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「幻想郷社会基礎論A」課題レポート

2014/04/01 01:32:06
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金曜三限・宇佐見先生「幻想郷社会基礎論A」課題レポート

『幻想郷風土記』諸本の検討と成立過程



人文科学部四回生  守矢さつき


はじめに
 宇佐見八雲氏の「幻想郷の発見」に始まる幻想郷研究は、現在大きな佳境を迎えている[1]といっていいだろう。特にこの数年、史料の翻刻・刊行が精力的に行われ、幻想郷研究の史料状況も改善された[2]。このことは、幻想郷研究のさらなる進展をもたらすとおもわれる。
 このような幻想郷関係史料の増大の一方で、現在の幻想郷研究では史料の性格に関わる詳細な分析に乏しいように思われる。現在の幻想郷研究は、その史料の増大に圧倒され、史料の吟味を経ることなく行われているのではなかろうか[3]
 よって、本稿では幻想郷関係史料の基本的な性格を明らかにすることで、新たな幻想郷研究の一視点を提示したいと考える。
 本稿で検討を行うのは『幻想郷風土記』である。この本は従来より存在を知られているが、全く史料として用いられてこなかった史料である。これはひとえに、『幻想郷風土記』が信憑性の少ない史料と考えられてきたからである[4]。いわば、無視されている史料ということもできよう。
 たしかに、『幻想郷風土記』の序文だけみても、幻想郷の成立の荒唐無稽ともいえる伝説が収載されている。それ以外にも、多くの記述が一次史料とは食い違う。
 しかしながら、一次史料と食い違っている部分だけを挙げ、そのことからこの史料を等閑視してしまうのも、問題であろう。『幻想郷風土記』が幻想郷で成立した史料であることもまた明白である[5]以上、成立当初の幻想郷社会や文化を反映して形成されたものである。ならば、『幻想郷風土記』の記述を検討することも、幻想郷研究の中で一定の価値を持つ。
 よって本稿では、まず『幻想郷風土記』の基礎的な書誌情報を明らかにした上で、幻想郷研究における意義を考察し、また成立時の幻想郷社会との関係性についても考えてゆきたい。


一章 『幻想郷風土記』の成立過程

一節 諸本の検討と成立過程
 『幻想郷風土記』に多くの写本が存在していることは、すでに先学によって指摘されている[6]。しかし、記述内容も含めた検討については、わずかに朝倉景樹氏の論考があるだけである[7]。ここでは序文の検討から、『幻想郷風土記』の成立が百季から百五十季ごろであること、巻の構成から、大きく清書本系と稿本系とに二分されていることが指摘され、『幻想郷縁起』の成立を考える上で欠かせない論考となっている。しかし朝倉景樹氏の論考も、あくまでエディルネ本の検討のみに終わっており、『幻想郷風土記』の史料的性格については限定的にしか述べていない。しかし『幻想郷風土記』の写本・版本は、管見の限り十七本存在し、これらを総合的に検討しなければ、『幻想郷風土記』の性格を明らかにすることができないと思われる。
 よってここでは、管見した限りの十七本について検討を加えた。

・写本
  1.エディルネ大学中華圏文化研究所蔵本
  2.盛岡帝国大学政治学部図書館蔵本
  3.京都帝国大学博物館蔵本
  4.似舘家蔵本
  5.朱鵬文庫旧蔵本(清華大学人文社会科学学院現蔵)
  6.宇佐見八雲博士蔵本
  7.パチャクテク記念大学東アジア文学研究室蔵本

・版本
  8.十六夜家蔵本
  9.遠野市立図書館蔵本
  10.樺太帝国大学人文学部蔵本
  11.盛岡帝国大学史料編纂所蔵本(四巻本)
  12.盛岡帝国大学史料編纂所蔵本(三巻本)
  13.蘂取(しべとろ)町立公文書館蔵本
  14.秋田高等師範学校蔵本
  15.久慈市由内(ゆうない)町内会蔵本
  16.イズミル大学図書館蔵本
  17.シハーブ・アッディーン史学研究所蔵本

 これらをおおまかに分類すると、次のように分類できよう。

○甲類 四巻であり、三十八章構成であるもの
  1,4
○乙類 四巻であり、三十七章構成であるもの
  2,5,7,8,11,17
○丙類 三巻であり、二十六章構成であるもの
  3,6,9,10,12,13,14,16
   ※9,13,14、12,16はそれぞれ同版本。

