夏である。
そして、穏やかな昼下がりである。
幻想郷の結界周辺にある屋敷に住む、八雲藍にとっても、それは変わらなかった。
縁側に面した六畳間の真ん中で、藍はくつろいでいた。
ちゃぶ台の側に座り、大きな九本の尻尾を畳に寝かせ、お茶を淹れた湯飲みを手に、ほっと一息。
八雲一家の一員である藍の毎日は忙しない。
家事全般のみならず、楽園を管理するために結界の補修は定期的に行わなくてはならないし、主人が起きている夜の間は、さらに面倒事が増える。
ろくでもない命令によって奔走したり、常軌を逸した悪戯によって心労を溜めこんだりしなくてはならないからだ。
それに比べて日中は雑事の数が大幅に減るため、暑くても実に過ごしやすい。午後の休憩時間に飲むお茶もまた格別の味であった。
藍にとってこの短い時間こそが命の洗濯の間であり、日頃の荒んだ神経を癒してくれる至福の時なのである。
とはいえ、藍の日常をスパイスの山に放り込むのは、主人だけとは限らない。
たまに思ってもみないタイミングで難題を持ち込む、もう一人の家族がいるのである。
この日に彼女が現れたのもまさしく、そんなタイミングであった。
「藍様ー!」
叫び声を耳にした藍は、庭の方に顔を向けた。
空に張られた透明の結界を通り抜けて、式である橙が大急ぎでこちらに飛んでくるのが目に入る。
何か緊急な用事があって来たのだろう。
けれども藍にとって、まだ未熟な式の橙が持ち込んでくる問題は、主人のそれに比べ、他愛のないものばかりであった。
どうしても自分に懐いてくれない猫がいる、だとか。
どうしたら複雑な弾幕をたくさん出せるようになるのか、だとか。
どうしたら尻尾の数を増やすことができるのか、だとか。
もちろんいずれも橙が真面目に考え、立派な式を目指して真剣にぶつけてくる質問なのだから、藍は決して笑うことなく、彼女のレベルに合った適切な助言を授けるよう心掛けていた。
さて、今回は一体どんな問題を持ち込んでくるのだろうか。
庭に下り立つなり、険しい顔で駆けてくる猫耳の少女に、藍は微笑んで言った。
「どうしたんだい橙」
「おっぱいを大きくする方法を教えてください!」
式の訴えは、コンクリートの壁を突き破る鉄球のごとく、九尾の妖狐の精神に大きな罅を生じていた。
拭いて綺麗にしたばかりのちゃぶ台に、お茶の池が広がっていく。
けれども藍はそれを放置したまま、口だけをぎこちなく動かした。
「……おっぱいを……大きく?」
「そうです!!」
橙は靴を履いたまま縁側に膝をつき、一切揺るがぬ表情で肯定する。
対する藍はやはり固まったまま、言葉を失っていた。
突然、襖がスパーンと音を立てて開く。
二人の視線がそちらを向いた。
そこに立っていたのは、波打つ金髪を腰まで伸ばした、美貌の妖怪であった。
まだネグリジェ姿の彼女は、「ふふふ……」と不気味な笑みを湛え、
「ようやくこの時が来たわね! さぁ橙! 詳しく話を聞かせなさい!」
「あんたの仕業か!!」
すかさず藍は、主人に向かって飛び蹴りをかました。
八雲紫はきりもみ状態で奥に吹っ飛んでから、非難の声を上げる。
「何するの藍!?」
「問答無用です! また紫様が橙に変なことを吹き込んだんでしょう!」
「濡れ衣よ! 今週はまだ何も吹き込んでないわ!」
「じゃあなんなんですか『ようやくこの時が来たわね』って!」
「だって面白いじゃない。橙がそんな悩みを抱えるお年頃になったなんて、ゆかりん感動したわ。ようやく女の子としての自覚が芽生えたのね。そうと決まったら女子力アップのために、たくさんレクチャーしてあげないと。ああどんな服を買ってあげましょう。お赤飯を炊こうかしら」
「これ以上混乱させるようなことしないでください! おやすみなさい!」
怒鳴ってから思いっきり襖を閉じようとする藍の手を、紫がガシッと食い止める。
「藍! さては楽しみを独り占めするつもりね! 私も混ぜなさい!」
「ダメです! 橙の教育については私に一任してもらっているはずです。紫様に口を挟まれたら、橙にどんな悪い影響があるかわかったものではありません」
「なんて失礼な! 誰に育てられたと思ってるのよ! この吊り目の石頭!」
「だから私みたいになってほしくないから、紫様に任せられないんでしょうが!」
「ええい教育しなおしてやるわ冷血ウザ狐!!」
「うっさいこのスキマ・オブ・トシマ!!」
ばたん、ばたん、ぎゃーぎゃー。
大妖怪の威厳など彼岸の向こうへと投げ出して、二人は畳の上で激しいMMAバトルを繰り広げる。
だが、
「藍様! 紫様! やめてください!」
橙の悲痛な声が、大妖怪の取っ組み合いを鎮めた。
「わ……私の胸が小さいのが悪いんです……だから……喧嘩するのはやめて……ひぐ……」
「うっ……」
「あら……」
藍と紫は、互いの胸倉をつかみあったまま、気まずい表情となった。
主人としてみっともない姿を見せているだけではなく、こんな不憫な台詞を式に言わせてしまう自分達が情けなかったのである。
冷静さを取り戻した紫は、スキマからハンカチを取り出し、式の式の涙を拭ってあげる。
「よしよし……で、どうして橙はこんなに胸のことで悩んでるわけ?」
「はて……」
主人の疑問に、式は首を傾げるだけで、答えることができなかった。
◆◇◆
とりあえず泣きじゃくる橙をなだめて、ダブル主は居間に場所を移し、詳しく話を聞くこととなった。
おやつの水ようかんが人数分意されたちゃぶ台を皆で囲む。
八雲一家の三名が昼間に集まって、こうした会議を開くというのも珍しい。
もっとも昼夜逆転している主はやはり、まだ寝たりなかったらしく、
「この時期の午後は暑いわねぇ。汗かいちゃうわ」
