世の中には『近づくほど遠く離れて感じられるもの』というのが色々とあるもので、あたいとさとり様の関係なんてのも、そのうちの一つなんだろうな、と思う。
自分が単なる一匹の黒猫だった頃は気にもしてなかった。
さとり様がいかに強大な力を持っていて、恐るべき存在なのか、だとか。
さとり様がいかに冷静で凛然としていて、美々しい存在なのか、なんて。
ペットでよかった。
これが対等な立場だったなら、あたいはさとり様と共に暮らすことに、息苦しさすら感じていたんじゃないか。
さとり様が、妖怪となったあたいらをあくまでペットとしてしか扱わないのは、そのことがわかっているからなのかも知れない。あのお方ほど他者の心の動きに敏感な方はいないのだから。
時折、さとり様はあたいらをじっと見る。その目つきはどこか寂しげで、だからあたいは何となく思うのだ。
きっと、さとり様は対等にやり取りのできる相手が欲しいんだろうな、って。
けれど、あたいにはその役割は果たせない。
あたいはさとり様が好きだ。大好きだ。足とかペロペロ舐めたいくらいには好きだ。
でも、同時に近寄りがたい雰囲気も感じている。気安く触れてはいけない気がする。
だから、あたいは少し離れたところからさとり様のお姿を眺めるだけでいい。
こうしてそっと眺めることしか、できないのだ。
その夜も、あたいはリビングでさとり様の横顔を眺めていた。おくうは早々に寝てしまっていたし、することもなかったのだ。
なごり雪が水となって、さらさらと流れていくような時期。わずかに開かれた窓から流れてくる春の夜気が心地よい。微かに漂うのはウツギの花の香りかしらん。
さとり様は珍しくリビングで何やら書きものをなさっていた。いつもならご自分の書斎でお書きになっているのだけど、気まぐれだろうか。
書きものをされているさとり様の横顔は、普段とはまた違って他を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。超然としている、とでも言えばいいだろうか。
文字で綴られている世界の中に、じんわりとどこまでも沈み込んでいくようなそのお姿は、まるで夢か幻のようにも思えた。
――りん。
その言葉を、あたいは一瞬、認識できなかった。
こちらの空白に滑り込むような声は、まるで鈴の音か何かのようですらあって。
「燐。お燐」
二度、三度と呼ばれて、あたいはようやく自分の名を呼ばれていることに気付いた。
つい今しがたまで仄白い横顔であったのが、こちらを向いている。静かな深淵のような淡い菫色の双眸。そしてあたいの心の奥底まで見通す、第三の瞳が。
「な、なんでしょう」
思わず居住まいを正しながら、あたいは応える。
主に何度も呼ばせるなど、ペットとして失格だ。あたいは内心口惜しく思いながら、この思いすら読まれてしまっているであろうことに忸怩たる思いを抱いた。
何か些細なことで苛立つと、そんな些細なことで苛立ってしまったことに対して更なる苛立ちを覚える、ということがある。ちょうど、それに似ていた。
「楽になさい。あのね、少し貴方に話しておきたいことがあったの」
そこでさとり様は言葉を切った。そうして、ややあってから小首を傾げつつ続ける。
「いえ、そんな畏まることじゃないのよ。話しておきたいこと、というより……そうね、お話しをしたい、といったほうがいいかしら」
「お話し、ですか」
畏まることじゃない、とさとり様はおっしゃるけれど、なかなかどうしてそれは難しい注文だった。
だいたい、儚げで美しい、格の違う相手がじっとこちらを見つめているというだけで、胸もドキドキしてこようというものじゃないか。あたいが本能のままに行動するメス猫であったなら、直ちにさとり様をペロペロしていたことだろう。
「ごほん、ごほん!」
さとり様が咳払いをする。
ああ、またやってしまった。ペロペロは封印すると決めたのに。
「お燐はまるで思春期の男子学生みたいだねっ」とこいし様に爽やかな笑顔で言われたことを思い出す。思春期の男子学生なる存在を、あたいはよく知らないが、さぞかし煩悩にまみれているのであろう。
