MYST

供養を

2015/04/02 00:00:07
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 仔狐の亡骸の前で物悲しげに鳴く親狐の姿を、私はいつまで経っても忘れられないでいる。
 今日のような細雪がちらつく冬の日だった。無慈悲なくらい透き通った寒さの中で、親狐はいつまでも小さな亡骸に鼻先を擦り付けていた。別れを告げていたのか、失われゆく体温を逃がすまいとしていたのか。あれから何年も経った今でも、あの親狐が何をして何を思っていたのか、わからない。
 ただ一つ。
 幼かった私はその光景がどうしようもなく貴いものに思え、為す術もなく泣き出した。

「誰かの葬儀の度に、そのことを思い出すんです」

 真っ白い雪道に足跡を刻むのを止め、私は深呼吸しながら細雪のちらつく空を見上げた。太陽が一番高い位置にある時間なのに、分厚い雲に覆われた空は薄暗い。
 隣を歩いていた慧音さんが一歩進んだところで足を止めて、ん、と相槌を打つ。
 どこもかしこも白と灰色で覆われていた。色の沈んだ世界の中で、けれども私たちの白い喪服だけが場違いに際だっていた。

「もしかしてあの日が初めての葬儀だったのか?」
「はい。慧音さんと初めて会った日の葬儀ですね」
「稗田家の務めとは言え大変だな。まだこんな小さかったから葬儀は退屈だったろう」

 慧音さんが少しだけ屈んで腰よりも低い位置に手のひらを置いた。まるでそこに小さかった頃の私の頭があるかのように撫でる。

「もう少し大きかったです」
「そうか、これくらいだったかな」
「七つの頃ですよ。もう少し大きいです……もう少し、あとちょっと、うん、それくらい」
「嘘をつけ」

 綺麗な苦笑いを浮かべて、慧音さんは再び家路を歩き出した。私は軽鴨の子供のように慧音さんの後ろに貼り付き、私の足よりも少し大きい足跡の上を辿るように歩く。肩越しに私を見た慧音さんは、やはり綺麗な苦笑いを浮かべて歩き続けた。

「稗田家の務めじゃなかったんですよ。あの日は友達の葬儀だったんです」
「俵田家の次男坊が? それは知らなかった」
「いやまあ、今日はその務めとやらですけどね」

 私の肺と同じ大きさの溜め息が白い塊となって吐き出された。

「私が参列したところで故人の格が保証されるわけでもないのに……。会ったこともない人でしたよ。遺族の人たちは一体何を考えているのやら」
「まあ、そう言わないでやってくれ」
「常々思うんですが葬儀ってそんなもいい加減なもので良いんでしょうかね。あの世にまで見栄を持って行っても三途の川の渡し賃にはならないというのに」
「良いんだ。葬儀は残された者のためにやるものだから。稗田家の当主が参列してくれれば、これほど嬉しいこともないだろう」

 私の言葉に棘を感じ取ったに違いない。優しく諭すような口調で慧音さんが言った。
 そう、棘だ。私は今、慧音さんへ不満をぶつけているのだ。

「私だってそれくらいはわかります。私の言いたいのはそういうことではなくてですね。赤の他人である私を招いて、一方で慧音さんを参列させないというのはおかしいのではないかということです」

 馬鹿げた話である。
 この寒空の下、慧音さんは家の敷居を跨ぐこともせず家路を辿っている。故人とは何の縁もなかった私が参列し、深く関わりのあったであろう慧音さんが参列を断られる、こんなことがまかり通っているのだ。
 慧音さんが世にも希有な半人半獣だからだろうか、と思う。慧音さんが人里にもたらした日常の安寧を考えると、そんな下らないことに囚われている里の人たちに嫌気が差す。