と、スキマから顔を出して頬杖をついた状態で、参加していた。
手にした爪楊枝には、水ようかんが一切れ。
「で、話だけど、ようするに橙が胸を大きくしたいんですって?」
「はぁ、実は私もそれしかまだ聞いていないのですが」
「すぐに大きくしたいんです。藍様、紫様、お願いします」
「ううむ……」
藍は腕組みして考え込む。
二本の尻尾をたなびかせながら神妙に正座する式の、大きな双眸を見つめながら。
正直藍は、橙が女子としての魅力に思い悩む日が来るとは思っていなかった。
ありえなかったわけではない。妖怪の成長というのは千差万別であり、人間のような思春期を経過する妖怪だっているのだから。
しかしそのことで、ここまでのっぴきならない様子で飛んで来たのが意外だったのである。
昨日まで食い気と眠気と遊び気と向上心で99%が構成されていた式の精神に、一体どのような変化が起こればこうなるのだろう。
ちなみに、いつもトラブルの種を屋敷に持ち込んでくる紫も、今回の件については全く心当たりがないようだった。
藍は努めて、落ち着いた声音で諭す。
「橙。胸が大きくたっていいことばかりではないよ。第一、女の本当の魅力というのは、そんなものでは測れないのだから」
「でも藍様は子供のころから胸が大きかったわけじゃないんですよね? 成長して大きくなったんですよね? 私はそう聞きました」
「うん、まぁ、そうだ」
「最初は私と同じくらい、ぺったんこだったんですよね」
「それも否定はしない」
「やっぱり……。きっと凄い修行を積んだり、そういう術を使って、胸を大きくしていったんですよね……」
「……ん?」
「だから私も胸を大きくして、藍様みたいに強くてカッコいい妖怪になりたいでんす!」
「いやいやいや!」
藍は自らの式が、盛大な勘違いをしているということに気付いた。
「橙! 私は別に胸が大きいから強いわけじゃない! それは一切関係ない!」
「え、そうなんですか!? 成長した証じゃないんですか!?」
「そ、それは確かに部分的には否定しないけど……」
「胸が大きい妖怪はみんな強いんじゃないんですか?」
「そんな法則はこの世に無い!」
伊吹萃○をご覧あれ(ご本人の名誉のために、一部伏せ字にしています)。
「みんな妖力が胸にたくさん詰まっているから、あんなに大きいなおっぱいなんじゃないんですか!?」
「違ーう!」
「らくだのこぶみたいなものかしらねぇ。どっちも脂肪なわけだし」
「紫様も余計なこと言わないでください! 混乱しますから!」
頭を抱えながら藍は喚く。
やはり橙は橙のままであった。女子としての魅力に悩んでいたわけではなかったのだ。
藍や紫と同じ金髪にしたがったり、同じ服をねだったり、自分の『式』を欲しがったり、すぐにそういった目に見える変化で追いつこうと焦る悪い癖が、ここにきてまたしても表れたらしい。
「とにかく、胸が大きくなったからといって、我々がお前に八雲の姓を与えるなどということはありえない。第一私は、修行を積んで胸を大きくしたわけではない」
「じゃあ藍様は、どうしてそんなに胸が大きくなったんですか」
「それは……」
「それはね橙」
八雲の式の式の直球クエスチョンに答えたのは、主ではなく、そのまた主のスキマ妖怪だった。
「藍が子供のころから、私の愛情をいっぱい受けて育ったからよ」
「え……紫様……」
藍は呆気にとられ、育ての親の方に目を向ける。
珍しく優しいことを言われて、不覚にも顔が熱くなっていた。
だが橙の顔は、むしろ青くなっていた。
「そ、そんな……じゃあ私は、藍様から愛情をもらってないから……」
「ち、違うぞ橙! むしろ愛情を受けて育つと、胸は成長しないんだ!」
「そうなんですか! よかった!」
「よくないわよ!?」
今度は紫が冗談じゃないと喚いた。
それからまたしても、二人の大妖怪の間でみっともない言い争いが約五分間続いたが、ここでは省略する。
再び場が落ち着いてから、説得役がバトンタッチとなった。
「橙。藍が言った通り、胸の大きさにこだわるなんて、人間の、それも全体から見ればほんの一部だけよ。そんなことで一喜一憂しているようでは、永遠に立派な妖怪になんてなれないわ」
「で、でも紫様……」
「なら試しに大きくしてみる? 境界を操って、貴方の胸を私達のサイズにしてあげましょうか?」
「えっ!?」
「それで『強くなれなかったら』、あなたはどうするつもり?」
紫は薄い笑みを浮かべながら、無情な瞳で告げる。
言葉の裏で、橙の考えが浅はかなものであると示しているのだ。
これでおそらく諦めてくれるだろう、と隣の式は思ったが、
今日の橙は紫の脅しにもめげず、いつもよりも粘った。
「でも、やっぱり大きくしたいです! だって、チルノはそれで強くなったんですよ!」
思わず藍と紫は、目をぱちくりとさせた。
互いに顔を見合わせてから、再び式の式に向ける。
「チルノ?」
「はい……」
橙が言ったチルノというのは、幻想郷に住んでいる妖精の名である。
冷気を操る能力を持つ氷精であり、この式の式と非常に仲の良い友達だと聞いていた。
だが、藍が頭に思い浮かべたその妖精の姿は、人間でいえば十歳に達するか達さないかという容姿であった。
胸の大きさも、橙と大差はなかったはず。
「橙。もしかすると、私達をからかっているのか?」
「ち、違います。藍様は知らないんです。チルノは今、すごい巨乳なんですよ」
「ええ?」
「藍様と紫様と同じくらい……もしかしたらそれより」
「ええええええ!?」
「小野塚小町さんっていう死神も、『まいった! あたいの負けだ! いい胸だね!』って言ってチルノの胸を揉んで感心してたみたいです」