「そう、お話し。ちょっとした話をするから、貴方の感想を聴きたいの」
さとり様はそう言って、あたいをじいっと見る。
もちろん、あたいに異存などあろうはずもない。さとり様のお話しなら、明日の朝ご飯の献立についての話題から恋バナまで、何だって拝聴する所存だ。
さとり様がこうしてお話しをして下さる機会なんて滅多にないことだから、こちらのテンションも否応なしに上がってしまう。
あたいが一も二もなく頷いて見せると、さとり様は目をつむり、うっすらと微笑まれた。
ゆっくりと息を吸う音が、ふたりだけの静かなリビングに響く。そうして、さとり様は口を開いた。
「これより語るは、昔々の、ある山奥での出来事――」
◇ ◇ ◇
人里に、あるひとりの老人がいた。
名を、作蔵という。
彼は、良く言えば大らかで細かいことを気にしない、悪く言えば愚鈍な老人だった。
故に、あだ名を「抜け作」といった。
齢の頃は五十ほど。当時の人間としては高齢なほうといえる。
炭焼き職人であった彼は、山の中に入って木を伐っていた。
彼は熱心な働き手でもあったので、陽が落ちるまで山の中にいることも珍しくなかった。
ある日のことだった。
一生懸命木を伐っていた作蔵が、手を止めて辺りを見回すと、すっかり暗くなってしまっていた。
彼は手持ちの灯りをつける。柔らかな光がぼうっと広がった。
山の夜は静かで、それゆえ色んな物音が聞こえてくる。
木々の葉の擦れ合うガサガサという音。何かの鳥のホーゥホーゥという鳴き声。野鼠やら狐やらの走り回るタシタシという足音。
作蔵は伐り終えた木を見下ろし、首に手を当ててコキコキと鳴らす。
「今日はこれくらいにしておくか」
そう独り言を言って、作蔵が木を拾おうとした時だった。
彼の背後から、ピシリという音がした。それはちょうど、誰かが地面に落ちている小枝を踏みしめたような音だったので、作蔵は振り返る。
そこに立っていたのは、美しい美少女で――
◇ ◇ ◇
「あの、さとり様」
思わずあたいは口を出してしまった。
さとり様のお話しを遮ることになってしまうのは心苦しかったが、気になったのだ。
首を傾げるようにして、さとり様は「何かしら」とおっしゃる。
「美しい美少女、っておかしくありませんか?」
明らかに変だ。馬から落馬、みたいなものだろう。
美少女が美しいのは当たり前なわけで、わざわざ「美しい」という形容をする必要がない。
すると、さとり様はずいっと身を乗り出してきた。
「違うわ、お燐」
「え、あ、はい」
謎の勢いに、思わず身を引いてしまう。
さとり様は指を振りながら続けた。
「そもそも少女とは、皆美しいものなのよ」
「はぁ」
「もちろん貴方もよ? お燐」
「あ、ありがとうございます」
すごい、初めて見た。さとり様がウインク飛ばしてくるところなんて。若干ウザい。
「だから貴方の理屈で言うなら、『美少女』という言い方からして余計だともいえる。そこを敢えて『美少女』と言い、それに『美しい』という形容詞を加えることで、絶世の美少女だということを示すのが表現技法というものなのよ。覚えておきなさい」
「ぇー」
釈然としないけど、そういうものなんだろうか。
まあ、さとり様がおっしゃるのなら間違いない気も、うーん。
「えっと、わかりました。続けて下さい」
あたいが促すと、さとり様はこくりと頷かれた。
◇ ◇ ◇
作蔵は、その美しい美少女(以下、『美少女』と略す)を見る。
彼が声を掛けようとした刹那、美少女は口を開いた。
「こんばんは。いい夜ね」
挨拶されたのだから、挨拶を返すべきだ。
作蔵はそう考え、「おう、こんばんは」と言った。
美少女は微笑み、「ところで」と続ける。
「こんな夜遅くに、私のような美少女がひとり、山奥にいる」
「うん」
「変だと、思いませんか?」
作蔵は首を捻った。
言われるまで、まったくそんなことは思っていなかったのだ。
「いんにゃ。実際、今おれの目の前にいるんだから、変も何もないだろう」
「そ、そうですか」
作蔵が言うと、何故か美少女は落胆したようだった。
「で、でも。……でも! 改めて考えると、ちょっとはおかしいとか思ったりしません? 不気味だな、とか」
「特に思わないが」
