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レーゾンデトゥル

2013/04/01 17:48:49
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あとがき


 このたびは第二十八回文々。新聞小説大賞に選ばれた古明地さとりです。地霊殿の妖怪で選ばれたのはわたしが初めてのようで。わたしより先に妹の古明地こいしが他の賞を受賞するのだと思っていたので驚きを隠せません。恥ずかしい話ですが、未だに目が覚めるたびに誰かに夢ではないと確認しないといけない程に実感がありません。
 さて、受賞の喜びはこれぐらいにします。そもそもわたしが何故小説を書き始めたかを少し語っていこうと思います。

「完璧な文章なんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 わたしが幻想郷にやってきて人の心にも妖怪の心にも嫌気がさして引きこもっていたとき、少しだけ親睦のあった人間の里の作家は手紙の文面でそう伝えてきた。その本当の意味を知るのはずっと後のことだったが、なにも手につかなかったわたしに火をつけるには十分すぎる内容だった。わたしたちが受けてきた差別、或いは区別、虐待は完璧な絶望ではなかったのか。わたしたちの存在意義は最低で、最悪で、誰かの下の存在としての、はけ口の為にいるのだと思っていた。
 しかし、いざ筆を手にとって真っ白な紙を目の前にすると手が進まず、再び絶望的な気分につき落とされるのだった。わたしは人の感情を書けても、人のなりを書くことができない。例えば半人半霊についてなにか書けても、妖々夢事変の前と後の半人半霊の変化についてはなにも書けない。人間の部分が半分しかなく、霊が半分混じってるからだとかそういう理由ではなくてね。
 それから幻想郷には夜が終わらなかったり、死神がでてきたり、新しい宗教がやってきたり、温泉がわき出たり、局地的な大地震が起きたりした。妖怪たちがお祭りのように大騒ぎしている中、わたしはその間ずっと悩んできたが答えとなる光はこの暗い水の底には届かなかった。
 もちろん文章の方は最初と比べると読める形にはなっていた。わたしが生き続ける限り、例えばだらだらと五百年近く生きたと威張る割には空虚な妖怪にはならぬように、色々な書物を読み新たな価値観を抱いていくからだ。
 この幻想郷は面白くもおかしな仕組みで出来ていて、「稗田阿求が後のために綴るレベルの事変」が起こらない限り、住人たちには認知されないらしい。温泉がわき出て地底に人間たちが乗り込んでくるという地霊殿事変よりも、わたしたちはずっと昔からここにいたし、勇儀なんて鬼の四天王だと言われ、少なくとも萃香には所在ぐらいは知られていたはずなのに分かってはいなかったという。
 つまり、わたしたちはその昔、通り過ぎる背景だった。しかし役柄を与えられていないにも関わらず背景なわたしたちは差別され、区別されていた。そして同じく出番を待つ妖怪たちには恐れられていた。
 考えてみればそれは不思議な体験だった。急にこの世界に現れて大きなダメージを与えすぎないようにという方法なのだろうけど、彼女たちに認知される前に、わたしは博霊の神社に行ったことがあるし、巫女とも顔をあわせて話だってしたことがある。また、わたしが幻想郷の端にあるとされる外の世界と幻想郷を繋ぐ橋の上で立ち止まっていると、たくさんの人間と妖怪は目の前を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。わたしはその間誰にも声をかけず、なにも語らなかった。そんな風にして、わたしはただ役をもらうまでの間を過ごしていた。

 ようやくわたしは語る機会を得た。
 もちろん地霊殿の立場はなにひとつとして変わらないだろうし、語り終えた時点でこの幻想郷で役を待つ妖怪を見つけることは出来ないし、わたしとあなたは幻想郷の端の橋にはたどり着けないだろう。結局のところ、わたしにとって文章を書くということは自分を慰めることではなく、その試みの後に残ったものでしかないのだ。
 しかし、正直に語ることはひどく難しい。わたしはたくさん嘘を視てきて、たくさん嘘をついてきた。正直になろうとすればするほどに悟ることのできないものへと変質していくのだ。
 弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在のわたしにおけるベストだ。覚り妖怪というものを言い訳にはしたくない。それでもわたしはこれが意味のあるものになるのだと考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、自分自身を悟れるようになって誰かを救うことができるかもしれない、と。そしてそのとき、半人半霊はだらだらと五百年近く生きたと威張る割には空虚な妖怪を下し、己の意味を見つけわたしはより美しい能力で世界を語り始めるだろう。