「「揉んでた!?」」
藍は再び主人と顔を見合わせる。
大丈夫なのかこのSS。しかし無情にも筆は――いや、橙の報告は止まらない。
「それだけじゃないんです! チルノの胸が大きくなってから私……弾幕ごっこで勝てなくなっちゃったんです! 前は私の方が勝ってたのに、やってもやっても勝てないんです……私がその理由を聞いたらチルノが『あたいが巨乳になったからよ!』って……『橙は胸がないから、あたいに負けるのよ』って……」
「なんと……」
「ちなみにいくつ負けたのかしら?」
「……九連敗……です」
紫の質問に答える橙の落ち込みっぷりは、半端なものではなかった。
おそらく八雲一家の名を背負っている自分の弱さを、主達に告げることが心苦しかったのだろう。
それであんなに必死な様子で、この屋敷まで飛んできたのだ。
藍は橙の動機については納得した。
が、話についてはどうにも腑に落ちなかった。
「おかしな話ですね。妖精とは自然現象に近い存在ですし、その姿は基本的に一定です。急に体の一部が成長した状態で、安定を保っていられるものなのでしょうか」
「あら。それだけ答えを出してるのに、まだわかっていないつもりなの藍?」
「え、ということは紫様」
「謎は全て解けたわ」
紫は耳を寝かせる橙の頭に、手を置いて言った。
「辛かったわね橙。貴方の気持ちはよくわかったわ。八雲の名に傷をつけたその巨乳妖精には、少々痛い目に遭ってもらわないとね」
「紫様……」
「いやそこまでムキにならなくても、子供同士のことですし」
「藍。橙のいたいけな純情を傷つけられて、悔しくならないというわけ? いつの間に持つ側の勢力に加わって、持たざる側を嘲笑うようになったの?」
『あんたも持っとるやないか……』と藍は半眼で、巨乳の主人に訴えるものの、目に涙を浮かべる式の手前、「失礼しました」と答える他なかった。
「橙。今一度、貴方に問い質します。貴方は胸を大きくしたいの? それとも弾幕ごっこで勝ちたいの?」
「私は……弾幕ごっこで勝ちたいです紫様!」
「なら、私が勝つための知恵を授けてあげるわ。貴方も八雲の一員なら、しっかりその妖精に借りを返してきなさい」
「はい!」
橙は元気よく返事して、紫から知恵を、すなわちライバルの氷精を倒す秘策を授かったのであった。
◆◇◆
霧の湖近くにある森を、一匹の妖精が飛んでいた。
背中には氷でできた三対六枚の羽。水色のセミショートヘアー、そして水色のワンピースを着た、青い少女の姿である。
「あたいはー、最強よー♪ バストもー、大きいのー♪」
確かに彼女は自ら歌うように、一目で分かるほど、胸が大きい妖精だった。
いや、それはもはや妖精のものとはいえないサイズであった。
胸が「大」ちゃん? 名前だけが「小」悪魔?そういうレベルではないのだ。
自らの頭部ほどもある大きさの乳房が二つ、服からはち切れんばかりの膨らみを誇示している。
少女の愛らしさと、下品なエロス。相反する要素を兼ね備えた、究極の妖精ともいうべき存在である。
氷の巨乳妖精チルノ。御機嫌に踊る彼女の背後に、影が降り立った。
「チルノ! 見つけたわ!」
式の式、橙である。
八雲一家の屋敷から、急いで真っ直ぐ飛んできたところであった。
チルノは時間をかけて、余裕たっぷりに振り返った。
口元には不敵な笑み、そして胸の青い生地には、二つの丘。
「あら、ぺったんこの橙じゃない。どうしたの」
「くっ……!」
早速のご挨拶である。
圧倒的戦闘力を得た者だけに許される余裕が、その発言には潜んでいた。
「また弾幕ごっこで相手する気? もう橙の実力じゃ、あたいに勝てないわよ」
「そ、そんなことないもん! 昨日までは私が勝ち越していたんだし! あれはきっとまぐれ!」
「勝負にまぐれなんてないわ。胸にまぐれなんて存在しないようにね」
「うう……」
謎の説得力がある台詞に、橙はたじろいだ。
やはり胸が大きくなったことで、チルノの自信と態度は以前よりも遥かに大きくなっている。
だが、
(はじめに答えは出ているわ。弾幕ごっこに胸の大きさは関係ない。)
橙は瞼を閉じ、紫に言われたことを今一度思い出した。
心に響くその声を、口の中で唱える。
(貴方の敗因はそのことを忘れ、弾幕ごっこに集中できなくなっていたから)
それは正しかった。
いつもとまるで違う姿のチルノが、ここぞとばかりに『ペチャパイ』と連呼してくるのだから、普段よりも集中力を保つのが困難だったのである。
勝負の前から、心に負い目があったというのもあった。橙にとって大きな武器の一つである、気力で負けていたのだ。
(だからどうしても気になるというなら、彼女の秘密を暴いてしまいなさい。)
橙は目を見開いた。
紫に言われた通り、一気に間合いを詰めて、
「えいっ!」
無造作にチルノの胸を掴んだ!!
「なっ……!?」
チルノは唖然とする。白昼堂々のボディタッチ。普通であれば、悲鳴を上げてもおかしくない状況である。
けれどもチルノの顔色が変わったのは、恥ずかしさ故でも、くすぐったさ故でもなかった。
「やっぱり……」
橙は両目を光らせて、言い放った。
「チルノのこの胸は本物じゃない! 氷の塊だったのね!」
つまりチルノの大きくなった胸は、彼女の肉体そのものではなかった。
大きめの氷の塊を二つ、服の下に仕込んでいただけだったのである。氷で作られた胸パッドというわけだ。
だがチルノは動揺することなく、二つの『虚乳』を誇示しながら、橙の方を指さして言った。
「よく見破ったわね橙! これこそあたいの奥義! 『ダイヤモンドバスト』よ!!」
説明しよう!
ダイヤモンドバストとは!?