「そんなぁ」
あからさまにガッカリする美少女を前に、作蔵は考えた。
以前にも似たようなことがあったのだ。
あれは、そう、弁当を渡してきた女が「美味しかった?」と聞いてきたので、「普通に食えた」と返したら、酷く落ち込んだ様子となったのだったか。
女性というものは作蔵にとって未知なる存在で、いきなり何か言ったりやったりしてくるかと思いきや、がっかりした様子で去ってゆく。
それを繰り返してはならない、と作蔵は思った。
「ああ、だがな。お前さんの言いたいことはたぶんわかったぞ」
作蔵がそう言うと、美少女はパッと顔を上げた。
何かを期待するような顔つきの彼女に、彼は肩をすくめて言ってやる。
「怖いんだろ?」
「はぃ……は?」
作蔵なりに考え、察したことである。
自信満々で彼は続けた。
「おれは鈍いもんだで、すまなかった。そりゃあ、こんな夜に山の中、お前さんみたいな女の子がひとりで、怖くないわけないわな。山を降りたいなら、送ってやるぞ」
完璧だ、と作蔵は思った。
言外の意味合いを汲み取ることが苦手で、それがために女性にもさっぱりモテなかった。
けれども、今こそばっちり相手の言いたいことを掴むことができたぞ、と彼は確信する。
だが。
「――ンなんだからモテないのよばかぁー!!」
美少女は一声そう叫ぶなり、脱兎の如く駆け去って行った。
それは予想外に俊敏な動作であったから、彼が呼び止める暇もなかった。
後に残された作蔵は、ぽかんとした顔で立ち尽くしていたのだった。
◇ ◇ ◇
そこでさとり様はいったん言葉を切る。
あたいは、続きがちょっと気になったけれど、「お茶を淹れてきましょうか」と申し向けた。
ずっと喋っていると口の中が渇いてしんどくなるからだ。
「そうね」とさとり様は頷く。「お願いしようかしら」
あたいがポットからお茶を淹れて戻ると、さとり様は腕を組んで、何か考えごとをなさっているようなご様子だった。
白いカップをテーブルへ置くと、さとり様は夢から醒めたような顔であたいを見る。
「あら、ありがとう」
「いえいえ。あの、続きを聞かせて頂けますか」
あたいが頼むと、さとり様はまた微笑まれた。
気のせいか、先ほどより嬉しそうに感じられる。
なんでか、あたいはさとり様が表情に乏しく、何をお考えになっているのかわからないというように思い込んでいたようだ。
けれど、こうして見れば意外と――と言ったら失礼か――さとり様は表情豊かなのだった。
◇ ◇ ◇
それから数日後のこと。
作蔵はまたしても宵闇の山にいた。無心で仕事をしていると、いつの間にやら辺りが真っ暗になっているのだ。
「これくらいにすんべか」
作蔵が灯りを片手に額を拭った、その時である。
「あら、また会ったわね」
「うん?」
美しい美少女が、そこに立っていた。
どこか得意げな顔の彼女に向かって、作蔵は口を開く。
「あのー、どちらさん?」
「へっ?」
一転して、口をあんぐり開ける美少女。
作蔵は申し訳なさそうに頭を掻く。どうにも自分の記憶力が弱いことは、彼も自覚していたのだ。
「ねぇ作蔵さん、こないだの話……考えてくれた?」と、そんなことを言ってきた女の子に「何だっけ?」と返したら「ひどいわ!」とビンタされたこともあった。
またしても己はそれを繰り返してしまうのか、と作蔵は暗い気持ちになる。
「この私を覚えてないわけ?」
「はぁ、そのぅ」
どうにもよろしくない。
作蔵は、眉を吊り上げる美少女に向かって、弁解をするつもりで言った。
「なんというか、別におれだって何もかも忘れちゃうわけじゃないんだよ。そうだな、印象深い女の子なら覚えているんだが……」
「な、な、な――」
わなわなと身を震わせる美少女を前にして、作蔵は首を捻った。
どうにもよろしくない。
ただ、何がよくなかったのかは、どうしてもわからないのだ。
「ごほん、ごほん!」
ほどなくして気持ちを落ち着けたのか、美少女は作蔵を睨みつけてくる。
いや、あまり気持ちは落ち着いていないようだったが。
「先日、山の中で、会ったわよね?」
「あ、ああー。そういえば」
会ったような気がする。
仕事が終わった辺りの出来事だったので、よく覚えていなかったのだ。
