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桜の下にて春死なむ

2013/04/01 01:23:55
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 桜の花が咲くと、人間や妖怪や妖精は酒をぶら下げたり団子を食べて花の下を歩いて、絶景だの春爛漫だのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かといえば、桜の下に人間や妖怪や妖精が寄り集まって宴会を開くようになったのは博麗大結界ができてからの話で、昔は桜の花の下は怖ろしいと思っても、絶景だなどとは誰も思いはしなかったのです。
 近頃は桜の花の下といえば人間が酒を呑み鬼が喧嘩をし、騒霊楽団が囃し立て妖精や幽霊が浮かれて踊るので、誰も陽気で賑やかだと思っていますけれど、
 ――桜の樹の下には屍体が埋まっている。
 梶井基次郎がそう喝破したように、本来、桜の樹の下というものは怖ろしいものなのです。降りしきる薄紅の花びらの下、ただ何の意味も無く爛漫と咲き誇る桜の花。無数の花びらに包まれて、その真下にひとり立ちつくしてごらんなさい。辺りは静寂、風の音だけが弦を震わすように響く張り詰めた静寂。ただ桜だけがざわざわ、ざわざわと――そう、狂い咲いているのです。桜の樹の下で人間も妖怪も妖精も隔てなく陽気になって酒を呑んで騒ぐのは、桜の狂気にあてられているからかもしれません。あるいは――あるいは、
 その足元に屍体が埋まっているという――厳然たる事実から目を逸らすためでしょうか。
 さて、桜の下が怖ろしいと思われていたのは昔の話と言いましたが、これはその昔の話。今からおよそ千年――いや、八百年ほど昔でしょうか。河内の山の麓に小さな寺がありました。この寺の周囲にはたくさんの桜が自生しておりまして、中でもひときわ立派な桜が境内に一本、毎年それは見事な満開の花を咲かせるのでありました。
 その寺へと続く桜並木の下を、ひとりの男が歩いておりました。古びた太刀を佩き、ボロボロの水干を纏ったその姿は、落ちぶれた武士のものであります。どれほど壮絶な人生を歩んできたものか、峭刻とした容貌に眼光ばかりが炯々と輝き、袖口から除く腕には無数の刀傷が刻まれています。数年は整えてもいないであろう蓬髪と髭は銀のように白く、一見した者は誰もが老爺と思うたでしょう。もっとも男自身も、自分の正確な年齢など知りませんから、あるいは相応の老爺であったのかもしれません。
 もう夏も終わろうという頃合いですので、桜並木といっても今はただ青々とした木々に過ぎません。満開の下でなければ桜の下も怖ろしい場所ではありませんし、男にはそもそも今はもう怖れることなど何もありませんから、ただ男はあてどなく桜の下を、それが桜であるとも知らずに彷徨っているのでありました。
 頭上に青々としげる木々が桜であると知ったら、男はきっと、かつて仕えていた主のことを思いだしたでしょう。けれども今は、その主も既にこの世に亡く、それ故に男はひとり、このような山中を彷徨い続けているのでした。
 ほどなく、男の視界にその寺が現れました。小さな、古びた寺です。数年前にはその地において、高名な歌人が桜の下に往生を遂げたことでも知られましたが、今やその寺は訪れる者もほとんどなく、ひっそりと散りきった桜の中に埋もれるように佇んでいるのでありました。
 男はその古びた佇まいから、廃寺であろうと見当をつけ、ずかずかとその敷地に足を踏み入れました。彼自身もかつて寺に暮らした僧でありましたから――乱暴者で知られる悪僧でしたが、とかく男はその寺に足を踏み入れ、そして、目を見開いたのです。
 それは桜でありました。季節外れの、八分咲きの桜でした。
 他の全ての桜が、とっくに花を散らして山の景色の中に埋もれている中で、そこだけ春が置き忘れていったかのように、満開の手前で桜は薄紅の花を空に伸ばしているのでした。