その時、近くに立っていた木の陰から、レティ・ホワイトロックが現れた。
「氷胸『ダイヤモンドバスト』! それは空気中の冷気を最大出力で集めて作られた、貧乳の相手の精神を凍りつかせる、残虐非道のビッグバルーンである!」
説明を終えたレティは再び木の陰に消えていく。
「ありがとうレティ!」
「グッジョブ!!」
橙とチルノは、彼女に感謝の声を送ってから、再び対峙した。
「つまり、橙がいくら頑張っても、これはあたいにしか作れない巨乳なわけよ」
その通りである。小野塚小町がなぜ負けを認めたのか。それはこれが彼女に真似できない技だったからなのだろう。
氷を生み出すことも、そんな冷たいものを体につけた状態で動くことも。
まさしく氷精チルノだけに許されし業である。
だが橙は「ふん」と口を曲げる。
「そんな冷たいおっぱい、羨ましくないもん。私は将来藍様みたいな、本物の巨乳になるもんねーだ!」
「わかってないわね! これは体につけていると、とっても涼しいから、こんな蒸し暑くてもあたいの力が落ちないのよ!」
「あっ……」
「だから、あたいが橙に勝ったのはまぐれじゃないわ! これがあたいの本当の実力なのよ! バーカ!」
忌々しげに顔をしかめて訴えるチルノに、そうか、と橙は感心してしまった。
確かに橙は、夏のチルノを相手にして、弾幕ごっこで負けた経験はほとんどなかった。
それは実力ではなく、コンディションが原因だったのだ。苦手な季節で相手が弱っていただけだったのである。
そしてもう一つ。チルノは常々、橙が自らの成長ぶりを自慢する度に、負けじと張り合ってきていた。
妖怪である橙と、妖精である自分。種族の違いから生まれるその差を、認めたくなかったのだろうか。
けれども、妖精のチルノもまた、自分と同じように成長していることが、橙には今、はっきりとわかった。
そのことを知って悔しさよりも、なんだか嬉しさが込み上げてくる。
「すごいねチルノ!」
「ようやく分かったようね! 橙があたいのことをバカにするのもこれまでよ!」
「バカになんてしないよ! それより、そのダイヤモンドバストだっけ? ちょっと触らせて?」
「いいわよ。最強のあたいの胸に、恐れおののくがいいわ!」
「わっ……! 冷たい! でも気持ちいいかも……」
真夏のじりじりとした日差しの中で触れる、チルノのその『ダイヤモンドバスト』は、とても気持ちよかった。
橙は勝負のことも忘れて、冷やっこいそれに触れながら、大笑いするのであった。
レティ・ホワイトロックだけではなく、他にもその光景を見守っていた者がいるとは知らずに。
◆◇◆
その日の晩、妖怪の山の麓にある屋台。
八目鰻と書かれた提灯の横で、一匹の妖怪がくだを巻いていた。
「おやじぃ! もう一杯!」
「お客さん、呑みすぎですよ。……ジュース」
「ジュースだからって酔っぱらわないとは限らないんでぃ!」
「いつからそんな江戸弁を覚えたのよリグル……似合ってないし」
「だってぇ……ショックだったんだもん……うう……橙とチルノが……あんなこと……」
「まぁねぇ……」
コップにお代わりを注ぎながら、夜雀の妖怪ミスティアは複雑な表情で呟く。
実は彼女も、いま飲んだくれている蛍妖怪、リグルからことの次第を聞いてから、歌っていた唄を中断して、しばし絶句してしまったほどであった。
「信じられないわ。チルノが橙に得意げに、その……胸を揉ませてただなんて」
「揉ませてただけじゃないもん。『削ってシロップかけたら美味しそうだね』なんて橙が言ってたのよ?」
「……マジか」
「あーもうどうしよ~。次にどんな顔して二人に会えばいいか、わかんなくなっちゃった~」
ジュースの入ったコップを握りしめたまま、リグルは鼻声で嘆き、カウンターに突っ伏す。
その頭の中では昼間の光景が、ぐるぐると螺旋を描いている。
今度橙が、『リグルのおっぱいも触らせて!』とか言って笑顔で迫ってきたらどうしよう。
『私は虫だから、おっぱいなんてないよ』と言って逃げようか。あるけど。
とにかくリグルはすでに、今までと同じ笑顔を保ったまま、彼女達と付き合える自信がなくなっていた。
なので共通の友である夜雀の元に相談にやってきたのだが……悩みを打ち明けても、全く心が晴れなかった。
というより、共通の患者を増やしてしまっただけなような気がする。
「ミスチーは、私がミスチーの胸を触らせてって言ったら、触らせてくれる?」
「……いいわよ」
「そうよね。いくら友達だからって、そんな大胆におっぱいなんて触れるもんじゃないわ。それが普通だと思ってたのに……」
リグルは愚痴りながら、コップのジュースを一気に呷って、
「……………………へ?」
もう一度、今のミスティアの返答を頭の中で繰り返した。
「……リグルが触りたいっていうなら、いいわよ」
カウンターを挟んだ向こうにいる女将の顔は、笑っていなかった。
大真面目だった。大真面目な顔で、頬を紅潮させて、こちらを睨むように見つめてくる。
リグルは数センチ、お尻を後ろに引いた。
「いや、ミスティア……本気にしないで。冗談だから」
「私は冗談じゃないんだけど」
「冗談だって言ってよ!? 冷静に考えてよ! 絶対おかしいわよ!」
「じゃあリグルは、橙とチルノと、友達でいられなくなってもいいわけ?」
彼女の一言は、螺旋を描いていた蛍妖怪の心の、ど真ん中を貫いた。
いつも笑顔を絶やさないミスティアが、沈んだ顔で俯いている。
「私だってショックだったわよ……でも橙とチルノと、ずっと友達でいたいし……そういうのが二人にとって普通だっていうなら……我慢してもいいかなって、考えてる」
「み、ミスチー。本気なの?」
「だって別に、いやらしい感じじゃなかったんでしょう?」
確かに。あの時の二人は、特に不潔な雰囲気を漂わせていたわけではなかった。
チルノは触られて高笑いしてたし、橙も面白そうに遠慮なく触れていた。
だから不潔じゃなくても、なんというか不健全で、なんだか異質なものを見せつけられた気分でショックを受けたのだったが。
あれが、ただの遊びだったというなら、乗り越えられる……かも?