気が緩むと、どうしても色々なことが頭に残らない。
「で、どう?」
どう、と言われても。彼はひどく困惑した。
美少女は一歩、彼の方へ近づく。
「こんな夜の山奥に、美少女がひとり。フフフ、怖いかしら?」
「何が?」
「んなぅ!」
あ、転びそうになった。
木の枝でも踏み付けたのだろうか。山歩きにはそれなりの経験や装備が必要なのだ。
作蔵は美少女が足首でも捻っていないかどうか、心配になる。
「いつっ……大丈夫よ。足首は何ともないわ」
「そうか、それならよかったが」
彼としては普通に返しただけなのに、美少女はなおも不満げな顔だ。
「どうかしたのかね」
「貴方、おかしいと思わないの?」
「ええっ」
今のやり取りで何かおかしいところがあっただろうか。
作蔵は考えるが、やっぱりわからない。
何と応えたものか悩んでいると、焦れたように美少女は口を開く。
「貴方は、こう思ったでしょう? 『この子、足首でも捻っていないだろうか?』って」
「あ、ああ。そうだな」
「でも、別にそれを口に出したわけじゃないわよね」
「そうだったっけ」
「そうなの!」
美少女は両手を振り上げて叫ぶ。
その剣幕に、作蔵は思わず頷いた。
「そうかもな。うん、そうだった。たぶん口に出してない」
「じゃあ」
ここで美少女は何故かニヤリと笑い、声をひそめる。
「……なんで私は、『足首は何ともない』と答えられたのかしらね?」
「ふむ」
美少女は明らかに何かを期待する風であった。さすがの「抜け作」にもそれくらいはわかる。
だが、例によって何を期待されているのかわからないので、思ったことを率直に言った。
「ええと、察したんだろう?」
作蔵がもっとも苦手とすることの一つだった。相手の言葉以外の部分から、相手の言いたいことを察するのは。
そのため、さっぱりモテなかったのは前述のとおりである。
そして。
「あんたなんか! モテるわけ! ないでしょー!!」
案の定というべきか、美少女は怒りに満ちた叫びを上げ、脱兎のように――いや、片足をちょっと引きずるようにして駆け去って行った。
後に残された作蔵は、またしてもぽかんとした顔で立ち尽くしていたのだった。
◇ ◇ ◇
「ふむぅ」
あたいは唸る。
ここまでの話の流れで、このお話しの中の「美少女」とやらが何者なのか、何となくわかってきた。
それにしても、なかなか大変だ。
「そうね、大変なのよ」
さとり様も頷く。
口に出さなくても伝わるのは、このように便利なことも多い。
「ちょっと脇道に逸れるけどね」
さとり様はお茶を一口飲むと、ぺろりと唇を舐める。
その舌先があまりに蠱惑的だったものだから、あたいはさとり様の舌先をペロペロするのも悪くないか、と思い掛けて。
「ごほん、ごほん!」
おっといかん。またやっちまった。
はい、ペロペロは禁止ね。わかってますよぅ。
「お茶のお代わりでもいかがですか」
誤魔化そうとしたわけでもないけれど、そう勧めると、さとり様は「ん」とカップを差し出してきた。
何となく許されたような気がして、ほっとしながらお茶を注ぐ。
「もっとも力の弱い妖怪って、何かわかる?」
さとり様がそんなことをお訊ねになったので、あたいはポットをテーブルに置き、考え込んだ。
「妖精、とかですかね?」
怨霊の類を使役することはあたいにもあるが、妖精の怨霊、いわゆるゾンビフェアリーってやつはわりと扱いやすいため、スペルにも組み込んだりしている。
だが、さとり様は首を横に振った。
「答えを言ってしまうとね、『生まれたての妖怪』よ」
「あー」
なるほど、種族ではなくて状態を訊かれていたのか。
このまま考えてもおそらく答えは出せなかっただろうし、さとり様もそれがわかったからさっさと答えをおっしゃったのだろう。
こういう具合に、すれ違いによって時間を無駄にしなくて済むのも、心が読まれることの利点だと思う。
だけど、その答えが適切かどうかはまた別だ。
「生まれつき強い妖怪もいるんじゃないですかね? 鬼とか」
「それはその通りね。けれども、やはり生まれたては弱い。鬼としては、だけど」
なんだか蹄の割れた動物の落語みたいな話だ。