 ※15については三・四巻を欠くため、分類不能

 朝倉景樹氏は、上記の写本のうち1と2のみ検討し、巻数や内部の記述から甲類を「清書本系」、乙類を「稿本系」と述べている[8]。しかしながら、乙類系に属する版本は数多く、このことは必ずしも乙類が「稿本」といえる存在でなかったことは明らかである。
 結論からいえば、おそらく「稿本」といえるような、最初に成立した写本は、むしろ甲類の方であり、甲類から一章削減されて乙類が成立したものと考えられる。
 まず注目したいのが、1同様甲類に属している4.似舘家本である。次にその奥書を掲げよう。


 一四二季七月七日、上慧うつし候本を、□□四季二月主書亭にて拝見仕候。河城版とくらべ候処、事書の数違ふこと有之。後人のため、此本うつし候て、とどめ置(以下虫損)


 この奥書は、似舘本のテキストが百四十二季にはすでに成立していたことを示している。現状では、「上慧」という人物の素性が明らかではないが、年号のある写本の中では最古のものに属しており、成立時のテキストを比較的よく残したテキストと考えてよいだろう。
 本文検討の限り、この似舘本はエディルネ本ともほとんど記述が一致している。つまり、甲類はかなり古くまでテキストが遡れると考えてよい。
 他方乙類については、最も古くまで辿れるものでも百六十季以上に遡ることはない。また、版本の中には乙類に属すものがあり、幻想郷では比較的広く流布していたことがうかがえる。なお、甲類から乙類となる過程で削られた章は、八雲紫と博麗の巫女との関係について書かれた章であり、その中には博麗の巫女が八雲紫を退治したとの記述もある。『幻想郷縁起』等で八雲家に関する否定的記述が削除されているとの指摘[9]も考えると、八雲家の干渉によって稿本段階で一章削除されたと考えるのが、後ほど付け足されたと考えるよりも妥当であろう。
 さて、三巻二十六章構成の丙類については、朝倉氏は16を検討し、「だいぶ後になって、簡単に読めるような抄録として構成しなおされたのだろう」と述べる[10]。しかし、これについても百六十季前後に成立したと思われる3が存在しており、かなり早い段階でこのような抄本が成立していたことがうかがえる。
 以上から、まず稿本として三十八章構成の甲類が成立し、ついで乙類・丙類が成立したことが明らかとなった。ただし、乙類・丙類のどちらが先に成立したかについては、明らかではない。
 なお、二一世紀初頭段階で『幻想郷縁起』の一部などと共に『幻想郷風土記』の抄訳が流布していたことが、佐々木欣善氏の指摘によって明らかとなっている[11]。原文と対照する限り、この抄訳は序章を中心に、幻想郷成立に関わる記述を抜き出して口語へ翻訳していることが明らかである。しかしながら、佐々木欣良氏が指摘するように、平成期に幻想郷関係史料が存在する理由は不明である。あるいは、「創想話本」と呼ばれる一連の史料群の成立と関わるかもしれないが、これについては本論の論旨からは外れるため、後考に俟ちたい。

二節 『幻想郷風土記』の記述と成立
 はじめにで述べたような、『幻想郷風土記』の記述に対する低い評価は、決して的を外したものではないと考えられる。『幻想郷風土記』は、幻想郷の成立や地名の由来など、幻想郷の由緒を説明する記述を中心としている。しかし、その記述のほとんどは、幻想郷関係文書や『朱鵬妖境通鑑』『幻想郷縁起』といった史書類から復元される幻想郷史とは大きく異なったものである。むしろ、『幻想郷風土記』とはある段階の幻想郷での、様々な伝説を集めた逸話集といった側面が近いものと思われる。
 一方で、『幻想郷風土記』の記述の中には、信頼にたる記述も存在している。その一例となるのが、十七章の天狗についての記述である[12]