「慧音さんは腹が立たないんですか。慧音さんだけ除け者にされて」
「除け者になんてされてないよ」

 この人は本気でそう言っているんだろう。

「私は納得できません。私よりも慧音さんが参列するべきだと思います」
「まいったな……そう熱くならないでくれ」
「なってません」

 とは言ったものの、知らず顔が熱くなっていた。疎らに降る雪が頬に触れて一瞬で溶けていくのを感じる。
 途端に恥ずかしくなった。

「……帰ります」

 私はいつまで経ってもあの頃の子供のままだ。



 予定よりもずっと早い時間に屋敷へ戻った私は、不愉快ここに極まれりといった顔をしていたのだろう。いつもなら式事の途中で帰ってくる度に家人は私へ小言を言ってくるのだが、今日に限ってはそれがなかった。
 ありがたいと言えばありがたい。無理矢理そう思うことにした。
 自室へ戻り着替える。何度着ても慣れない喪服をぞんざいに放り投げ、洗い立ての着物へ袖を通し、そのまま畳の上に倒れ込んだ。氷のように冷たい畳の感触を背中に感じ、どんなに空気を入れ換えても消えない墨の匂いに包まれていると、昂ぶっていた心がようやく落ち着いてきた。
 慧音さんの真っ白な喪服姿を見るのは今日で二度目だった。

 ――たったの二度しか見ていないのだ。

 なぜ今まで疑問に思わなかったのだろう。私は幾度となく葬儀に参列してきたが、慧音さんの姿を一度たりとも見ていない。今日だって偶然なのだ。途中で抜け出して人目に付かぬよう脇道へ逃げると、家の裏で雪を被りながら黙祷する慧音さんと出会った。
 葬儀の度に思い出していたはずなのだ。悲しげに鳴くあの狐の姿を。泣きじゃくるだけだった幼い私を。その私を優しく抱きしめてくれた、喪服に身を包んだ慧音さんを。

「馬鹿だな、私は」

 私が慧音さんと初めて出会ったのは、私の友人の葬儀の日だった。
 俵田の次男坊と呼ばれた彼は私より二つ年上の小柄な男の子だった。
 同い年の男の子たちが世界を救うためチャンバラごっこに明け暮れている時間、彼は何を思ったか家に籠もりがちな私の相手をしてくれた。御阿礼の子は幼い頃から知能が高く、私は同年代の子たちとはどうにも上手く馴染めなかったが、彼とは不思議と気があった。
 その彼はある日、風邪をこじらせて呆気なくこの世を去った。
 初めて経験する親しい者の死はひたすらに悲しいものだった。しかし泣くには理性が許さず、あるがままを受け入れるには幼すぎたように思う。知識の中に沈んでいる作法を引っ張り出し、子供らしからぬ賢しらな振る舞いに身を委ね、葬儀の間は顔の筋肉が固まるくらい神妙な顔を作っていたのを覚えている。
 作法や儀礼は、感情を埋没させるものだと知った。
 寝言のような読経に救いを見出せるわけもなく、気の遠くなるほど回りくどい段取りは悲しみを覆い隠す儀式にしかすぎず、若くして去った彼の心情を大きなお世話で忖度する遺族の顔は、子供の目からでも緊張で強張っているのがわかった。彼の生涯をたった数分で語り終え、幸せだったでしょう、と結論づける予定調和な演劇が、吐き気のするほど下らないことのように思えた。
 誰も彼の死を悼んでいるようには見えなかった。
 そして、こっそり式を抜け出した私は、俵田家の裏庭から狐を見て泣き出したのである。

『申し訳ない』

 今でもはっきりと思い出せる。低く穏やかな、優しい声だった。
 なぜ謝られたのか疑問には思わなかった。茶番のような葬儀に対して謝られたのだろうと思った。
 思えばあの時も慧音さんは今日のように家の外で立ち尽くしていたのだろう。
 いや、あの日だけではない。誰かが亡くなる度に、慧音さんは今日のように立ち尽くしていたはずなのだ。
 だって私は知っている。慧音さんは、誰よりも人間が好きなのだから。