でも、言いたいことはわからないでもない。ほとんど全ての妖怪は、長く生きたモノのほうが強大な力を持つのだ。
他の生き物のように、年月を経ることで衰えるということがないのだから、もっとも弱い妖怪とは生まれたての妖怪である、という理屈に誤りはない。
「なるほど、わかりました」
「それでね、その中でもさらに弱いのが、サトリ妖怪なのよ」
と、さとり様は意外なことをおっしゃる。
あたいは驚いた。サトリ妖怪といえば、鬼にも恐れられる大妖怪だ。精神の攻撃に弱い妖怪は、自身の心を揺さぶられることを極端に忌避するものである。
もちろん、あたいは慣れているし、さとり様に隠したいことなんてないから問題ないのだけど。
とにかく、サトリ妖怪が弱いというのは解せない。
「そもそもね、サトリ妖怪が好んで食べるのが何なのか、わかるかしら」
「えっと、確か相手の恐怖、でしたっけ」
以前聞いたことがあった。相手の疑いや不信の念、悲しみや怒りといった負の感情をサトリ妖怪は食すが、とりわけ好きなのが恐怖の感情なのだという。
だから、相手の恐怖を刺激するサトリ妖怪は嫌われ者なのだ、と。
「その通り。じゃあ、もう一つ質問。相手を恐怖させるにはどうしたらいいかしらね?」
あたいは、またしても考え込む。
恐怖させる、か。勝手に恐怖してくれるなら楽だろうけど、人間でも他の妖怪でも、そうそう都合よく相手の恐怖している場面に居合わせることなんてないだろう。
すると、なんとかしてこちらから恐怖させる必要がある。
「恐ろしい外見をするとか」
「それは因果が逆ね。恐怖するからこそ相手が恐ろしく見えるものなのだから」
「強大な力を振るうとか」
「鬼ならそれでいいけれど、非力なサトリ妖怪には厳しいわねぇ」
「……背後から突然『わっ!』って叫ぶとか」
「驚かせることはできるかも知れないけれど、それって恐怖とは違うわよね」
むむ、難しい。
さとり様を参考に考えようか。
いつもさとり様がやっているのは、そう。
「相手を恐怖させる催眠術を使ってトラウマを抉り出す?」
「それなんだけど」
さとり様は、物憂げな表情でお茶を飲む。
「実は、後から身に付けたものなのよね」
「あ、そうなんですか?」
サトリ妖怪としての基本能力かと思っていた。
「あくまでも、サトリ妖怪が元からできるのは、相手の心を読むことだけだから」
「すると、どうやって恐怖させるんですかね。もう、『怖がって』って頼むしかないんじゃ……」
「あ、正解」
えっ。
頼むんですか? ホントに?
「もっと正確に言うと、『話術を用いる』といったところかしら。駆け出しのサトリ妖怪にできるのは、言葉によって相手の感情を操作し、引き出すことだけなの」
「へぇー。そうやって恐怖させて、それを頂くんですね」
と感心したところで、あたいは気付いた。
「じゃあ、その話術ってのが上手くないサトリ妖怪は……」
さとり様は黙って微笑んだ。先ほどまでと違って、やや硬質な微笑だった。
あたいが内心、まずったかと思ったところで、さとり様がポンと手を打ち鳴らす。
「それじゃあ、閑話休題。お話しに戻るとするわね」
「は、はい」
◇ ◇ ◇
また別の夜のことだった。
作蔵が木を伐り終え、一息吐いたところで声が掛けられる。
「いい夜ね」
三度目である。いかな「抜け作」といえども、今度ばかりは「誰だ?」と訊ね返すことはなかった。
「うん、いい夜だ」
そう言いながら振り向くと、美少女が何だか笑顔を浮かべ、大きく息を吐いていた。
含みのある微笑ではなく、安堵したような表情である。
「機嫌よさそうだな」
思ったままに彼が言うと、意外な事に「ええ」という肯定が返ってきた。
「とりあえず忘れられてなかったみたいだし。ようやく貴方に言葉が通じたような気がするわ」
そんな言葉を、作蔵は彼女なりの冗談なのだろうと受けとり、笑みを返す。
「ハハハ、よしてくれよ。言葉が通じるのは当たり前だ。おれもあんたも人間なんだから」
「……ふぅん」
すると、美少女は途端に笑みを消し、口を尖らせる。
やっぱり女心はわからんな、と作蔵は内心思った。
「女心とか以前の問題だと思うけど」
「そうかなぁ」
「ええ。貴方、全体的にニブいし」