リグルは若干どもりながら言った。
「じゃ、じゃあそういう時の為に、練習してみる……?」
「そ、そうだね! 練習で! どっちかが嫌だって言ったら止めること!」
「了解! 指切りげんまん! いや、誓約書とかの方がいいかな?」
「書かないわよこんなことで! どんな風に書けばいいかもわかんないし!」
確かに。
けれども何か簡単に試してしまっていい行いには、やはりどうしても思えなかったのだ。いくら女同士だからといっても、である。
「じゃ、じゃあ練習しましょうか」
「そ、そうですね。……あ、灯りは消した方がいいかな」
「う、うん。誰か来たらまずいですし……」
「……そ、その……よろしくお願いします」
二人は慣れない敬語をお互いに交わして……。
赤提灯の灯が、ふっ、と消えた。
そして、穏やかな昼下がりである。
幻想郷の結界周辺にある屋敷に住む、八雲藍にとっても、それは変わらなかった。
縁側に面した六畳間の真ん中で、藍はくつろいでいた。
ちゃぶ台の側に座り、大きな九本の尻尾を畳に寝かせ、お茶を淹れた湯飲みを手に、ほっと一息。
八雲一家の一員である藍の毎日は忙しない。
家事全般のみならず、楽園を管理するために結界の補修は定期的に行わなくてはならないし、主人が起きている夜の間は、さらに面倒事が増える。
ろくでもない命令によって奔走したり、常軌を逸した悪戯によって心労を溜めこんだりしなくてはならないからだ。
それに比べて日中は雑事の数が大幅に減るため、暑くても実に過ごしやすい。午後の休憩時間に飲むお茶もまた格別の味であった。
藍にとってこの短い時間こそが命の洗濯の間であり、日頃の荒んだ神経を癒してくれる至福の時なのである。
とはいえ、藍の日常をスパイスの山に放り込むのは、主人だけとは限らない。
たまに思ってもみないタイミングで難題を持ち込む、もう一人の家族がいるのである。
この日に彼女が現れたのもまさしく、そんなタイミングであった。
「藍様ー!」
叫び声を耳にした藍は、庭の方に顔を向けた。
空に張られた透明の結界を通り抜けて、式である橙が大急ぎでこちらに飛んでくるのが目に入る。
何か緊急な用事があって来たのだろう。
けれども藍にとって、まだ未熟な式の橙が持ち込んでくる問題は、主人のそれに比べ、他愛のないものばかりであった。
どうしても自分に懐いてくれない猫がいる、だとか。
どうしたら複雑な弾幕をたくさん出せるようになるのか、だとか。
どうしたら尻尾の数を増やすことができるのか、だとか。
もちろんいずれも橙が真面目に考え、立派な式を目指して真剣にぶつけてくる質問なのだから、藍は決して笑うことなく、彼女のレベルに合った適切な助言を授けるよう心掛けていた。
さて、今回は一体どんな問題を持ち込んでくるのだろうか。
庭に下り立つなり、険しい顔で駆けてくる猫耳の少女に、藍は微笑んで言った。
「どうしたんだい橙」
「おっぱいを大きくする方法を教えてください!」
式の訴えは、コンクリートの壁を突き破る鉄球のごとく、九尾の妖狐の精神に大きな罅を生じていた。
拭いて綺麗にしたばかりのちゃぶ台に、お茶の池が広がっていく。
けれども藍はそれを放置したまま、口だけをぎこちなく動かした。
「……おっぱいを……大きく?」
「そうです!!」
橙は靴を履いたまま縁側に膝をつき、一切揺るがぬ表情で肯定する。
対する藍はやはり固まったまま、言葉を失っていた。
突然、襖がスパーンと音を立てて開く。
二人の視線がそちらを向いた。
そこに立っていたのは、波打つ金髪を腰まで伸ばした、美貌の妖怪であった。
まだネグリジェ姿の彼女は、「ふふふ……」と不気味な笑みを湛え、
「ようやくこの時が来たわね! さぁ橙! 詳しく話を聞かせなさい!」
「あんたの仕業か!!」
すかさず藍は、主人に向かって飛び蹴りをかました。
八雲紫はきりもみ状態で奥に吹っ飛んでから、非難の声を上げる。
「何するの藍!?」
「問答無用です! また紫様が橙に変なことを吹き込んだんでしょう!」
「濡れ衣よ! 今週はまだ何も吹き込んでないわ!」
「じゃあなんなんですか『ようやくこの時が来たわね』って!」
「だって面白いじゃない。橙がそんな悩みを抱えるお年頃になったなんて、ゆかりん感動したわ。ようやく女の子としての自覚が芽生えたのね。そうと決まったら女子力アップのために、たくさんレクチャーしてあげないと。ああどんな服を買ってあげましょう。お赤飯を炊こうかしら」
「これ以上混乱させるようなことしないでください! おやすみなさい!」
怒鳴ってから思いっきり襖を閉じようとする藍の手を、紫がガシッと食い止める。
「藍! さては楽しみを独り占めするつもりね! 私も混ぜなさい!」
「ダメです! 橙の教育については私に一任してもらっているはずです。紫様に口を挟まれたら、橙にどんな悪い影響があるかわかったものではありません」
「なんて失礼な! 誰に育てられたと思ってるのよ! この吊り目の石頭!」
「だから私みたいになってほしくないから、紫様に任せられないんでしょうが!」
「ええい教育しなおしてやるわ冷血ウザ狐!!」
「うっさいこのスキマ・オブ・トシマ!!」
ばたん、ばたん、ぎゃーぎゃー。
大妖怪の威厳など彼岸の向こうへと投げ出して、二人は畳の上で激しいMMAバトルを繰り広げる。
だが、
「藍様! 紫様! やめてください!」
橙の悲痛な声が、大妖怪の取っ組み合いを鎮めた。
「わ……私の胸が小さいのが悪いんです……だから……喧嘩するのはやめて……ひぐ……」
「うっ……」
「あら……」
藍と紫は、互いの胸倉をつかみあったまま、気まずい表情となった。
主人としてみっともない姿を見せているだけではなく、こんな不憫な台詞を式に言わせてしまう自分達が情けなかったのである。
冷静さを取り戻した紫は、スキマからハンカチを取り出し、式の式の涙を拭ってあげる。