 男は息を飲んで、その花を見上げました。
 ふらふらと吸い寄せられるように、男は桜の下に歩を進めます。風もないのに、ごうごうと風が鳴っているような錯覚を、男は覚えました。聞こえるのはただ自分の足音ばかりです。それがひっそりと、冷たい、そして動かない風の中につつまれているのです。男は目をつぶりました。桜の花が、何か得体の知れない、怖ろしいものに思えたのです。
 ――怖ろしい。
 その感覚を久しぶりに覚えた自分自身を、男は訝しみました。自分はもう、何も怖れるものはないはずだったのです。最も怖れるべきであった、主を失うという現実に直面してしまった彼は、既に何よりも怖ろしいものを知ってしまったのですから、最早怖ろしいものなどこの世にあるはずもなかったのです。それはたとえば、自分の死であっても。
 そんな男は、突然去来した、怖ろしい、という感情に狼狽えました。戸惑い、首を振って男は、もう一度決然と桜の花を見上げました。
 ――男の脳裏に去来するのは、かつて主と見た奥州の山桜でありました。
 しかしそれも、今は失ってしまったものの幻影でしかありません。
 男がもう一度首を振ったそのとき、ゆらり――と、桜の影に気配がゆらめきました。
 それは陽炎のような気配でありました。男は咄嗟に、腰の刀に手をかけました。が、桜の影から姿を現した気配の主に、一度男は拍子抜けして、刀から手を外しました。
 ひとりの娘でした。死人のような白襦袢を纏い、ひどく――桜の花びらのように透明な表情した、美しい娘でありました。娘が握っていた右手をほどくと、その手のひらから、はらりと蝶が舞い上がります。その蝶は薄紅のような、薄闇のような、不思議な色の光をまとって、まるで風に流される花びらのように、ひらり、ひらりと桜の中に舞い上がって、やがて見えなくなっていきました。
 いや、それは桜の花びらであったのかもしれません。どちらにしても、既に男の視界からその光は消え失せ、後に残るのはただ、八分咲きの桜の下に佇む娘の姿ばかりでありました。
「……どなたですか?」
 娘が、ゆっくりと男の方を振り向きました。
 そのとき、男の胸に去来した感情の正体が――羞恥のような熱と、狼狽のような動悸と、畏怖のような怯えの意味が、戦いに明け暮れて生きてきた男には、理解できなかったのでありました。

 娘は、この寺に年老いた母とふたりで暮らしておりました。
 女ふたりの家に男が転がり込むわけにはいかぬ、と男が辞去しても、構いませんよ、と老婆は目を細めて言いました。それに押しきられる格好で、男は一夜の宿をこの寺に求めることになったのでした。
 小さな庵の縁側に腰を下ろすと、老婆は傍らに正座して、男とともに八分咲きの桜を見やりました。娘はまだ、ぼんやりと桜の樹の下で、物思いに耽っているようでした。
「お侍さまは、あの桜の噂を聞いていらしたので?」
 老婆の問いに、男は黙って首を横に振りました。「そうですか」と老婆は目を細めて薄く笑います。男は季節外れの桜をまた見やり、それからその下の娘の姿を見やりました。
 美しい、と男は思いました。
 それが美しいというものなのだ、と初めて知ったように、美しい、と男はもう一度心の中で頷きました。美しい。その言葉は桜と、その下の娘の姿――幽幻なるその景色を表すのに的確であるように、男には思われました。男は文を嗜むような雅な趣味を持ち合わせてはいませんでしたから、そのような木訥とした言葉でしか、その美を言い表すことができなかったのです。
「でしたら、こんな季節におかしなことだと思われたでしょう」
 老婆の言葉に、今度は男は頷きました。男も、桜が春の花であることは知っています。こんな季節に八分咲きになる桜など、聞いたこともありません。
「あの桜は、ずっとあのままなのです。もう何年も、何年も――八分咲きのまま、決して咲くことも、枯れることもなく、あの場所にあり続けているのです」