「ああ、よく言われる」
作蔵が苦笑しながら言うと、美少女は肩をすくめる。
今まで彼に関わってきた多くの女性がしてきた仕草と、それはそっくりだった。
「で、そろそろ疑問に思わないの?」
「おう」
美少女の言葉に、作蔵は我が意を得たりとばかりに頷いた。
前回彼女が駆け去って行ってから、彼なりに色々と考えたのだ。
「こんな夜に、なんでお前さんのような女の子が山ン中にいるのか、ってことだよな?」
作蔵が確認すると、「そう、それよ!」と美少女は全身で頷いた。
今までの中で一番嬉しそうな顔である。
笑顔の女の子を見るのは、いくつになっても気持ちの良いものだ。
そんなことを思いながら、作蔵は続けた。
「わかったぞ。お前さんの家は、この山にあるんだ」
「……は?」
「おれも、この辺りの山の隅から隅まで知ってるわけじゃねぇ。どこかに小さい集落でもあるんだろ。なに、よくあることさ」
正解だろう、と作蔵が笑うと。
「あんたは! どうして! そうも……!」
美少女は何が腹立たしいのか、地団太を踏んでいる。
それは数日前に彼女が痛めたはずの足首が心配になるほどの激しさであった。
彼はまたもや思い出す。少年の頃、女の子から厚い手紙を渡されたことがあった。数日後、その女の子が「どう?」と聞いてきた時、彼は答えたのだ。「すまん、おれ、字ィ読めないんだ」と。
目の前の美少女の激昂は、そう答えた時の女の子の反応に似ていた。
「す、すまん。『小さい集落』と言ったのはおれの失言だった。気を悪くしないでくれ」
「ちが……ッ!」
美少女は、一層憤激した様子を見せる。眼前の美少女が、作蔵にはあの時の女の子と重なって見えた。
今でこそ作蔵は読み書きが人並みにはできる。だが、彼が少年だった頃、読み書きの当たり前にできる者はそう多くはなかったのだ。
あの手紙はいつの間にか失くしてしまったが、もし当時に字が読めていたならば、何かが違っていたのだろうか。
「違わないわよ! このニブちん野郎!!」
美少女は叫ぶ。
「そんなんだからあんたは――」
「モテないんだ、だろう?」
彼は先回りして言ってやる。
地味に傷ついていたんだと知らせたかったからだ。
モテないのは事実だが、毎度毎度去り際に言われるのは面白くない。彼だって好きで非モテなわけではないのだ。
「うぅ~」
作蔵はハッとする。
美少女は、涙目になってこちらを見上げるようにしていた。
何かが彼女を怒らせ、あるいは悲しませたのだろう。
彼にはその何かがわからなかったが、慰めてやりたいという気持ちはあった。
だから、彼がそうするのはごく自然なことであり、何も考えずに手が動いていた。
「ふぇっ!?」
頭なでなで。
作蔵は何気なく近寄って、美少女の頭をそっと撫でたのである。
「すまなかったな。おれには、お前さんがなんでそうも怒っているのか、皆目見当もつかんのだ」
美少女はしばらく俯いて、作蔵に頭を撫でられるがままになっていた。
やがて、ビクリと身を震わせると、彼の手をパッと払いのける。
そして、彼を睨みつけるようにして、大きく息を吸う。
「――――ばかっ!!」
そう一言だけ叫んで、美少女は山の夜へと融けるように消えていったのだった。
後に残された作蔵の表情は、もはや言うまでもないことであろう。
◇ ◇ ◇
さとり様は大きくため息を吐くと、そこで口を閉じられた。
あたいは空になっていたカップにお茶を注ぐ。
沈黙がリビングに落ちる。
「……私はね」
「はい」
ややあって、さとり様がおっしゃる。
「ニブいやつは嫌いよ」
「……はい」
そうでしょう、そうでしょうとも。
あたいはもう、お話しの中の「美少女」が誰のことなのか、わかっていた。
だから、言う。
「続きを、聴かせて頂けますか」
あたいは、さとり様のことなら、何だって知りたいのだ。
◇ ◇ ◇
その後も、美少女は何度か作蔵の前に姿を現した。
それらは、決まって彼の仕事が遅くなった夜の、山の中のことであった。
美少女が何かを言い、作蔵が言葉を返し、美少女が怒りだし、やがて彼女は駆け去る。
いつものやり取りだったが、彼にはいつしか、この奇妙な出逢いを楽しむ気持ちが生まれていた。