「よしよし……で、どうして橙はこんなに胸のことで悩んでるわけ?」
「はて……」
主人の疑問に、式は首を傾げるだけで、答えることができなかった。
◆◇◆
とりあえず泣きじゃくる橙をなだめて、ダブル主は居間に場所を移し、詳しく話を聞くこととなった。
おやつの水ようかんが人数分意されたちゃぶ台を皆で囲む。
八雲一家の三名が昼間に集まって、こうした会議を開くというのも珍しい。
もっとも昼夜逆転している主はやはり、まだ寝たりなかったらしく、
「この時期の午後は暑いわねぇ。汗かいちゃうわ」
と、スキマから顔を出して頬杖をついた状態で、参加していた。
手にした爪楊枝には、水ようかんが一切れ。
「で、話だけど、ようするに橙が胸を大きくしたいんですって?」
「はぁ、実は私もそれしかまだ聞いていないのですが」
「すぐに大きくしたいんです。藍様、紫様、お願いします」
「ううむ……」
藍は腕組みして考え込む。
二本の尻尾をたなびかせながら神妙に正座する式の、大きな双眸を見つめながら。
正直藍は、橙が女子としての魅力に思い悩む日が来るとは思っていなかった。
ありえなかったわけではない。妖怪の成長というのは千差万別であり、人間のような思春期を経過する妖怪だっているのだから。
しかしそのことで、ここまでのっぴきならない様子で飛んで来たのが意外だったのである。
昨日まで食い気と眠気と遊び気と向上心で99%が構成されていた式の精神に、一体どのような変化が起こればこうなるのだろう。
ちなみに、いつもトラブルの種を屋敷に持ち込んでくる紫も、今回の件については全く心当たりがないようだった。
藍は努めて、落ち着いた声音で諭す。
「橙。胸が大きくたっていいことばかりではないよ。第一、女の本当の魅力というのは、そんなものでは測れないのだから」
「でも藍様は子供のころから胸が大きかったわけじゃないんですよね? 成長して大きくなったんですよね? 私はそう聞きました」
「うん、まぁ、そうだ」
「最初は私と同じくらい、ぺったんこだったんですよね」
「それも否定はしない」
「やっぱり……。きっと凄い修行を積んだり、そういう術を使って、胸を大きくしていったんですよね……」
「……ん?」
「だから私も胸を大きくして、藍様みたいに強くてカッコいい妖怪になりたいでんす!」
「いやいやいや!」
藍は自らの式が、盛大な勘違いをしているということに気付いた。
「橙! 私は別に胸が大きいから強いわけじゃない! それは一切関係ない!」
「え、そうなんですか!? 成長した証じゃないんですか!?」
「そ、それは確かに部分的には否定しないけど……」
「胸が大きい妖怪はみんな強いんじゃないんですか?」
「そんな法則はこの世に無い!」
伊吹萃○をご覧あれ(ご本人の名誉のために、一部伏せ字にしています)。
「みんな妖力が胸にたくさん詰まっているから、あんなに大きいなおっぱいなんじゃないんですか!?」
「違ーう!」
「らくだのこぶみたいなものかしらねぇ。どっちも脂肪なわけだし」
「紫様も余計なこと言わないでください! 混乱しますから!」
頭を抱えながら藍は喚く。
やはり橙は橙のままであった。女子としての魅力に悩んでいたわけではなかったのだ。
藍や紫と同じ金髪にしたがったり、同じ服をねだったり、自分の『式』を欲しがったり、すぐにそういった目に見える変化で追いつこうと焦る悪い癖が、ここにきてまたしても表れたらしい。
「とにかく、胸が大きくなったからといって、我々がお前に八雲の姓を与えるなどということはありえない。第一私は、修行を積んで胸を大きくしたわけではない」
「じゃあ藍様は、どうしてそんなに胸が大きくなったんですか」
「それは……」
「それはね橙」
八雲の式の式の直球クエスチョンに答えたのは、主ではなく、そのまた主のスキマ妖怪だった。
「藍が子供のころから、私の愛情をいっぱい受けて育ったからよ」
「え……紫様……」
藍は呆気にとられ、育ての親の方に目を向ける。
珍しく優しいことを言われて、不覚にも顔が熱くなっていた。
だが橙の顔は、むしろ青くなっていた。
「そ、そんな……じゃあ私は、藍様から愛情をもらってないから……」
「ち、違うぞ橙! むしろ愛情を受けて育つと、胸は成長しないんだ!」
「そうなんですか! よかった!」
「よくないわよ!?」
今度は紫が冗談じゃないと喚いた。
それからまたしても、二人の大妖怪の間でみっともない言い争いが約五分間続いたが、ここでは省略する。
再び場が落ち着いてから、説得役がバトンタッチとなった。
「橙。藍が言った通り、胸の大きさにこだわるなんて、人間の、それも全体から見ればほんの一部だけよ。そんなことで一喜一憂しているようでは、永遠に立派な妖怪になんてなれないわ」
「で、でも紫様……」
「なら試しに大きくしてみる? 境界を操って、貴方の胸を私達のサイズにしてあげましょうか?」
「えっ!?」
「それで『強くなれなかったら』、あなたはどうするつもり?」
紫は薄い笑みを浮かべながら、無情な瞳で告げる。
言葉の裏で、橙の考えが浅はかなものであると示しているのだ。
これでおそらく諦めてくれるだろう、と隣の式は思ったが、
今日の橙は紫の脅しにもめげず、いつもよりも粘った。
「でも、やっぱり大きくしたいです! だって、チルノはそれで強くなったんですよ!」
思わず藍と紫は、目をぱちくりとさせた。
互いに顔を見合わせてから、再び式の式に向ける。
「チルノ?」
「はい……」
橙が言ったチルノというのは、幻想郷に住んでいる妖精の名である。
冷気を操る能力を持つ氷精であり、この式の式と非常に仲の良い友達だと聞いていた。
だが、藍が頭に思い浮かべたその妖精の姿は、人間でいえば十歳に達するか達さないかという容姿であった。
胸の大きさも、橙と大差はなかったはず。
「橙。もしかすると、私達をからかっているのか?」
「ち、違います。藍様は知らないんです。チルノは今、すごい巨乳なんですよ」