 男は老婆を振り返りました。老婆はただ静かに、桜に向けて目を細めています。
 そのような桜の噂を、男は聞いたことがありませんでした。しかしそれも仕方ありません。男は主を失ってからずっと、流浪の生活を続けていました。その暮らしは、己の正体が他人に知られぬように、常に息を潜めての暮らしでしたから、自然と世情にも疎くなっています。
「ならば……なぜ、ここには誰もおらぬのだ」
 男は訝しんで、老婆にそう尋ねました。枯れぬ桜、散らぬ桜ともなれば、物珍しさに人は集まるでしょうし、そうであればこの寺がこれほど寂れることもないだろうと、そう考えたのです。実際、寺は寂れ果てていましたが、数十年と放置された廃寺というふうでもありません。寂れ始めてから数年――まだ人の気配が、その寺にはどこか残っている気がしました。
「それは――」
 老婆が言いかけたときでした。ばさり、と羽音をたてて、黒い鳥が一羽、羽を休めにか、寺の中へ舞い降りてきました。
 桜の下の娘が、ゆっくりと視線を上げ、その鳥を目で追いかけます。
 ――ざぁっ、と風が桜の花びらを揺らしました。いや、それは錯覚だったかもしれません。揺れたのは花びらではなく――無数の蝶であったようにも、男には見えました。
 蝶が、薄紅の光を放つ蝶が、ざぁぁっと、花びらのように舞い上がり、ごうごう、ごうごうと桜の下に音をたてて、吹いていないはずの風に踊り狂うのです。その花びらの羽ばたきの中で、娘は――ただ、張り詰めたような虚空を見据えて、白い指を持ち上げました。
 羽を散らした鳥の元へ、一枚の花びらが――あるいは一羽の蝶が、ひらりと舞います。
 その薄紅の光に見入られたように、不意に鳥は羽ばたくのを止めました。
 羽を止めてしまえば、そこは中空ですから、あとは真っ逆さまに落ちていくばかりです。
 鈍い音をたてて、鳥は地面に落ち、首の骨を折って死にました。そして、舞い上がっていた無数の薄紅の光は幻のように消え失せ、あとにはただ桜の木と、その下の娘と、鳥の死骸が静寂の中に取り残されているばかりでした。
 鳥がなぜ急に羽ばたくのを止めたのか、その一部始終を見ていた男にも、さっぱり理解できません。ただ――生と死の狭間に長く身を置いてきたものの直感で、男には鳥が、中空で突然、生きることそのものを止めてしまったように見えました。
 娘はその白い指で、鳥の死骸を抱え上げました。そして慈しむように、死骸の羽を梳きます。子の髪をくしけずる母親のような慈愛に満ちた表情で、娘は鳥の死骸と戯れておりました。
 ――怖ろしい、とまた男は思いました。
 しかしそれは、鳥が突然生きることを止めてしまったことに対してではありません。生き死には所詮は摂理であって、僅かの運不運の分けるものでしかないことを、男は知っていたからです。
 男が怖れたのは、その美しさでした。鳥の死骸を抱く娘の姿が、男には何か、とてつもなく美しいものに思われたのです。死とは穢れですから、穢らわしい死骸を抱いた娘の姿が美しい道理はありません。それなのに――いや、それだからこそ、桜の下で死んだ鳥の羽を梳く娘の姿は、まるでそれ自体が最初から完成された絵画のようにそこにあるのでした。
「あの桜は――死を誘うのです」
 老婆の言葉も、娘の姿に見惚れた男の耳には、よく聞こえてはおりませんでした。
 男はただ、鳥の死骸を抱いて微笑んだ娘の姿を、じっと凝視していたのでした。

 夕方から不意に強まった風は、夜に至ってごうごう、ごうごうと鳴り響き、山の木々をざわめかせ、庵を揺らしておりました。
 この風では、あの枯れぬという八分咲きの桜も散ってしまうのではあるまいか――そんなことを思いながら、暗い闇の中、男はまんじりともせず天井を見上げております。
 傍らには、老婆とその娘の静かな寝息がありました。この強い風にもふたりは目を覚ます気配はなく、ただ男だけがひどく目が冴えて、暗闇に刻々と、しかし遅々として進まぬ時間を見据えているのでした。