 里の外れには墓地がある。
 うら寂しい場所だから墓地になったのか、墓地だからうら寂しくなったのかはわからない。無造作に立ち並ぶ墓石のどれもが、白い布団を頭からかぶるようにして雪に埋もれていた。いつまでも朝の来ない世界のようだった。あながち間違いでもないだろうと思う。ここにはいるのは皆もう起きない者たちなのだ。
 幾度となく通った道を私は辿る。一際大きい野神家の墓石を左へ曲がり、そのまま十二の小さな墓石を通り過ぎ、高価ゆえ買うことの出来ない墓石の変わりに川原に転がっている大きな石をズラリと並べた小道を果てまで歩き、そこでようやく足を止める。ここから先は無縁仏が無数に並ぶだけであり、彼はその手前にある場違いなほど立派な墓石の下で眠っている。
 当時の私は知らなかったが、俵田家は貧しかったようだ。私と友人だった、ただそれだけのことで稗田家から色々と援助があったらしい。
 今日は彼の命日でもなければ当然お盆でもない。
 けれども無性に墓参りがしたかった。あるいは、死を見つめたかっただけかもしれない。愚痴を聞いてもらいたかったのかもしれない。

「葬儀って何なんですかね。里の人は本当にその人の死を悼んでくれている人を招かず、慧音さんはその人の死を悼んでいるのに参列しなくても良いと笑っています。貴方はどう思いますか」

 狐を見たあの日、私は悲しくて泣き出したのではない。
 ただ悔しかった。彼の葬儀に涙を流す者がいないことが業腹だった。私の友人が死んだのである。世界中の生き物が悲しむべきで、人間も妖怪もその日だけは手と手を取り合って彼の死を悼み、お互いの涙を拭き合うくらいのことをするべきだったのだ。
 空を仰ぐ。
 もうじき私も死ぬ。転生の準備をするため、こうして好き勝手に出歩くこともなくなる。
 細雪が瞳の中に静かに落ち、溶けて消えた。雫がまるで涙のように頬を伝った。

「もし、稗田様?」

 突然の声に心臓が跳ねるくらい驚いた。引き攣ったような悲鳴も少し漏れたかもしれない。
 身体ごと振り返り、目元を拭う。

「……ですよね、お久しぶりです。その節はお世話になりました」

 深々と頭を下げる女の人がいた。
 誰だろう、とは思わなかった。こんな墓地の奥まったところで出会う人は一人しかいない。彼の母親である。葬儀の時に涙の一つも見せず、ただひたすらに緊張していただけの母親である。
 何しに来たのだ――そんな言葉を唇が探り当てそうになり、噛み潰すように飲み込んだ。

「お久しぶりです……俵田さん」
「覚えていてくださったのですか」
「生憎なことに物覚えが良すぎるので。忘れたくても忘れられないのです。俵田さんこそ、あれから私も大きくなったとは思うんですが、よく後ろ姿だけでわかりましたね」

 いつから私はこんな皮肉を言うような人間になったのだろうか。軽い驚きを覚えつつ、しかし自己嫌悪なんて微塵もなかった。身体の震えを抑えるのがやっとなほどの後ろ暗い快感があった。
 こいつも死を蔑ろにした人なんだ。そう思えばこそ、苛立ちも募る。

「わかりますよ。息子の友達ですから。家ではいつもあーちゃんあーちゃんって言っていました」

 あーちゃん。もう聞くことはないと思っていた幼い頃の呼び名だ。恥ずかしいからやめてくれと何度言っても彼は聞き入れてくれなかった。
 初恋のような甘酸っぱいものでは決してなかった。兄妹のような情に溢れたものでもなかった。ただそこには同年代と上手く溶け込めない不器用な人間が二人いただけのような気がする。

「あーちゃんが、まさか稗田様のことだとは思いもしませんでしたが」

 この人の口から「あーちゃん」なんて言葉を聞きたくなかった。

「いえ……私はこれで失礼します」
「あ、あの!」

 立ち去ろうとする私を引き留めるような強い語調で、

「ありがとうございます」

 再び、母親は深々と頭を下げた。

「聡明な稗田様のことです。あの日の私の無様に対し、きっと憤りを覚えていることと思います」

 どきりとした。まさしくその通りである。

「そのことは重々承知しております。愚かな母親だったと今でも悔やんでおります。あの日、稗田様だけが息子の死を心の底から悼んでくれていました。私は葬儀の最中ずっと悲しむことも忘れ緊張に身を竦めていました」
「そうですね。私もそう思います」