無心に仕事をしていた彼に、美少女と逢えるのではないか、という思いが生まれたのもその頃からである。
時には、そのためにわざわざ遅くまで山の中で木を伐り続けることすらあった。
そのうちに少しは会話が続くようになり、彼女を怒らせることも少なくなってきた。
とはいえ、作蔵には相変わらず彼女の望むような答えは返せなかったのだが。
それも、もう少しすれば解決するだろう、と彼は楽観的に思っていた。
変な話だが、これだけ辛抱強く作蔵と会話をしてくれたのは、彼女が初めてだったからだ。
彼は浮かれていた。
――そして、その夜が訪れる。
「私はね、サトリ妖怪なの。人の心を読む化け物」
どこか疲れたような顔の彼女がそう言うのを、作蔵はぽかんとした顔で聞いた。
「妖怪……?」
「ええ。こんな夜にひとりで山の中にいるのも、貴方の思ったことが手に取るようにわかって反応できたのも、全部そのためよ」
はっきりとそう言われて、作蔵はようやく理解した。
どうやら、目の前のこの美少女は、人間ではないらしい、と。
だが。
「ハハハ、そうか。だけど不思議だな。お前さんからは怖いとか恐ろしいとか、そういう感じは受けないよ」
「そう……そうよね。あれだけ散々仄めかしても、ちっとも乗って来ない貴方だもの。私が正体を明かしたところで、今更って感じよね」
気だるそうに美少女は言った。
「腹の探り合いは、苦手なんだよ。わかっているだろうけど」
「そりゃあね。これだけ話していりゃ、イヤでもわかるわ。サトリの能力なんて使わなくても、私、貴方の思っていること、手に取るようにわかる」
「そうか」
「まあ、最初は『何考えてるんだこいつ!?』とか思ってたんだけどね、って貴方」
「――そうか」
手に抱えていた木々が、すべり落ちる。
目の前の彼女の姿が不意に滲み、彼は気付いた。
自分が、涙を流していることに。
「あれ、不思議だな、すまん、どうして……」
作蔵は混乱して、自分の目元を拭った。
わけのわからない感情のうねりが、彼を襲っていたのだ。
喉の奥がかぁっと熱くなり、作蔵は嗚咽を漏らす。その理由が、自分自身でもよくわからない。
「そう、寂しかったのね」
彼女に、そう言われるまでは。
彼はいつだって鈍くて、言外の意味を汲み取るのが不得手で、人の心を察するのが苦手だった。だから人里でも「抜け作」とからかわれるようになり、いつしかひとりで過ごすことが多くなっていた。
彼にはちっとも悪意がないのに、相手は勝手に傷つき、悲しみ、怒るのだ。それが辛くて苦しくて、彼はみんなから距離を置いた。炭焼き職人になったのも、ひとりで気楽にできる仕事だったからだ。
作蔵は確かに、人の心を察することも読み取ることもできなかった。
だが、人もまた、彼の心を察してはくれなかった。
「お前さんは、おれのことを、わかってくれるんだなぁ」
呟くと、また涙が出た。
サトリ妖怪は恐怖を喰らう。そんな話くらいは、彼も聞いたことがあった。
ならば、彼女もまたそれが目的で彼の前に何度も現れていたのだろう。
それがどうした、と作蔵は思う。
彼女は話してくれた。辛抱強く、何度でも。たとえ彼の心を喰おうという目的があったとしても、そのためであったとしても、彼自身の思いをわかろうとしてくれたのだ。
今なら、このまま喰われてしまってもいい。作蔵は心からそう思えた。
「――ばかね」
彼女は作蔵に近寄り、そっと手を伸ばす。
「私は妖怪よ。私を恐怖する人間の心しか、美味しく食べられないの」
そうして、優しく彼の頭を撫でたのだった。
「もう、貴方と会うこともないわね」
しばらくして作蔵が落ち着いた頃に、彼女はそう言った。
「そうなのかい」
「ええ。貴方の心を食べる気が、しなくなっちゃったから」
それを喜ぶべきなのか、それとも悲しむべきなのか。
彼には、わからなかった。
「あーあ、ダメダメね、私。獲物に情を移すなんて、サトリ妖怪失格だわ」
「違う! ダメなんかじゃない!」
思わず作蔵はそう言って、自分の口調の強さに驚いた。
美少女もまた目を丸くしている。
「ダメなんかじゃないさ。おれのようなニブいやつの心さえ、お前さんは開いてくれたんだ。きっといいサトリ妖怪になれる。おれが保証するよ」