 時が止まったようだ、と男は思いました。もちろんそんなはずはありません。今もごうごうと風は鳴り響き、山々の木々のざわめく音が響いています。――けれどもそれは、どこか静寂のようでもありました。世界にただその音しか存在しないかのうように響く風の音。もしもこの世の音がただそればかりであるならば、それさえ認識の外に置いてしまえば――雑音を聞き流すように意識しなければ、それは静寂と同じことです。
 男は目をつむりますが、しかしごうごうとした静寂の中で、やはり意識ばかりが冴えて、身体は疲労を訴えているにも関わらず、いっこうに眠りは訪れません。
 老婆を挟んで同じ部屋に眠る娘が気に掛かるのか、と男は自分を嘲笑いましたが、そういったものともまた違うようにも思われました。これは――この気配は――、
「……どうした?」
 不意に、娘の方がむくりと起きあがる気配がして、男は小さな声で訊ねました。闇の中、娘はぼんやりと視線を巡らせ、「……来ます」と呟いた。
 男は眉を寄せ、自らも身体を起こして神経を研ぎ澄ませました。ごうごう、ざわざわという風の音。木々の音。その中の僅かの異音も、どんな些細な気配も逃さぬように、心を静止した水面のように平らかにして、男は投げ込まれる小石を待ち受けました。
 ――さざ波のような気配は、複数の足音でありました。
 男は目を見開きました。気配ははっきりと近付いていました。慌ただしい足音。このような夜半に、こんな山中を駆ける旅人もいるとは思えません。だとすれば、これは無法者の足音でありましょう。
 驚愕の面持ちで男は娘を見やりました。己も気付かぬような微細な気配に、この娘は気付いたというのか、と。ますます男の中で、娘に対する得体の知れない何かが膨れあがるのを感じましたが、それはともかく、今はこちらに近付く無法者の気配の方が問題です。
「ここから動くな」
 娘にそう静かに、しかし厳しく言い置いて、男は太刀を手にのそりと庵を出ていきました。外は相変わらず強い風で、季節外れの桜もごうごうと八分咲きの花を風に揺らしていますが、その花びらは全く散る気配を見せません。――これは世の理から外れた花だ、と、闇夜に爛漫と咲く桜を見上げて男は思いました。それとともに、身体中に今も残る傷痕が疼くのを感じ、男は微かに呻きました。
 世の理から外れているのは、男自身もまた同じでありました。
 故にこそ、自分はここに導かれたのやもしれぬ――男はふと、そう考えました。
 男がそのようなことを考えているうちにも、風の音の中に、足音ははっきりと近付いておりました。見れば木々の合間に、たいまつの炎が揺れています。六――いや、七人。山中よりこちらへ降りてくるようです。この山中に潜み、麓の里を荒らさんとする山賊の類であろう、と男は見当をつけました。
 正義感に駆られた、などということはありません。男にとっては、麓の里が山賊に荒らされようが、どうだっていいことでした。ただ、男が気に掛けていたのはひとつ――あの娘のことでありました。
 血に飢えたならず者がこのような近くに居を構えているのであれば、娘も安心して眠れはしまい、と男は考えました。それだけで、男にとっては充分な理由でありました。男は境内を出ると、こちらへ向かってくるたいまつの光を見やりました。
 ほどなく、山賊たちが男の姿に気付いて足を止めました。道を塞ぐように佇む男に、山賊たちははじめ訝しみました。このような夜半に、廃寺の前に巨漢が、まるで自分たちを待ちかまえているかのように立っているのです。
 山賊のひとりが、何者か、というようなことを聞き取りづらい野卑な言葉で叫んで、男にのしのしと近付きました。山賊は左手にたいまつ、右手には錆の浮いた太刀を手にしていました。男と同じように、あの争乱で主を失い落ちぶれた武士であったのでしょう。しかし、だからといって男には、山賊に対する憐憫など浮かびはしません。