 もう、隠す必要もないだろう。
 胸の中でじくじくと蟠っていた毒が、ここぞとばかりに喉元に込み上げてきた。頭を下げ続ける母親に、私は反吐をぶちまけるように言葉を吐いた。

「あの日のあなたは彼の死を踏みにじったと今でも私は思っています。死は有り触れたものかもしれない。けど私は、死は貴くあるべきものだと信じています。その人の死を悼むからこそ葬儀をするのに、どうして悼むべきその場で他のことに心を奪われるのか」

 どうして赤の他人を招いて箔を付けようとするのか。どうして段取りの中に涙を隠すのか。どうして心の見えない作法を重んじるのか。

「返す言葉もございません」
「……失礼します。私はまた墓参りには来ますが、今度私を見かけても挨拶はしなくて結構です」
「はい。承知いたしました」

 タチの悪い満足感が私の胸を黒々と満たした。
 そして母親は、

「ありがとうございます」

 と三度頭を下げた。

「……なぜ、礼を?」
「救われたからです」
「……誰が」
「私がです」
「…………ッ」

 それは――ずるい、何もかもがずるいと思う。
 私は、本当は知っているのだ。一際立派な墓石であり続けるには日頃から手入れをする必要があることも、誰も墓参りをするはずのないこんな冬の日に彼の母親がここにいることも、一切の言い訳もせずあの日の己の不徳さを吐露することも。この人が、彼の死を誰よりも悲しんでいる証左であることを。
 そして彼女は、もはや何も言ってくれない彼の代わりに、私に非を責め立てられることでその罪を贖おうとしているのだ。だから救われた、そう言ったのだ。
 私は自分の狭量を見せられた気がして思わず叫んだ。

「それならどうして慧音さんを葬儀に呼ばなかったんですか! あなたが本当に彼のことを想うのなら、彼の死を悲しんでいた慧音さんをまず最初に呼ぶべきでしょう!」
「それは……」
「あの日慧音さんが家の裏でこっそり手を合わせていたことをあなたは知らない!」
「上白沢さんが、来てくださった?」
「そうですよ。あの時だけじゃない、今日だって、いつだって、慧音さんは喪服に身を包んでいる」
「そんな、だって、上白沢さんは事情があって葬儀には出られないって……」
「事情? あなたたちが排斥していたのでは?」
「と、とんでもない!」

 墓地の隅々にまで響くような大きな声に聞こえた。まさか否定されるとは思っていなかった。

「息子が亡くなったとき真っ先に葬儀の相談をしにいったのが上白沢さんのところです。私は息子と稗田様が友人だとは知りませんでしたから。稗田様に何から何まで仕切っていただく直前まで、全ての段取りは上白沢さんが取り仕切ってくださったのです。参列を断るなんてとんでもない。里の人たちはみんな上白沢さんに出て欲しいと思っております。けれど、どの葬儀も事情があって出られないと……ああ、だって、そんな……」

 感情に茹だった私の頭でもわかる。この人は嘘をついていない。
 瞳に一杯の涙を溜めて彼の墓に跪き、感謝と後悔の言葉を一心に呟く姿が嘘であるなら、この世の何を信じればいいのか。
 母親は間違いなく救われたのだと思う。私に責め立てられたことと、慧音さんが来ていたことを知って。
 そして私も、救われたのだと思う。この母親が誰よりも彼の死を悲しんでいることを知って。
 私は深く頭下げた。醜悪な心をぶつけたことへの慚愧の念と、深い愛情への敬恭を込めて。