 百二十三季冬、山の天狗と人里と、相あらそひ候。ゑふひと、ゑふてんぐの、互いに悪口致すに、けんくゎに及び、援を称し人・天狗の集ふに、つひに山と人里とのあらそひとなる。
  (中略)
 巫女出でて、中人となりて、あらそひをとどむべしと仰せらる処、両者、巫女の命を聞きて、その居にかへりて、弾幕にて決すべきよし、これをうく。よりて代の弾幕いたし候ところ、天狗破らるるあひだ、下手(げしゅ)出だし候て、結句鎮まり候ひおはんぬ。天狗、外より来たるといへども、郷に入りては、みな巫女にしたがふ。巫女の徳、郷のすべてをおほひ、その徳、知らざるものなきがゆへなり。


 これは酔った天狗と人間との個人的な争いが発展して、山の天狗と人里との争いとなったため、博麗の巫女の仲裁によって弾幕決闘で決着が付けられたという記述である[13]。この百二十三季冬に起こった天狗・人里の衝突事件については、『阿求日記』に記述がある[14]ことから、以前より多く検討対象となってきた[15]。しかしながら、『阿求日記』はこの問題の解決について記していないため、これまでその事件の帰結がわかっていなかった。しかし引用した上記の記述は、弾幕決闘によってその解決が図られたと明確に記している。当時の慣習を考えても、この解決方法は妥当であり、該当記述の信憑性は低くないものと思われる。
 以上のように、『幻想郷風土記』の記述の中には、現実に即した記述も存在することが明らかとなった。そもそも、先に引用した4.似舘本の奥書から、『幻想郷風土記』の成立が百四十二季以前であることは明白である。このことは、百四十季前後の世相や社会を反映して『幻想郷風土記』のテキストが形成されていることを示しており、この時代の幻想郷を知るにあたって、有用な情報は少なくないとおもわれる。
 ただし、先の引用からも明らかなように、『幻想郷風土記』の記述は著しい博麗神社の称揚が含まれている。このことは、博麗神社にまつわる記事に曲筆が入っていることが想定され、博麗神社やその巫女については、その評価を割り引いて考える必要があるだろう。

二章 『幻想郷風土記』と博麗神社

一節 『幻想郷風土記』成立と博麗の巫女
 先述のように、『幻想郷風土記』の中には博麗神社への称賛が多く含まれている。このことは『幻想郷風土記』と博麗神社との密接な関係を想定させる。よって本章では、『幻想郷風土記』の成立と博麗神社との関係を考察していく。
 これに当たってまず考えねばならないのが、『幻想郷風土記』が第十三代博麗の巫女の編纂されたとする記述の存在である。幻想郷に存在する著書を目録とした『妖境経籍志稿』[16]では明確に「第十三代博麗巫女『風土記』」と記されており、この段階ではそのような認識が一般化していたようである。また、二十一世紀初頭に外界で流布していた抄訳にも「博麗神社 第13代巫女 記」とあり[17]、その認識が外の世界に何らかの形で流れていたことがうかがえる。
 これらの状況は、『幻想郷風土記』が十三代博麗の巫女によって編纂されたとする理解を通説化している。しかしながら、この理解には問題も少なくない。一つに、博麗の巫女の代数が確定していないことである。一次史料にみえる博麗の巫女の初出は、応永三十七年であるが、この時点では既に博麗の巫女が何代か経ていることがわかっている[18]。『幻想郷縁起』で博麗の巫女の記述が現れるのは、この次の阿夢による編纂箇所以降であることは、縁起に書かれる以前から巫女が存在していたことを示しており、その始期を確定することは不可能である。
 また、『幻想郷風土記』序文に書かれた外の世界の状況は、明治維新以降のことであることは間違いない一方、仮に応永年間に初代博麗の巫女がいたと仮定すると、六〇〇年を十三代、一代あたり四十三年となる。しかし、『幻想郷縁起』等から推定される巫女の在位期間は平均でも二十年を下回っており、噛み合わない。
 すなわち、『幻想郷風土記』をすべて十三代博麗の巫女の編纂と考えるのは不可能である。おそらく、「十三代」という文言は後の時代になって付託されたものと考えられる。
 「十三代」という文言を外した上で、『幻想郷風土記』の成立を考えると、やはり博麗の巫女の大きな関与を想定することができる。そのことをよく示しているのが、『博麗神社社誌』といわれる史料の存在である[19]。この史料の編纂者は不明であるが、巫女断絶よりそう下らぬころに、人里において編纂された史料と考えられている。内容は、博麗神社の歴史を細かくまとめたものであり、博麗神社の内部史料を多く用いたものである。博麗神社関係史料は、その多くが未発見であり、この『博麗神社社誌』は史料的価値が高い。
 この『博麗神社社誌』と『幻想郷風土記』とを比べてみると、特に結界成立以降の記事については似たような記述が多く、『幻想郷風土記』と『博麗神社社誌』とが共通の史料によって編纂されたことを推測させる。たとえば、『博麗神社社誌』の紅魔異変に関する記述には、宵闇の妖怪についての記述がなく、一方で紅魔館地下室の記述が非常に豊富であることが知られている[20]。『幻想郷風土記』の紅魔館に関する記述(十九章)の紅魔異変にまつわる記述でも、文体こそ大きく異なるが同じ傾向を示している。
 以上から結論するならば、『幻想郷風土記』は博麗神社の史料を中心に、博麗の巫女によって編纂されたと言える。