  ☆

 わたしは文章についての多くをヨハネ・クリストファーに学んだ。ほとんど全部、というべきかもしれない。彼の書く文章は読み辛く、話もデタラメで、登場人物もなにを言いたいかが分からず、テーマもちゃっちなものだった。それでも彼はこの世代にしては珍しく、文章を武器として生き残れる作家だった。ヘミングウェイ、ハートフィールド、そういった彼の同世代に対して、けしてその姿勢は劣ってはいなかった。特に情景は同世代の人間の中でも一番ではないかと思う。彼の書く草原は風が吹き波が起きて、そして最後には何も残らず、いつの間にか胸の中に思い描いた音や匂いだけが思い出される。ただ残念なことに彼は最後まで自分の武器を明確に捉えることはできなかった。その点はハートフィールドと同じなのかもしれない。
 そして、彼は薬物の中でもカフェイン中毒だった。カフェイン中毒といえばすぐ脱することのできる中毒だと知られているが、彼の場合は一日中コーヒーを飲んでいた。むしろコーヒー以外は口にしていないと言ってもいいぐらいだ。彼の書く小説では登場人物はその世界の飲み物がそれしかないように、コーヒーしか口にしない。それは彼がコーヒー以外の味を知らないからだろう。最終的に彼はカフェイン中毒の精神症状や、身体症状に悩まされ続け、持病のうつ病もあってか、ハートフィールドの後を追うようにして、ある朝、傘もささずに雨でずぶ濡れになりながら、レイニイデイを口ずさみ、一か月分の新聞抱いて自宅から飛び降りて死んでしまった。彼が二十三年の生涯でなにをしたかったかは分からない。彼の死は大した話題にもならず、下手をするとわたしが忘れてしまえばこの世から消えてしまうような人間のことかもしれない。たがわたしは思う。彼はただこの世界に仲間が欲しかっただけなのではないかと。

 さて、文章についてもう一度だけ書こう。

 わたしにとって文章を書くことは非常に苦痛な作業である。机に向かわずに部屋の掃除や、ペットの世話をするという言い訳をして目を背けたいことだ。誰の目にも留まらず、誰の評価を得られない。わたしには自分の書いたものを他人に見せるような気を許してくれる仲の良い相手がいるわけもなく。しかし、果たして見せたところで都合がいいお世辞を並べて終わるのではないかとは思う。
 机に向かい一文字も一行も進まない日もあれば、一か月間、他のことを一切せずに部屋に缶詰になった挙句、それは見当違いな結果となることもあり、物を書くというのは本当に不毛な行為だ。
 それでも文章を書くというのは楽しいことだ。皆が自分の思いに対して素直で、そして生きる意味を見つけることができる。行動原理を決めるのがあまりにも簡単だからだ。わたしの生きる辛さに比べたら、登場人物たちは寝て起きるだけでも話になる。
 わたしがこれまで嫌いだの言って切り捨ててきたものたちはもう元には戻らない。捨てたもの、失ったものはたくさんあって、今のわたしにかけがえのないものたちはなんとか自分の手の内でなんとかできそうな家族と呼べるものだけ。それが正しかろうと、間違っていようと、それを幻想郷で否定できるものはいるだろうか。否定したところでそれが変わるだろうか。いいや、それはできない。幻想郷は長く見られ、そして長く生きすぎた。
 これからどうしたらいいのだろうか? そういう問いすら思い浮かばない。現状維持、問題の先延ばし、現実逃避、そうやってわたしたちは誰かが死ぬまで不器用に絡まった関係の中でしか生きられない。まるで火車だ。
 午前三時。陰鬱な地底の底で机に向かい、皆が寝静まった夜に妹の帰りを待ち続ける妖怪にはその程度の文章しか書けない。
 最後にこれを書くにあたって、あの人間の里の作家に言いたいことがあった。
「人間に、心の闇の深さがわかるものか」
                                     」


お好み焼きうまい
桜木あやめ
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コメント



0.89000簡易評価
1.無評価指導員削除
劣化はるきくんみたいなだっさい文章は正視に耐えないので自重しましょう
それと、「心の闇」なんてトホホなことを言っちゃう作家が大賞に選ばれるような幻想郷の文壇には絶望を禁じ得ない
3.110005ナルスフ削除
考えさせられるけど考えきれねえ。
これだけ語れたら気持ちいいだろうなあ。