を枕に見立て人妹紅を抱き寄せると、彼女は素直にその胸に顔をうずめた。
 分かってくれたのかな――と、そう思ったのはだいぶ甘かったのだろう。
 顔を再び上げた時、人妹紅は酷く殺伐とした表情をしていた。そうして慧音の腹に回した腕の片方を放し、卓袱台の上の箸に手を伸ばした。止める間もなかった。箸を手に取るや、人妹紅はそれを手槍でも用いるように投擲した。
 音も無く、ほぼ直線の軌道を描いた木箸は無残にも小鳥妹紅の胴部を貫いた。パッと血潮が飛沫となった。
「妹紅さん!」慧音は悲鳴を上げた。
「アレは私じゃない」人妹紅が底冷えする声で告げた。「証明してみせる」
 まじないでもかけていたのだろうか、小鳥妹紅を貫いた箸は油にでも塗れていたかのように俄に発火し、鉄製のかごを幸いとして止まり木を巻き込み炎上した。
 ヒーヨと一際な鳴き声を響かせて、小鳥妹紅は翼をパタ付かせたが、その翼にすら火が燃え移った。やがて力尽き、止まり木の赤々と燃えるその根本にポテンと落ちた。
「ああ、ああ、何と無体な」
 されるがままになっていた身体を起こしつつ、慧音は手を頬に当てて蒼白した。
「本当の妹紅なら、ここで生き返るはずだよ」慧音の乳房に寄りかかり鼻を押し付けたまま、妹紅が、酷薄に言った。「どうせ、あいつは死んだろうけどね」
 その言葉の通り、小鳥は死んでいた。もう動かない。残忍に燻られ、黒焦げな骸を晒している。
「ほうらね。アレは私じゃないよ。黒いし、きっとカラスか何かだ」
 そう言って、妹紅はまるで遣り込めてやったとばかりに上機嫌となった。
「あの子は死んでしまいました」慧音は声を張り詰め、言い聞かせようとした。「死んでしまったのですよ」
「生き返られないんだ。私と違ってね」だから――と必要以上にヘラヘラとして、妹紅は逆捩じを口にした。「慧音が悪いんだよ。アレに分不相応な役割を押し付けたんだ。アレに私の役なんて最初から務まらなかったんだ」
「そのような淋しい嫌味を言わんとして彼女を殺めたのですか」
「私のせいにするな!」途端に、怒号だ。妹紅は慧音を突き放すようにして立ち上がり、睨みつけた。そうして転嫁を繰り返した。「私以外の妹紅を見せびらかした、慧音が悪いんだ!」
 彼女は酷く興奮しているようだ。こうなってしまっては見つめ合うのも辛く、慧音は鳥かごに意識を向けた。
 そこには未だ止まり木の火柱が火の粉を散らして残っていたが、そんなことに構ってはいられず、慧音は手を差し入れて黒焦げになってしまった小鳥を両掌に抱えようとした。
 火の粉は猛蜂の如く慧音の手に飛びかかった、が、触れんとする次の瞬間にはその全てが陽炎のように消えてしまっていた。
 術者が消したのだろう、慧音が火傷してしまわぬように。
 痺れる余熱を帯びて、しかしそれを失っていく小鳥を、慧音は胸に掻き抱いた。
「分かりました」と、必死に絞り出した声で告げる。「仰る通り、この結果は私がよほど愚かだった証明なのでしょう」
「煩い!」妹紅が喚いた。「もう帰る!」
「どうぞ、ご随意に」慧音は妹紅に悲愴の顔を見せぬよう俯いたまま告げた。「お見送りは致しませんよ。私はこの子を埋葬せねばなりません」
「ああ、そう、慧音は私よりもそんな小鳥のが大事なんだね!」妹紅は断固と立ち上がりつつ、喚いた。「慧音なんて大嫌い! 私にはもう慧音なんて要らないよ!」
 そうして殆ど逃げるような後姿で、妹紅は駆け去ってしまった。
 バランと引戸が乱暴に閉まる音が響き、宿りには慧音が残された。
 慧音は炭化した小鳥を包むようにして手を合わせ、指を組み、憐れな友人に祈った。冥福を、そうして赦しを。
「貴女には何と言えば良いだろうね……妹紅さんへの教育のため、とでも言えば釈明になるのだろうか。しかし分かってくれずとも恨むならばこの身一つにしてくれないか。結局、妹紅さんの言ったことこそが真実なのかも知れないのだから」
 その後、慧音は彼女を庭の片隅に埋葬した。墓を大仰にせずに、ただ土を盛るだけにしたのは、この諍いが必要以上に後を引かぬようにするため、つまり妹紅への配慮だった。
 慧音は妹紅の去り際の台詞があんまり哀しくて、その挙句に小鳥を劣後とし、人妹紅を優先したのだ。
 会者定離を説いたはずが、自らの心をすら不惑となせず、慧音はその言い知れぬ慙愧に沈んだ。この苦悩せし愚かな半妖を、死せる小鳥は何と見るのだろうか。