二節 『幻想郷風土記』の流布と博麗の巫女
 それではなぜ、博麗の巫女がわざわざこのような書物を編纂したか、ということをまず考えてゆきたい。
 この『幻想郷風土記』であるが、多くの版本が現在残されていることからも明らかなように、幻想郷内部では広く流通していたことが明らかである。写本・版本合わせて十七本が残っている、という状況は『幻想郷縁起』などの史書よりも多く、このことは幻想郷内部で広く読まれるものであったことを窺わせる。
 『幻想郷風土記』が幻想郷の中で広く受容されていたことは、史料からも知ることができる。『朱鵬文庫目録』には「幻想郷縁起、四巻。十三代博麗の巫女の編む所と云々。近年、里の史を知らんと欲する者、皆之を読む」とある。また管見の限り『幻想郷風土記』は、幻想郷にまつわる日記史料中、最も出現頻度の高い書籍の一つである。『幻想郷風土記』が確実に成立している百五十季からの四十年間の日記史料を見ると、『幻想郷風土記』は二五七件を数えることができた。これは『幻想郷縁起』の五八件をはるかに越える件数である。『幻想郷縁起』の書名は、稗田家近辺の史料にしか現れない一方、『幻想郷風土記』は幻想郷関連史料ならばまんべんなく出現することがから考えても、『幻想郷縁起』よりもむしろ『幻想郷風土記』が、郷内での歴史認識を形成していたとおもわれる。
 このような『幻想郷風土記』の受容度の高さは、編纂理由と大きく関わるものと考えられる。先述のように、『幻想郷風土記』とは博麗神社の強い影響下で形成された書物であり、内容にも博麗神社の称賛が度々現れるものである。このことは、『幻想郷風土記』が人里における博麗神社信仰を拡大するために編纂されたことを推察させる。
 そのことを示す史料が次の藤原妹紅書状[21]である。


先日承る状、拝見せしめ候。先日仰せ候事、定り候由、祝着候。先日自博麗社、風土記四巻、預申候。此本、慧ニ渡候て、里人に語候て、人妖を学ばせしむべき由、おほせられ候。此方よりも、御憑申候。此の旨、可存知候。子細、致対面、談ずべく候。恐々謹言。
    四月廿二日     藤紅娘
  上慧さままいる


 この文書の年次は明らかではないが、宛が百四十二季に4.似舘本の原本を写した「上慧」と同一人物と考えるなら、このころの書状と考えられる。ここでは、博麗神社から『幻想郷風土記』が藤原妹紅を経由して「上慧」へ渡され、里人へ語られ、その目的として人間や妖怪を学ばせるためだ、と述べる。つまり『幻想郷風土記』は、人里での幻想郷観形成のために編纂された史料であるといえる。
 問題となるのは『幻想郷風土記』の流布による博麗神社信仰の拡大についてである。しかしながら、これも大きな効果があったと考えることが妥当である。先述したように、多くの日記史料から『幻想郷風土記』の書名を検出できることは、実際に『幻想郷風土記』が人里に浸透していたことを示している。また、この時期から博麗神社信仰が、再び次第に拡大しており、博麗の巫女断絶を乗り越えていることは、すでに先学の指摘するところである[22]。ここで重要なのは、博麗の巫女が断絶した後も、博麗神社信仰が強く残存し、むしろ人里の中で強固に定着する事実である。
 これこそ、『幻想郷風土記』の流布と大きな関係があるとおもわれる。『幻想郷風土記』の編纂が、巫女断絶の直前期頃と考えられることは、博麗神社信仰の変遷期と一致していることを意味する。すなわち、『幻想郷風土記』は博麗神社信仰の変化を受けて編纂され、人里に流布されたと考えられる。そして『幻想郷風土記』の流布が、巫女断絶以降も博麗神社信仰を支えたのである[23]