「ええ?」
「藍様と紫様と同じくらい……もしかしたらそれより」
「ええええええ!?」
「小野塚小町さんっていう死神も、『まいった! あたいの負けだ! いい胸だね!』って言ってチルノの胸を揉んで感心してたみたいです」
「「揉んでた!?」」
藍は再び主人と顔を見合わせる。
大丈夫なのかこのSS。しかし無情にも筆は――いや、橙の報告は止まらない。
「それだけじゃないんです! チルノの胸が大きくなってから私……弾幕ごっこで勝てなくなっちゃったんです! 前は私の方が勝ってたのに、やってもやっても勝てないんです……私がその理由を聞いたらチルノが『あたいが巨乳になったからよ!』って……『橙は胸がないから、あたいに負けるのよ』って……」
「なんと……」
「ちなみにいくつ負けたのかしら?」
「……九連敗……です」
紫の質問に答える橙の落ち込みっぷりは、半端なものではなかった。
おそらく八雲一家の名を背負っている自分の弱さを、主達に告げることが心苦しかったのだろう。
それであんなに必死な様子で、この屋敷まで飛んできたのだ。
藍は橙の動機については納得した。
が、話についてはどうにも腑に落ちなかった。
「おかしな話ですね。妖精とは自然現象に近い存在ですし、その姿は基本的に一定です。急に体の一部が成長した状態で、安定を保っていられるものなのでしょうか」
「あら。それだけ答えを出してるのに、まだわかっていないつもりなの藍?」
「え、ということは紫様」
「謎は全て解けたわ」
紫は耳を寝かせる橙の頭に、手を置いて言った。
「辛かったわね橙。貴方の気持ちはよくわかったわ。八雲の名に傷をつけたその巨乳妖精には、少々痛い目に遭ってもらわないとね」
「紫様……」
「いやそこまでムキにならなくても、子供同士のことですし」
「藍。橙のいたいけな純情を傷つけられて、悔しくならないというわけ? いつの間に持つ側の勢力に加わって、持たざる側を嘲笑うようになったの?」
『あんたも持っとるやないか……』と藍は半眼で、巨乳の主人に訴えるものの、目に涙を浮かべる式の手前、「失礼しました」と答える他なかった。
「橙。今一度、貴方に問い質します。貴方は胸を大きくしたいの? それとも弾幕ごっこで勝ちたいの?」
「私は……弾幕ごっこで勝ちたいです紫様!」
「なら、私が勝つための知恵を授けてあげるわ。貴方も八雲の一員なら、しっかりその妖精に借りを返してきなさい」
「はい!」
橙は元気よく返事して、紫から知恵を、すなわちライバルの氷精を倒す秘策を授かったのであった。
◆◇◆
霧の湖近くにある森を、一匹の妖精が飛んでいた。
背中には氷でできた三対六枚の羽。水色のセミショートヘアー、そして水色のワンピースを着た、青い少女の姿である。
「あたいはー、最強よー♪ バストもー、大きいのー♪」
確かに彼女は自ら歌うように、一目で分かるほど、胸が大きい妖精だった。
いや、それはもはや妖精のものとはいえないサイズであった。
胸が「大」ちゃん? 名前だけが「小」悪魔?そういうレベルではないのだ。
自らの頭部ほどもある大きさの乳房が二つ、服からはち切れんばかりの膨らみを誇示している。
少女の愛らしさと、下品なエロス。相反する要素を兼ね備えた、究極の妖精ともいうべき存在である。
氷の巨乳妖精チルノ。御機嫌に踊る彼女の背後に、影が降り立った。
「チルノ! 見つけたわ!」
式の式、橙である。
八雲一家の屋敷から、急いで真っ直ぐ飛んできたところであった。
チルノは時間をかけて、余裕たっぷりに振り返った。
口元には不敵な笑み、そして胸の青い生地には、二つの丘。
「あら、ぺったんこの橙じゃない。どうしたの」
「くっ……!」
早速のご挨拶である。
圧倒的戦闘力を得た者だけに許される余裕が、その発言には潜んでいた。
「また弾幕ごっこで相手する気? もう橙の実力じゃ、あたいに勝てないわよ」
「そ、そんなことないもん! 昨日までは私が勝ち越していたんだし! あれはきっとまぐれ!」
「勝負にまぐれなんてないわ。胸にまぐれなんて存在しないようにね」
「うう……」
謎の説得力がある台詞に、橙はたじろいだ。
やはり胸が大きくなったことで、チルノの自信と態度は以前よりも遥かに大きくなっている。
だが、
(はじめに答えは出ているわ。弾幕ごっこに胸の大きさは関係ない。)
橙は瞼を閉じ、紫に言われたことを今一度思い出した。
心に響くその声を、口の中で唱える。
(貴方の敗因はそのことを忘れ、弾幕ごっこに集中できなくなっていたから)
それは正しかった。
いつもとまるで違う姿のチルノが、ここぞとばかりに『ペチャパイ』と連呼してくるのだから、普段よりも集中力を保つのが困難だったのである。
勝負の前から、心に負い目があったというのもあった。橙にとって大きな武器の一つである、気力で負けていたのだ。
(だからどうしても気になるというなら、彼女の秘密を暴いてしまいなさい。)
橙は目を見開いた。
紫に言われた通り、一気に間合いを詰めて、
「えいっ!」
無造作にチルノの胸を掴んだ!!
「なっ……!?」
チルノは唖然とする。白昼堂々のボディタッチ。普通であれば、悲鳴を上げてもおかしくない状況である。
けれどもチルノの顔色が変わったのは、恥ずかしさ故でも、くすぐったさ故でもなかった。
「やっぱり……」
橙は両目を光らせて、言い放った。
「チルノのこの胸は本物じゃない! 氷の塊だったのね!」
つまりチルノの大きくなった胸は、彼女の肉体そのものではなかった。
大きめの氷の塊を二つ、服の下に仕込んでいただけだったのである。氷で作られた胸パッドというわけだ。
だがチルノは動揺することなく、二つの『虚乳』を誇示しながら、橙の方を指さして言った。
「よく見破ったわね橙! これこそあたいの奥義! 『ダイヤモンドバスト』よ!!」
説明しよう!
ダイヤモンドバストとは!?