 山賊が、無反応の男に何かをまたわめき立てました。男は構わず、手にした太刀を一閃しました。目の前の山賊がきょとんと目をしばたたかせた次の瞬間、その首は、たいまつを掲げた左手首とともに、胴を離れて転がり落ちていきました。
 首を失った山賊の身体が、鮮血を噴き上げてこちらに倒れこむのを、男は無造作に蹴飛ばして脇に寄せました。そうして、残った六人の山賊を無言で見やります。
 仲間のひとりが殺されたことに、山賊たちはいきりたちました。太刀を構え、手にしていたたいまつを次々と投げ捨てます。たいまつを持っていては片手がふさがり、相手に自分の位置を教えるばかりです。たいまつ自体、里に火を放つために持ってきたものでしかありません。山賊生活が板についた彼らにとって、夜の山を灯りなしに歩くことも、その闇に乗じて通りがかった者を襲うのも造作のないことでした。故にこそ、彼らは慢心しておりました。よもや闇の中、六対一で自分たちが負けることなど考えてすらいなかったのです。彼らに向けるべき言葉があるとすれば、不運であったとしか言いようがないでしょう。
 炎が消え、辺りはしんとした闇に包まれます。それとともに、山賊たちの姿も気配も掻き消えました。しかし山賊たちは虎視眈々と、その闇の中から男の隙を伺っておりました。
 男は、斬り捨てた山賊の血糊を太刀から払うと、まるで無造作にだらりと両手を下げました。襲ってくれといわんばかりに、全身を弛緩させたのです。
 じりじりと闇の中で男を包囲していた山賊たちは虚を突かれましたが、男の背後に回っていたふたりが、血気にはやって最初に襲いかかりました。しかし次の瞬間には、彼らの太刀が男の身体に届くよりも遥か前に、その両腕は男の一閃した太刀によって断ち切られていました。肘から先を突然失ったふたりの山賊は、鮮血を噴き上げる両腕の意味を理解する前に、男の返す刀でその首を続けて宙に舞わされることになりました。
 そのふたりを斬り捨てた男の背後に、もうひとりの山賊が迫っていました。が、男は振り返るまでもなく、足元に転がってきた切り落とした手首を、踵で背後に蹴り飛ばしました。その手首は男の背後で太刀を振りかぶった山賊の脇腹に当たり、山賊は一瞬よろめきます。その瞬間には、薙ぎ払われた男の太刀によって、山賊の胴体は真一文字に斬り裂かれていました。
 一瞬にして三人が骸と化してその場に転がるに至って、残った三人の山賊はようやく、自分たちがとんでもない相手に喧嘩を売ってしまったことを悟りました。斬り捨てた四つの死体を足元に佇む男の身体は既に鮮血にまみれていますが、それは全て山賊の血でしかありません。
 男が一歩、残った三人の方へ足を踏み出しました。その足音に、山賊のひとりが悲鳴をあげました。山賊として多くの命を奪っていた彼は、それ故に絶対的に臆病であったのです。彼が襲うのは常に逃げまどう弱者のみでありました。自らを殺すかもしれない相手と相対することは、彼には耐え難い恐怖だったのです。
 悲鳴をあげた山賊は、太刀を投げ捨てると、あろうことか寺の境内へ向かって走りだしました。男は初めて動揺しました。山賊たちは男の相手になるようなものではありませんが、逃げた山賊があの娘と老婆に害を為すのは阻止しなければなりません。
 男は立ちすくんでいた残るふたりの山賊を無造作に斬り捨てました。ひとりは逃げようとし、ひとりは挑みかかろうとしましたが、久々に血を浴びて高ぶった男にはどちらでも同じことでありました。鮮血を撒き散らして骸と化したふたつの身体にはもう目も向けず、男は境内の方へ走りだしました。
 ごうごう、ごうごう、とまた強く風があたりに吹き渡りました。男はその風に顔をしかめ、そして境内へ駆け込んで――また、それを目の当たりにしました。