おわりに
 一章では、現存する『幻想郷風土記』の写本の検討を通して、『幻想郷風土記』の写本の系統を明らかにした上で、『幻想郷風土記』内にも史実に即した記述が存在することを指摘した。また二章では、「第十三代博麗の巫女」編纂説について検討したうえで、その説の信憑性には疑問符がつくことを指摘し、一方で博麗神社の強い関与のもと、人里において博麗神社信仰を強化する目的で作成された書物であることを示した。
 以上のことから、『幻想郷風土記』という史料もまた、決して無視されてよい史料ではないと考える。一章二節の例のように、これまでの幻想郷史を補完するような記述を含んでいるだけではなく、とりわけ博麗神社信仰を考える上では、極めて重要な史料となることは明白であろう。
 最後に、今後の課題について述べておきたい。
 一つは、『幻想郷風土記』成立に関わるより政治史的観点からの考察である。『幻想郷風土記』が成立したと思われる百季から百五十季にかけて、特に吸血鬼異変から博麗の巫女断絶までに掛けては、その政治過程研究がとりわけ進んでいない時代であろう[24]。『幻想郷風土記』の成立も、博麗神社信仰の変化と対応して編纂されている以上、政治史的な動きと関連して編纂されていることが充分に想定できる。よって、今後は『幻想郷風土記』がどういった政治的動向に影響されて編纂されたのか、あるいは影響されなかったのかを考えていくのが重要であろう。
 もう一つは、『幻想郷風土記』の個々の記述の成立過程をより詳細に明らかにすることである。今回は、『幻想郷風土記』の個々の記述にまで言及し、それの成立がどのようなものであるかを明らかにすることができなかった。しかし、個々の記述ごとに様々な影響を受けていると想定でき、そのことは『幻想郷風土記』の成立を考える上で欠かせないであろう。
 以上のように『幻想郷風土記』とは、幻想郷史を考える上でも重要な史料といえるだろう。これから、多くの論考がなされることに期待しつつ筆を置きたい。