* *

 冬真っ直中である。こんなにも冬を歩く日が来ようとは思わなかった。
 慧音さんの家は人里の端にあり、墓地から慧音さんの家までは随分と距離がある。更に寄り道が加わると日が暮れてしまう。
 かつて経験したことがないくらい頭が熱くなっていた。葬儀は慧音さん自ら参列を拒否したということになる。ではあの喪服姿は何を意味しているというのか。
 理由が知りたい。
 他人事だとは思いたくない。
 慧音さんの家が見えてからは更に私の足が速まった。在宅を確認することもせずに戸を開け放つ。呼吸に阻まれてすぐに声は出なかった。酸欠で目が回り、膝が笑い、こめかみが脈打つ。

「ハア、ハア……慧音、さん……慧音さん!」

 開け放たれた戸から冷たい空気にじり寄ってくる。家の奥から火鉢の煤けた匂いがするのに気付いて慌てて戸を閉めた。

「はーい、ちょっと待ってくれー」

 家の奥から声がした。心臓の鼓動が三十を数えた頃、ようやく慧音さんが現れた。

「いやすまない。お待たせした……って珍しいな」
「どうも。先程振りですね」
「ふ、む……あがってくれ。外は寒かったろう。熱いお茶を淹れるから」

 まだ肩で息をしている私を見て、立ち話をするような内容ではないと思ったのだろう。
 掃除の行き届いているこざっぱりした部屋へ通される。文机の回りにだけ小物や書物が集中しているあたりが私の部屋といかにも似ている。思えば、私と慧音さんの在り方は近い。お互い歴史の編纂の為に生きている。

「それで、どうしたんだ」
「慧音さんを糾弾しに来ました」

 私の不穏な言葉にすうっと慧音さんの目が細くなった。

「それは穏やかじゃないな」
「と言うのは半分冗談です。半分は本気ですけど。私は慧音さんのせいで里の人に恥ずかしい説法をするところでしたよ。責任を取ってください」

 くつくつと慧音さんが笑った。

「もしかしてわざわざ確かめたのか?」
「ええ。ある人に食って掛かりました。えらい恥を掻きましたよ」
「ふふふ、だから除け者にされていないと言ったのに。申し訳なかった。まさか稗田の当主がそんなに直情的な奴だったとは思わなかったんだ」
「子供ですよ、私は」

 しみじみとそう思う。
 十の頃から並の大人とは比べられないほどの知識を持ち、一度見たものは決して忘れない記憶力で歴史を記し、あと数年も経てば転生の準備をするため普通の人間として生活が出来なくなる、人間として不自然な存在が私である。子供だとか大人だとか、真っ当な人の精神と比べること自体がもうおかしいと言わざるを得ない。普通の人間ではないことに対して不満があるわけではない。普通の人間として一生を送りたいと、生憎だが一度足りとて願ったこともないのだ。
 もうそんなことは、過去の私が血を吐くまで苦悩したに違いない。
 そして私はこうして転生を続けている。
 そんな私がただ一つ拘泥する思いがある。子供じみた譲れないものだ。

「私は死ぬのが悔しいんです」

 生まれ変わったとき、積み上げた何もかもを手放していることが、堪らなく悔しい。賽の河原で小石を積み上げるが如き不毛さを繰り返して、平気な顔でいられるほど私は人間らしさを捨ててはいない。妖怪のような強さも、仙人のような達観も、私には無い。

「転生したときに大半のことを忘れてしまっていることが悔しい。私のことを知っている人がいなくなっていることが悔しい」

 ゆえに私は、死が貴いものでなければならないのだ。
 きっと誰にも共感してもらえないだろうと思う。転生を繰り返す生物なんてこの世のどこにいるというのか。

「それで、私にどうしろと?」
「葬儀に出てください。葬儀は残された者が心の整理をするために行うものだと慧音さんは言いました。それは間違っていないと思います。けれど私は正しいとも思いません。誰もが羨むくらい立派な葬儀に、誰もが頭を下げるような偉大な人が参列しても、残された人が救われるなんてことは無いんです。その一方で、逝く人もまた、救われない」