 翌日、慧音が寺子屋より戻ると、いつもと風情の異なる格好をした妹紅が待っていた。
 普段のカッターシャツやもんぺではなく、珍妙な着物だ。黒いカラスの羽根を単衣物の帷子全体に満遍なく編み込んだらしい長襦袢で、袖から身頃にかけてはもはやムクれた羽毛の様相をなしている。
 それでいて着物の前合わせがしどけなくも膨れて撓んでいるのは、蓋し、結帯後に重なる衿や衽の厚さにまで思慮が回らなかったためだろうか。
 ――ともあれ彼女の手製なのだ。かくも奇抜な着物が市井に在るはずもない。
 着物がただでさえ烏羽色なので、むくりと乱れた前合わせの隙間より垣間見える白肌が妙に目立つ。下に何も身に付けていないようだが腰帯の我流な伊達締めも在ってか今にも脱げ崩れてしまいそうだ。
「妹紅さん」慧音は努めて普段通りの声を出した。「今日は如何なさいました?」
「ヒヨ」と、妹紅は鳥の鳴声を模して応じた。
 その際、彼女は腕の辺りを軽く揺さぶり、見目にも潤沢に施された烏羽飾り同士を掠れさせた。パサリ、パサリと、それは羽ばたきの音色に少しだけ似ていた。
「ヒヨ、ヒヨ」
 その意図するところは謝罪か、少なくとも悪意ではないだろう。
 かくも特殊な手段を取らねば仲直りに臨めない、不器用な性質なのだ、彼女は。
「左様ですか。実は私も同じことを申し上げたかったのですよ、妹紅さん。いや、妹紅と呼ぶべきかな」
「ヒーヨ、ヒーヨ」妹紅は嬉しそうに鳴いた。そのくせ言葉尻が少しだけ震えていた。
 慧音は優しく頷いてやりつつ、何故に妹紅が鳥の真似をしているのか、それを考えた。そうして『きっとそのほうが却って彼女にとって幸福だから』なのだろう、と楽観的に結論した。
 自然の懐に返りてまた眺めれば眼に映る景色も異なって見えよう。
 ならば禽獣の耳目より始めようか。思惟は少しずつ深めて行けば良いのだから。
 慧音は肩の力を抜いて口元を弛緩させた。ゆるりと手を伸ばし、まずは妹紅の赤らんだ目尻を、やがて涙跡の淡く残る頬を拭った。
「安心おしよ。妹紅がちゃんと独歩できるまで、私はきっと側にいるからね」
 たちまち、その顔に安堵の光が差した。罪悪感の強張りが蕩かされ、顔一杯に生じた彼女の無垢な泣き笑いを見て、慧音の心もまた深甚に飽和した。その名を声の限り叫んでも足らぬ渇きにも似たその愛おしさに、ただ抱擁した。
 強がりの堰が切れたのだろう、妹紅から嗚咽が漏れ、すぐに滂沱となった。「全部嘘だもの、要らないわけないもの」と、慧音の乳房に縋って泣きじゃくる彼女の涙声には「酷いことをしちゃったよう」と小鳥への懺悔も交ざっていた。
 その悔恨こそ永遠を生きる蓬莱人が最も大切にせねばならぬ心の『燭火』では在るまいか。皆の掌から溢れ行く灯火を、彼女という不朽の燭台は、きっと掬うことができよう。
 やがて妹紅が泣きやんだ頃合いに、慧音は妹紅を庭に誘った。そこには墓が在る。妹紅自身が受け入れねばならぬ罪がそこにひっそりと、ただ確かに存在している。
 二人でそこに件の鳥籠を運び、格子内に寸胴の蝋燭を立てた。むっくりとして可愛らしい、どこか文鳥を想起させる蝋燭だ。まるで今にもヒヨと唄い出しそうなくらいに。
 妹紅はその灯心に火を付けようとして僅かな躊躇いを示し、しかし遂には点けた。蝋燭芯の燃ゆる芳香が膨らんで、ボンヤリとした小さな煌めきが二人の顔を照らした。
「ごめんなさい」と、あの時に言えなかった謝罪を口にして、妹紅は鳥羽飾りを掠れさせて手を合わせた。
 心細そうな妹紅に寄り添って、慧音もまた合掌し、祈念した。かの小鳥が妹紅に内々に宿る燭火として、つまり彼女もまた妹紅の一部として、その永遠性が確立されるように。
 小鳥よ、どうかそこに生きてくれ、と。
 小鳥よ、と。
 作品の供養という目的も在り、改稿・投稿させて頂きました。
 ガタガタな文章でしたが最後まで読んで下さって本当にありがとうございました。
(2017/4/2 追記)
 この作品は某所において閲覧数9という可哀想な作品でした。幸いなことに現時点で閲覧数44と、ここでは5倍に近い閲覧者の方々に恵まれまして、きっと供養となったことでしょう。皆さんに感謝致します。

 今作では国木田独歩特有の『優しい視点を持った自然主義文学』を目指しました。彼の作品には、往々にして自然主義文学に在りがちな客観性という冷たい視点が不思議と感じられません。身近というか、どこか親しみが在るのです。
 登場人物に優しい目を向けている時点で、彼の作品は本来なら自然主義文学としては失格しているのかも知れませんが、でも良いでは在りませんか。私は国木田独歩の優しさが滲み出ている自然主義が好きです。
>>2
 ありがとうございます。エイプリルフールの雰囲気とは違って、ちょっと場違いだったかも知れませんね。
 恥ずかしながら、私も自分の我儘を自覚しておりました。それでも、どこかにこの作品を投稿しておきたかったんです。コメント、ありがとうございました。
>>4 (2017/4/3 追記)
 ありがとうございます。そこの一節は、自由な二次創作だからこそ可能な表現ですね。
 お気に召して頂けたのならば光栄です。今後も貴方に気に入って頂けるような文章を志したいと思います。コメント、ありがとうございました。
火男
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コメント



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2.2890一本の蝋燭削除
エイプリルフールの作品にしたら長いと思います
ふつーに良い話だったけど
4.2890智弘削除
稚気のある妹紅でした。
>「見たいものだけを眼に映すのは心の盲です」慧音は、諭した。「聞きたいものだけを耳にするのは心の聾です。言いたいことだけを口にするのは心の唖です。これらに惑い続ければ遂には心の白痴となってしまうでしょう」
ここ、好きです。