 蝶でありました。ひらひら、ひらひらと幽幻に舞い踊るそれは、朧な光をたたえた蝶でした。いえ、それはあるいは、花びらであったのかもしれません。散らぬはずの桜の花びら。あるいは蝶。まるで御魂のごとくに薄ぼんやりと光る蝶か、花弁か、いずれにせよ。
 ざあああっ、と、枯れぬ桜がその花をざわめかせました。その樹の周囲を踊るように、蝶たちは、花びらたちは、高く舞い上がり、夜の闇に溶けて消えていきました。
 あとに残されるのは、その桜の樹の下に佇む、ふたつの人影でした。
 逃げ出した山賊と、そして、あの娘であります。
 娘を前に、山賊は凍りついておりました。男は訝しんで、その元に歩み寄ろうとしました。
 次の瞬間、ぐらりと山賊の身体が揺らぎ、仰向けに倒れ込みました。
 山賊はもう動きません。男が歩み寄るまでもなく、死んでいるのは明らかでした。
 娘は、桜の樹の下で、ただ静かに動かなくなった山賊を見下ろしておりました。
「お前が殺したのか」
 男は娘の元に近付くと、山賊の死体を見下ろして問いかけました。山賊の死体は、何の外傷もなく、ただ突然身体が生きることを止めてしまったかのように、静かに事切れているのでした。そう、昼間見た鴉と同じように。
 娘は男の問いに、しばしの沈黙ののち、静かに頷きました。
「そうか」
 男はただ、それだけを答えました。
 この桜と、この娘にどのような不思議な力があるのかは解りません。しかし、それは別に男にとってはどうでもいいことでありました。枯れない桜があるのですから、何の傷も与えずに人を殺める娘がいたところで、おかしなことは何もありません。
 ただ男は、娘が無事であったことにだけ、小さく安堵しているのでした。
 男は山賊の死体を担ぎ上げると、自分が斬り捨てた山賊たちの死体とともに、近くの草むらの中へ投げ捨てました。こうしておけば、死体は勝手に獣たちが始末し、残骸は朽ち果てて土へ還るでしょう。山賊などという畜生道に身を落とした彼らには相応しい末路でありましょうが、そんな感慨も男には特に浮かびませんでした。
 それから男は、山賊たちの得物の太刀を拾い集めて境内の隅に押し込み、小さな井戸で水を汲んで身体の血潮を洗い流しました。久しぶりに浴びた鮮血による高ぶりが、冷たい井戸水で冷まされていきます。
 自分はどこまで言っても、戦うしか能のない男だ。ふと男はそんなことを思いました。
 と、不意に背後に気配を感じて、男は振り返りました。娘が月灯りの下、ぼんやりと男のことを見下ろしておりました。男は着物を直すと、娘に向き直ります。
「何だ」
「――貴方は、私を、あの桜を怖れないのですか」
 娘はぽつりと、そんなことを言いました。その顔にはどんな表情も浮かばず、朧な月の光に白い肌が照らされて、死人のように透き通って見えておりました。
「貴方は、死を怖れないのですか」
 もう一度、娘は平板な声でそう問いかけました。男は、黙して枯れぬ桜を見上げました。
 それが死を誘う桜であるならば、この身も滅してくれるのであろうか、と男は考えました。
「……この身は既に、一度死んでいる。死んだ者が何故、死を怖れよう」
 無数の矢傷、刀傷の残る胸元に触れて、男はそう答えました。
 そう、自分はあのとき死んだのだ、と男は思い出していました。男が主を失った日のことを。男はその日、迫り来る裏切りの軍勢を前に刃を振るって立ちはだかり、そしてその身に無数の矢を受けて果てたはずでありました。
 けれど男は、今も生きているのです。意味もなく、理由もなく。
「貴方は、死んでいるのですか」
 娘は一歩、男の元へ歩み寄りました。そして、その手を男の胸に伸ばしました。
 男の胸板に刻まれた傷痕に、娘の指先が触れました。冷たい指でした。
「けれど……貴方はあたたかい」
 はっと、男は目を見開きました。娘はただ、男の傷痕をなぞりながら、そこに刻み込まれた何かを探ろうとするように目を伏せていました。
 あたたかい、か。この身はまだあたたかいと、そう言うのか。男は思いがけぬ言葉にうろたえ、困惑し、奇妙なものを見るように娘を見下ろしました。