注釈

[1]^幻想郷研究の研究史整理については、宇佐見八雲「幻想郷研究の動向」(同編『幻想郷史研究の諸相』龍徳十九年、香雨書店)がある。
[2]^たとえば、『幻想郷史料集成』二編(京都帝国大学出版会、龍徳二十一年)、『河城本Grimoire of Marisa』(エディルネ大学出版局、龍徳二十三年)など。幻想郷研究関係史料については、宇佐見八雲編『幻想郷研究の基本史料』(科研報告書、龍徳二十三年)を参照のこと。
[3]^昨今の、図表を多用し記述の増減だけで論じる風潮は、その典型とおもわれる。
[4]^たとえば、前掲宇佐見八雲龍徳十九年論文には『幻想郷縁起』について「雑説を並べただけのものであり、史料的価値に乏しい」と評価している。
[5]^複数の幻想郷関係史料群の中から、異なった『幻想郷風土記』のテキストが発見されていることは、幻想郷関係史料として偽造されたものではないことを示している。
[6]^宇佐見八雲「幻想郷における歴史認識」(『盛岡帝国大学文学部紀要』六一号、龍徳十五年)ほか。
[7]^朝倉景樹「エディルネ大学所蔵『幻想郷風土記』の書誌学的考察」(『伝統日本』七号、龍徳二二年)。
[8]^同上。
[9]^宇佐見八雲「八雲紫と「正史」編纂」(同『八雲紫の研究』志文閣出版、龍徳十三年。初出『幻想郷研究』二号、龍徳二年)。
[10]^同上。
[11]^佐々木欣良「平成期日本の幻想郷関係史料」(『妖境研究』二号、龍徳六年)
[12]^以降の『幻想郷風土記』の引用については、4.似舘本を基礎としつつ甲類を底本として用い、章についても甲類の数え方に従っている。ただし、明らかに誤字だと思われるところなどは、適宜他の写本を用いて校閲している。
[13]^幻想郷における弾幕決闘の成立時期や意義については、十六夜華月「スペルカードルールの発生・展開と霧雨魔理沙のルール理解について ――"The Grimoire of Marisa"の検討を通して」『盛岡帝国大学研究紀要』五九号、龍徳十三年)、同「弾幕決闘と幻想郷秩序――紅魔異変における博麗の巫女の活動をめぐって」(宇佐見八雲編『幻想郷史研究の諸相』龍徳十九年、香雨書店)を参照。
[14]^『阿求日記』百二十四季一月七日条ほか。
[15]^たとえば、前掲十六夜龍徳十三年論文、柳田要「幻想郷における勢力均衡と紛争解決」(『床丹師範学校紀要』二号、龍徳十五年)がある。
[16]^二百季までには成立したと考えられる。詳細については、拙稿「『妖境経籍志稿』の成立」(宇佐見八雲編『幻想郷研究の基本史料』科研報告書、龍徳二十三年)参照。
[17]^前掲佐々木龍徳六年論文。
[18]^応永三十七年二月日付稗田阿悟・以定連署状案「侍書家文書」四巻三号に「任先例択巫女之事」とあり、これが博麗の巫女選定にまつわる文書と考えられている。先例に任せ、とあるため既に何代かにわたり巫女選定が行われていることがうかがえる。なお、この時期は南北朝争乱後の人里秩序再編期にあたっており、巫女の選定についても混乱の収拾が急務であったことが推定される。
[19]^写本はいくつかあるが、ここでは宇佐見八雲編『幻想郷基礎史料集成』香雨書店、龍徳十二年に所収されるものを参照した。また、詳しい書誌については同書解題を参照。
[20]^紅魔異変の詳細な検討については、前掲十六夜華月龍徳十九年論文参照。
[21]^四月二十二日付藤原妹紅書状写「香霖堂関係史料」七号。
[22]^博麗神社信仰の変遷については、宇佐見八雲「博麗神社信仰と幻想郷大結界」(『幻想郷研究』十七号、龍徳十七年)参照。
[23]^例えば、人間と妖怪とが争うと、博麗神社に双方参拝し、その神前で交渉を行うようになるのは、巫女断絶からまもなくしてのことである。これは先述した天狗と人間との争いの解決を模倣とも思われ、『幻想郷風土記』が幻想郷の慣習にも影響を与えていたと考えることもできる。
[24]^前掲宇佐見八雲龍徳十九年論文ではこの時期について「数多くの勢力が次々と現れ、多様な活動を示していたこの時代は、極めて魅力的である一方、史実の復元がもっとも難しい時代ともいえ、故に史実の復元は進んでいない」とする。





P.S.お願いですから単位ください。


 もしあなたが書いたとすれば、あなたの評価を変えなければなりません。
 あなたが書いたならば、です。

 ところで、昨年『伝統日本』十七号の研究余録に掲載されたアーデルハイト・フォン・ルートヴィク氏の「『幻想郷縁起』と博麗神社信仰」という論考を御存知ですか?
 文章がほとんど同一なのは、いったいどういうことでしょうか。偶然でしょうか。
 フォン・ルートヴィク氏の論考を「拙稿」としているのは、どういうことでしょうか。

 雑誌掲載論文をまるごと剽窃してレポートにするとは、いい度胸をしていますね。
 私が、この論文に目を通して無いとでも思ったのですか。
 事務の方には連絡しておきます。今年度の単位は無いと思いなさい。

 学位論文ではこのようなことが無いと信じております。



宇佐見
A.feudatorius
[email protected]
http://historie-sphe.6.ql.bz/
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コメント



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1.7キリ番ゲット!(核笑)削除
よかった。単位が取れない蓮子さんも、進路が無い宇佐見さんもいなかったんだ・・・・・・。
2.7キリ番ゲット!(核笑)削除
作者がどう言おうと感想は読者の物なのです。
ですから読者である私はこう言いましょう
真面目に面白かった