 そう。無かったのだ。私はそれを数時間前に知ったばかりだ。

「だから慧音さん」
「悪いが、それはできない」

 毅然とした声だった。

「そんな、どうして」
「本来なら私はこれほど人間の近くにいるべき存在じゃないんだ。白澤という妖怪はお前も知っているだろう?」
「……ええ」

 優れた為政者の元に現れると言われている聖獣。病魔を退け、災厄を回避し、子々孫々までの繁栄を約束する妖怪だ。

「しかし実際はそうでもない。私の回りにいる人間は相変わらず妖怪に殺されるし、呆気なく病気で死んでしまうし、自然災害にも見舞われる。中にはこう思う者だっているだろう――白澤の加護があるのではないのか、と」
「それは……」

 そんなことはない。そう判ずるには無責任な気がして咄嗟に言葉が出てこなかった。

「それだけじゃない。私の力を知っているだろう」
「歴史を隠し、創るという……」
「うん」

 慧音さんは鷹揚に頷く。

「もしかしたら私は、病気や災害で亡くなった人の歴史を無かったことにして、明るい未来を創ることもできるかもしれない。しかし私はそれをしない。やろうとも思わない。救えるのかもしれないのにしないのだ。そんな私がどの面を下げて亡くなった人の前に出れば良い? 見殺しにしているに等しい私が、一体何を祈ると言うんだ?」
「あなたは――」

 嗚呼――この人は……。
 白状しよう。この人は正真正銘気が狂った人なのだと思った。頭のどこかがおかしくなければ、こんなことは言えるはずがない。人間にも完璧主義者というのはいる。身の程知らずな大望を抱き、それが叶わなかったことを心の底から嘆く愚か者。誰かが傷つくとそれは自分の失敗だと思い込み、お節介な自己憐憫に浸る救いようのない虚け。

「あなたは――」

 私はそれも人間だと思う。手も足も出ない大言壮語を吐いて自らを責め立てる自虐的な生き方も人間としての一つの在り方だろう。誰もが聖人のようにあろうとして、誰もが聖人になんてなれやしないのだ。
 しかし。
 慧音さんは。

「あなたは、そんなことを考えながら、それを歴史に残しているのですか……?」
「……」

 無言は馬鹿げた肯定を意味した。
 歴史を書き記す度に己の罪と無力さを噛み締めているとしたら、間違いなく狂ってる。そんなもの歴史書でも何でもない。懺悔書だ。何月何日に私の未熟さで某が死んだ。某が病気になった。某が怪我をした。某が――某を――見殺しにした。そうやって起こった不幸の責任を全て自分へ転嫁し、何年も何年も歴史を記し続けることを我が身のことと想像し、身震いするのを隠すこともできなかった。
 たちまちの内に、私の心に怒火が燃え広がった。

「来てください」

 慧音さんの腕を力一杯握りしめて立ち上がる。

「お、おい」
「大人しく来てください!」

 慧音さんを引き摺るようにして部屋を出る。私はそのまま上着も羽織らずに外に出た。随分と暗くなっていた。相変わらず雪がちらついている。

「どこへ行くんだ!」
「昼の葬儀場です」
「馬鹿を言うな!」

 振り返って睨め付ける。

「馬鹿を言うな? それはこっちの言葉です!」

 自分がこんなにも大きな声が出せるなんて知らなかった。

「私たちを馬鹿にしないでくださいッ!」

 夜を切り裂くような悲鳴が私の口から迸っていた。

「その目で確かめればいいでしょう! この里のどこにあなたを恨んでいる人がいるというのか! 死んだ全員に聞いてきてあげますよ! あなたを怨んでいる人がいるかどうか、転生したら教えてあげます!」

 腕を取って歩く。鼻息も荒く雪を蹴散らしどんどん進む。
 先程、事前に話は通しておいた。棺はまだ墓地へは運ばれていない。今は遺族と生前に仲良くしていた人たちだけになった葬儀場へ入っていく。