 男は確かに死んでいたのです。しかしそれも、その瞬間までは、と言うべきでしょう。
 全てを失い、生きていながらに死んでいた男に、その娘は初めて触れたのでした。
 男の抗いがたい生を確かめるように、その傷痕に触れたのでした。
「……生者にあらず、死者でもない。この身はあの桜と同じ、妖忌なるものよ」
 男はもう一度桜を振り仰ぎ、そう呟きました。
 枯れぬ桜は生きているのでしょうか、それとも既に死んでいるのでしょうか。
 そして生きる意味を亡くした男もまた、生きているのでしょうか、死んでいるのでしょうか。
 その疑問に答えたのは、死を誘う娘でありました。
「よう、き」
 小さく、娘はその響きを口の中で繰り返しました。
 そして――不意に、男の前で娘は、童女のように微笑んだのです。
 歳に不釣り合いに幼く、けれど幽幻なほどに儚く、娘は笑いました。
 その微笑は、男の見たことのない、知らない類の微笑でありました。
 ざわざわと桜が揺れました。いや、それは男の鼓動の音であったのかもしれません。
 いずれにしてもその音は、止まっていた男の時間の針を動かすものでありました。
「では、これから貴方のことは、妖忌とお呼びしてよろしいですか」
 娘は、どこか無邪気な、しかし儚い笑みを浮かべて、そう問いました。
 男は虚を突かれて、娘の顔をじっと見下ろしました。
 妖忌。妖し忌まれし者。それは確かに、今の男には相応しい名前だったかもしれません。
 かつて名乗っていた名が、男にもありました。しかしそれも、もう意味のない名前でありましたから、むしろすとんと、その響きは男の胸に馴染んだのでした。
「構わぬ」
 男の――妖忌の答えに、娘はこくりと頷きました。
 そうして娘は、妖忌をもう一度見上げ、「妖忌」と繰り返しました。
 桜がまたざわめきました。娘の背後に、あの舞い踊る光の蝶が見えた気がしました。
「……だが、私はお前の名を知らぬ」
 そのとき初めて、妖忌は娘にそう訊ねていました。そのように、誰かに対して名を尋ねるほどの興味を覚えたのも、全てを失ってから、妖忌にとっては初めてのことでありました。
 娘は妖忌から数歩下がると、一礼して、おもむろに口を開きました。
「――ゆゆ」
「ゆゆ?」
 訊ね返した妖忌に、娘はこくりと頷きました。
「ゆゆ、とお呼びください」


        ◆


 その友人は、いつだって唐突に姿を現す。
「あら、お仕事中だったかしら?」
「構わないわよ~。いらっしゃい、紫」
 文机に向かっていた西行寺幽々子は、背後に現れた気配に、悠然と微笑みながら振り返った。中空に開いた隙間から身を乗り出していた八雲紫は、幽々子の返事を受けて「お邪魔しますわ」と畳の上に降り立つ。
「あら、新作に取りかかったの?」
「まだ構想段階だけれどね~」
 幽々子が文机に広げた紙をのぞき込んで、紫は訊ねる。幽々子は苦笑して、硯に筆を置いた。まだ本文に手をつけているわけではない。イメージの断片を書き出して、構想を練り込んでいるところだ。プロットの前段階というところである。
「料理評論家に転向したものとばかり」
「そっちの仕事もしてるわよ~。単に、創作意欲が湧いてきただけ」
 意地の悪い笑みを浮かべる紫に、幽々子は座布団を勧める。それから幽霊を呼んでお茶を持ってこさせようとしたが、それは紫が辞去した。仕方ないので、つまんでいたお茶菓子を差し出す。
「あら、貴方が自分からやる気を出すなんて珍しい」
「紫、貴方にだけはそれを言われたくないわね~」
 友人の言葉に、幽々子は頬を膨らませた。
 今、幻想郷で西行寺幽々子の名はおおよそ三つの意味を持つ。ひとつは従来通りの、白玉楼の主、冥界の姫としての意味。それから、『食いだおれ幻想郷』シリーズをはじめとしたグルメガイドブックの著者としての意味。そして、小説家としての意味だ。