その時、近くに立っていた木の陰から、レティ・ホワイトロックが現れた。
「氷胸『ダイヤモンドバスト』! それは空気中の冷気を最大出力で集めて作られた、貧乳の相手の精神を凍りつかせる、残虐非道のビッグバルーンである!」
説明を終えたレティは再び木の陰に消えていく。
「ありがとうレティ!」
「グッジョブ!!」
橙とチルノは、彼女に感謝の声を送ってから、再び対峙した。
「つまり、橙がいくら頑張っても、これはあたいにしか作れない巨乳なわけよ」
その通りである。小野塚小町がなぜ負けを認めたのか。それはこれが彼女に真似できない技だったからなのだろう。
氷を生み出すことも、そんな冷たいものを体につけた状態で動くことも。
まさしく氷精チルノだけに許されし業である。
だが橙は「ふん」と口を曲げる。
「そんな冷たいおっぱい、羨ましくないもん。私は将来藍様みたいな、本物の巨乳になるもんねーだ!」
「わかってないわね! これは体につけていると、とっても涼しいから、こんな蒸し暑くてもあたいの力が落ちないのよ!」
「あっ……」
「だから、あたいが橙に勝ったのはまぐれじゃないわ! これがあたいの本当の実力なのよ! バーカ!」
忌々しげに顔をしかめて訴えるチルノに、そうか、と橙は感心してしまった。
確かに橙は、夏のチルノを相手にして、弾幕ごっこで負けた経験はほとんどなかった。
それは実力ではなく、コンディションが原因だったのだ。苦手な季節で相手が弱っていただけだったのである。
そしてもう一つ。チルノは常々、橙が自らの成長ぶりを自慢する度に、負けじと張り合ってきていた。
妖怪である橙と、妖精である自分。種族の違いから生まれるその差を、認めたくなかったのだろうか。
けれども、妖精のチルノもまた、自分と同じように成長していることが、橙には今、はっきりとわかった。
そのことを知って悔しさよりも、なんだか嬉しさが込み上げてくる。
「すごいねチルノ!」
「ようやく分かったようね! 橙があたいのことをバカにするのもこれまでよ!」
「バカになんてしないよ! それより、そのダイヤモンドバストだっけ? ちょっと触らせて?」
「いいわよ。最強のあたいの胸に、恐れおののくがいいわ!」
「わっ……! 冷たい! でも気持ちいいかも……」
真夏のじりじりとした日差しの中で触れる、チルノのその『ダイヤモンドバスト』は、とても気持ちよかった。
橙は勝負のことも忘れて、冷やっこいそれに触れながら、大笑いするのであった。
レティ・ホワイトロックだけではなく、他にもその光景を見守っていた者がいるとは知らずに。
◆◇◆
その日の晩、妖怪の山の麓にある屋台。
八目鰻と書かれた提灯の横で、一匹の妖怪がくだを巻いていた。
「おやじぃ! もう一杯!」
「お客さん、呑みすぎですよ。……ジュース」
「ジュースだからって酔っぱらわないとは限らないんでぃ!」
「いつからそんな江戸弁を覚えたのよリグル……似合ってないし」
「だってぇ……ショックだったんだもん……うう……橙とチルノが……あんなこと……」
「まぁねぇ……」
コップにお代わりを注ぎながら、夜雀の妖怪ミスティアは複雑な表情で呟く。
実は彼女も、いま飲んだくれている蛍妖怪、リグルからことの次第を聞いてから、歌っていた唄を中断して、しばし絶句してしまったほどであった。
「信じられないわ。チルノが橙に得意げに、その……胸を揉ませてただなんて」
「揉ませてただけじゃないもん。『削ってシロップかけたら美味しそうだね』なんて橙が言ってたのよ?」
「……マジか」
「あーもうどうしよ~。次にどんな顔して二人に会えばいいか、わかんなくなっちゃった~」
ジュースの入ったコップを握りしめたまま、リグルは鼻声で嘆き、カウンターに突っ伏す。
その頭の中では昼間の光景が、ぐるぐると螺旋を描いている。
今度橙が、『リグルのおっぱいも触らせて!』とか言って笑顔で迫ってきたらどうしよう。
『私は虫だから、おっぱいなんてないよ』と言って逃げようか。あるけど。
とにかくリグルはすでに、今までと同じ笑顔を保ったまま、彼女達と付き合える自信がなくなっていた。
なので共通の友である夜雀の元に相談にやってきたのだが……悩みを打ち明けても、全く心が晴れなかった。
というより、共通の患者を増やしてしまっただけなような気がする。
「ミスチーは、私がミスチーの胸を触らせてって言ったら、触らせてくれる?」
「……いいわよ」
「そうよね。いくら友達だからって、そんな大胆におっぱいなんて触れるもんじゃないわ。それが普通だと思ってたのに……」
リグルは愚痴りながら、コップのジュースを一気に呷って、
「……………………へ?」
もう一度、今のミスティアの返答を頭の中で繰り返した。
「……リグルが触りたいっていうなら、いいわよ」
カウンターを挟んだ向こうにいる女将の顔は、笑っていなかった。
大真面目だった。大真面目な顔で、頬を紅潮させて、こちらを睨むように見つめてくる。
リグルは数センチ、お尻を後ろに引いた。
「いや、ミスティア……本気にしないで。冗談だから」
「私は冗談じゃないんだけど」
「冗談だって言ってよ!? 冷静に考えてよ! 絶対おかしいわよ!」
「じゃあリグルは、橙とチルノと、友達でいられなくなってもいいわけ?」
彼女の一言は、螺旋を描いていた蛍妖怪の心の、ど真ん中を貫いた。
いつも笑顔を絶やさないミスティアが、沈んだ顔で俯いている。
「私だってショックだったわよ……でも橙とチルノと、ずっと友達でいたいし……そういうのが二人にとって普通だっていうなら……我慢してもいいかなって、考えてる」
「み、ミスチー。本気なの?」
「だって別に、いやらしい感じじゃなかったんでしょう?」
確かに。あの時の二人は、特に不潔な雰囲気を漂わせていたわけではなかった。
チルノは触られて高笑いしてたし、橙も面白そうに遠慮なく触れていた。
だから不潔じゃなくても、なんというか不健全で、なんだか異質なものを見せつけられた気分でショックを受けたのだったが。
あれが、ただの遊びだったというなら、乗り越えられる……かも?
リグルは若干どもりながら言った。
「じゃ、じゃあそういう時の為に、練習してみる……?」
「そ、そうだね! 練習で! どっちかが嫌だって言ったら止めること!」
「了解! 指切りげんまん! いや、誓約書とかの方がいいかな?」
「書かないわよこんなことで! どんな風に書けばいいかもわかんないし!」
確かに。
けれども何か簡単に試してしまっていい行いには、やはりどうしても思えなかったのだ。いくら女同士だからといっても、である。
「じゃ、じゃあ練習しましょうか」
「そ、そうですね。……あ、灯りは消した方がいいかな」
「う、うん。誰か来たらまずいですし……」
「……そ、その……よろしくお願いします」
二人は慣れない敬語をお互いに交わして……。
赤提灯の灯が、ふっ、と消えた。
一番下の嘘は残酷すぎるのではないでしょうか(必死)