「遅れて申し訳ございません。慧音さんを連れてきました」
「おおー稗田様! 上白沢さん! おい皆お二方が来たぞー!」

 葬儀とはある種の宴会でもある。親戚が一堂に会する機会であり、故人と繋がりのある人たちが久しぶりに顔を合わせる機会なのだ。昨晩の通夜でも煙の番をしながら夜通し話に花を咲かせていたらしい。死んだ者が楽しそうな雰囲気につられて戻ってくるかもしれない。そんな願いもあるという。それももう昨日で終わったことだ。葬儀を終えた彼らには、亡き人は還ってこないというある種の晴れ晴れとした諦めがあった。
 向き直る。自分が思う目一杯怖い顔をして慧音さんに告げる。

「嫌なら手を合わせずとも良いです。焼香も結構です。ただ、どうか故人の生前について教えてください。慧音さんしか知らない彼の話を」

 慧音さんは目を瞑り、覚悟を決めるかのように息を吐いて棺の前まで歩いていった。
 手を合わせるのかと思ったが、棺の前で私たちの方へ向き直り、そのまま正座をした。

「私には誰かの死を悲しむ資格がないと思っている。だから、これはただの昔話だと思って聞いて欲しい」

 そして、慧音さんはふっと表情を弛めた。

「こいつは、源一郎は……馬鹿な男だったな」

 慧音さんの言葉に親族や知人たちが一斉に大笑いした。そうだそうだ、もっと言え、と囃し立てる声も混じっている。

「源一郎が初めて私のところへ来たのは、十一の頃だった。出会い頭に『読み書き算盤を教えてくれ』と言われて困ったものだよ。話を聞けばどうやら友人に読み書きできないことを馬鹿にされたらしい。源一郎は強情な男でな……初めは断ったのだが毎日毎日朝も早い内から家の戸を叩かれて私は寝不足になったものだ。源一郎を馬鹿にした輩はこの中にいるんじゃないか?」

 再びどっと笑いが起こる。お前じゃないのかと責任を擦り付ける声が幾つも聞こえた。

「源一郎は、うむ、さっきも言ったが馬鹿だったよ。物覚えが悪くて手を焼いた」
「それに助平だった!」
「ああ、その通りだ。ませた子供だった。無論、源一郎だけじゃないだろう。こいつと連んでいた一味は全員助平だったに違いないと私は睨んでいる」
「そいつは酷ぇや」

 度々巻き起こる笑いの渦。それが引くのを待ってから慧音さんは訥々と語っていく。

「源一郎は辛抱強い男だったな。結局一通りの読み書き算盤を覚えてしまい、数年後には商売を始めてしまった。私以上に驚いたのがこいつの親父殿で、私の目の前で源一郎を殴っていたよ。目を覚ませ、お前に商売は無理だ、ってね」
「俺たちも驚いたもんだよ、なぁ」

 男たちが頷き合う。

「商才があったのかどうかは私にはわからないが。結果として源一郎は上手くやった。お千代という可愛い嫁さんももらったしな。やがて子供もできた。そうそう、まだ小さかった息子が里の外で妖怪に襲われたことがあってな、私の制止も聞かず飛び出していったよ」
「そんなことが?」

 驚いた顔で慧音さんに問うたのはその息子であろう。二十代後半とは思えぬ貫禄の面構えは、額に大きな傷があるからだ。

「ああ。お前は覚えてないだろう。額の傷はそのときのものだ」
「知らなかった……。この傷は酔った親父が転んだ拍子に俺の上に倒れ込んだからだって聞いていました」
「私とお千代しか知らなかったことだが、そのときに源一郎は右目の視力を失っている。息子の命に比べれば右目なんて安いもんだと笑っていた。今でも誰も知らないとしたらよほど演技が上手かったのだろう。あるいはとんでもなく馬鹿で強情で格好付けだったからか。その辺は子供の頃から何にも変わりはしない」