彼が言うと、彼女はぽかんと口を開いたが。
「……ふふっ、変な人ね。わかってたけど」
ややあって、噴き出した。
作蔵も笑う。
美少女も笑う。
笑って笑って、お別れの時が来る。
「じゃあな」
「ええ。さようなら」
「最後に言うけど、おれ、お前さんのことが」
「言わずともわかるのよ。――ばか」
最後に、最後まで言わせてくれないまま、彼女は夜に融け、消えていった。
後に残された作蔵の顔は、やはり語るまでもないのだろう。
◇ ◇ ◇
「――という話だったのよ」
さとり様が語り終えると、あたいは大きく息を吐いた。
なんともまあ、切ないとでも言えばいいのか、何と言うか。
ただ、その「サトリ妖怪」への印象が大きく変わったのは、間違いない。
近寄りがたい雰囲気の相手でも、駆け出しの頃はこういうこともあったんだな、と思うと、微笑ましさがこみ上げてくる。
あたいは、何気なく聞いた。
「その男がその後どうなったのかはご存じないのですか?」
「えっ? あの、それは……そうね、ええと」
またもや珍しいことに、さとり様は視線を彷徨わせた。
これだけわかりやすい反応があるってことは、あたいにもわかる。
きっとさとり様は何か隠しているんだって。
「どうなんです?」
「いやまあ、その……結局、そのまま亡くなっちゃったんじゃないかしらね。ええ」
そう言って、さとり様は遠くを見るような目をする。
ああ、また例の表情だ、とあたいは思った。
書きものをなさっている時のような、他者を寄せ付けない――
「えー、抜け作さん死んじゃったことにするの? まさかのどんでん返しでお姉ちゃんが食べちゃった、ってオチでもいいと思うんだけどなー」
突然の声に、あたいはびっくりして辺りを見回した。
「こ、こいし!?」
「はぁい。やほやほ、こいしちゃんだよー」
こいし様が姿を現し、ぴこぴこと手を振る。
「でーもー、だいぶお姉ちゃんも上手くなったよねぇ、お話し。何? それ新作として書くの? それとも」
「な、何を……」
さとり様は明らかに動揺なさっているご様子だ。
あたいは何の事だかわからず、首を傾げる。
「あの、よくわからないんですが、どういうことなんです?」
「だからぁ、お姉ちゃんも言ってたでしょ? サトリ妖怪には話術が必須だって。ねぇお燐、貴方、お姉ちゃんの話を聴いてて何を感じた?」
「それは……」
こいし様に訊かれて、あたいは考え込む。
鈍感な男の心を開こうとするサトリ妖怪の話は何だかんだで胸の温かくなるものだったし、最後の別れも悪くなかった。
サトリ妖怪も完璧じゃないんだということがエピソードによって示されて、以前よりも「サトリ妖怪」へ感じる壁や距離感も少なくなったように思う。
だけど、やっぱり外せないのは、作蔵さんの反応に一喜一憂したり、木の枝を踏みつけて足首を痛めたり、地団太を踏んでみたり、頭を黙って撫でられていたり、去り際に「ばか」と言ったりする「サトリ妖怪」が、どうしようないほどに……
すると、そこでこいし様が人差し指をあたいの口に当ててきた。
「――それこそが、お姉ちゃんが貴方に『思わせたかったこと』だったとしたら?」
「えっ……」
思わず見ると、さとり様が顔をそむけていた。
その耳は真っ赤に染まっていた。色が白いから、よく目立つ。
こいし様はさとり様に近寄って、その頬をつつく。
「いくら練習だからって、ペットをからかっちゃいけないんだよー」
「わ、わかってますって」
さとり様は、こちらに目をやって、ぺろりと舌を出す。
それはもう、どこまでが嘘か本当かわからないような、悪戯な笑顔で。
「おやぁ? ほっぺ熱いねー、風邪かなっ」
「あんまりお姉ちゃんをからかうものじゃありません!」
おふたりのやり取りを眺めつつ、あたいは思う。
やっぱりさとり様には敵わないよなぁ、って。
卯月の地霊殿は、どこまでも温かだった。
~完~
さとりんかわいいよ!!
さとりんひゃっふぅうぅぅぅ!!!
面白かったです
SS書いている身だからか、作蔵さんよりも後半のさとりんに共感を覚えてしまいましたw
何を伝えたいのか、難しいことですけど注意して書きたいものです。