 その事実は本当に誰も知らなかったらしい。お千代さん――奥さんへ集まる視線に、彼女は目をうっすらと赤くして、小さく頷いて笑い返した。
 訥々とした慧音さんの語りは、いつしか滔々と紡がれていた。春の日の花見で起こした馬鹿騒ぎを。夏の日の川で溺れた話の顛末を。秋の日の焼き芋から始まった小火を。冬の日の風邪に倒れた息子の看病を。誰もが聞き入っていた。慧音さんにとって彼は守るべき人間の中の一人にしか過ぎない。しかし慧音さんは彼の一生を覚えている。どれほどの思いを込めて私たち一人一人と接してきたのか、誰しもその深さを測ることをできないでいる。
 母のような優しさに。父のような強さに。私にはただ頭を下げることしかできなくて。
 これを感謝というのだろう。

「今年で五十一だったか」

 場はいつの間にか、しん――と静まり返っていた。

「まだ……若かったのになぁ」

 もう誰も笑っていなかった。
 いや笑っていたのかもしれない。話を聞く限りやんちゃな人だったのだろう。そしてそんな彼の回りにいた人たちもまた、やんちゃに違いない。だから誰かが鼻を啜った音は気のせいで、目元を拭っている人は私の見間違えで、きっとここにいる男たちは皆笑っているに決まっている。
 私は棺に眠る彼の人生が幸せだったのかどうかは知らない。けれども確信を持って言える。こうして惜しまれて逝く彼の人生は意味のあるものだったのだ。
 私も、惜しまれて逝きたい。
 転生すると失ってしまう人間関係でもこうして惜しまれることで、きっと私は救われる。
 お千代さんが両手で顔を覆いながら慧音さんに深く深く頭を下げた。慧音さんも頭を下げ、静かに立ち上がって退室する。私はその背中を追う。

「慧音さん」
「……ああ言いたいことはわかる、私も本当は初めからわかっていた。誰かが亡くなる度に私の所へ喪主が来た。私に『今までありがとう』って言うんだ」

 雪はとっくに降り止んでいた。

「歴史を修正してくれと言い出す奴なんて一人もいなかった。どうして事故や病気から守ってくれなかったのだと、恨み言をぶつけてくる奴なんてただの一人もいなかった」
「そんなの当たり前じゃないですか」
「当たり前、なのだろうか」

 慧音さんが宵の空を仰ぐ。月は出ていない。ただ立ち籠める雲だけがあるのみだ。

「あと何年かしたら私は満足に動けなくなります」

 私はずっと願っていた。
 初めて友人が亡くなったときも、名も知らない誰かの葬儀で苛立っていたときも、我が子の亡骸を嘆く親狐の姿を見たときも、それを思い出しては胸が痛くなるのも、ただ自分の最期をそれに重ねて儚んでいただけなのだ。

「そして私が死んだとき、もし私の死を惜しんでくれるのなら、私の葬儀で泣いていただけませんか」

 稗田家の歴史書には記されることのない私の生きた意味が、きっとそこで初めて生まれる。
 そんな気がするのだ。
 そして、次に訪れる九代目の私の生が、きっと別の意味あるものになると思うのだ。





2008年頃、とある事情で書いたものをゴミ箱で見つけてしまったので、もういいかと思ったのです。
みつば
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コメント



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1.14無名のプレイヤー削除
すごく心に響いた。
慧音の立ち位置をここまで繊細に思い描いた作品があっただろうか。
八代目の阿礼乙女が白い息を吐きながら赤い頬で感情を吐き出す情景が目に浮かんだ。
僭越ながら、この作品、もっと多くの人の目に届く場所に残していただきたく思います。
2.14無名のプレイヤー削除
ここにおいて置くのが惜しいというのは身勝手な読者の感想でしょうか
3.14佐乃一削除
凍てついた雪でさえ、真綿のように温かく感じられる素敵な物語。
なにげない日々の中、少しずつ重ねられてきた優しい嘘が、心の奥まで染み入ります。
白い喪服に込められた意味や、すべての登場人物が織り成す心理描写が素敵でした。
こんなにも優しい世界だからこそ、慧音先生も守り続けたくなるのでしょうなぁ。
4.14図書屋he-suke削除
ゴミ箱の中に消えず、こうして読むことができたことを嬉しく思います。
5.14無名のプレイヤー削除
もうそそわに投げていいんじゃないかな(しんみり)