 ぶっちゃけた話、本業である冥界の管理は暇な仕事である。依頼主である是非曲直庁から報酬は出るので食べるのには困らない――困ったところで幽々子は亡霊であるから死ぬこともないが――けれども、はっきり言って普段は何もすることがない。日がな一日、お茶でも飲みながらぼんやり過ごすばかりで、幽々子は退屈をもてあましていた。まあ、だいたい幻想郷の妖怪やら神やらは皆似たような状況だけれども。
 そんな中、幽々子が例の異変を起こす少し前から、幻想郷では出版ブームが起こり始めていた。異変のあと、それを聞き及んだ幽々子は、暇つぶしに副業として小説を書いてみることにしたのである。そうして書き上げた作品『桜の下に沈む夢』は選考委員の激賞を受けて、第二回稗田文芸賞を受賞。作家・西行寺幽々子の名は幻想郷でも広く知られるようになった。
「そういえば、昔読んだ小説にこんなことが書いてあったわ」
「うん~?」
「『本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため、ね。社員のためじゃないの。一億入ったら、《ああ、これだけ損が出来る》と思うのが、本屋さんなの』」
「別にそういうつもりで『食いだおれ幻想郷』を書いてるわけじゃないわよ~」
 ここは怒っていいところだと思う。口を尖らせた幽々子に、紫は「あらあら、ごめんなさい」と笑った。全く、性格の悪い友人だ、と幽々子はため息をひとつ。
 自前の出版社「白玉書店」を立ち上げて執筆活動を始めた幽々子だったが、その作品は評論家筋からの評価はすこぶる高かったものの、一般的には難解だと言われて売り上げはさほど伸びていなかった。そんな中、雑誌に寄稿した食事エッセイが好評を博してシリーズ化され、気がついたら今やそちらでの知名度の方がずっと高くなってしまっていた。『食いだおれ幻想郷』シリーズは白玉書店の看板シリーズである。
 とはいえ、白玉書店は幽々子が代表なのであるから、何を出すも出さないも幽々子の自由だ。売れないから自分の作品を本にできないわけではないし、それが原因でやる気を失っていたというわけでもない。単にモチベーションとネタの問題である。
「じゃあ、何かやる気の起きるようなことでもあったのかしら?」
「妖夢がね、前に出した本の続きを書きたいって言い出したのよ~」
「ああ、『辻斬り双剣伝』だったかしら? 微笑ましい作品だったわね」
 従者の魂魄妖夢ははじめ、出版活動に関しては興味が無さそうだったが、幽々子が勧めて書かせてみたのが、彼女の祖父・魂魄妖忌の武勇伝を題材にした剣豪小説『辻斬り双剣伝』だ。文章も構成も幽々子から見ればまだまだ未熟というところだが、わかりやすいストーリーのおかげか一般受けはいいようで、本は人里の方でそこそこ売れている。
 妖夢自身は習作のつもりだったようで、世に出てしまったことを恥じている様子だったが、それが先日、急に「続きを書きたい」と言い出したのである。妖夢にどんな内心の変化があったのかは定かでないが、おそらくは最近できた友達――永遠亭の兎のことが関係しているのだろう。
「従者に対抗心でも?」
「というよりは、やる気を出したあの子へのご褒美かしらね~」
「あら、貴方が従者にご褒美なんて、明日は雪かしら」
「私だって、最初の読者のことは大事にするのよ~」
 書き上がった幽々子の原稿を最初にチェックするのは妖夢の仕事である。だから自然、幽々子の作品の一番最初の読者は魂魄妖夢だ。
 そして、自分の新作を一番に待っているのも妖夢であることぐらい、幽々子は先刻お見通しである。普段、グルメガイド関係の仕事をしている間、妖夢の「小説の新作まだかなぁ」という視線をあれだけ受けていれば、嫌でも解る。
「まあ、新作は楽しみにしておりますわよ。一読者として」
「ご期待に添えるよう努力いたしますわ~。いつになるかは解らないけどね~」
 苦笑を返して、幽々子はお茶菓子をぽりぽりと囓る。
 紫は、幽々子が受賞したときの稗田文芸賞の選考委員である。今は幽々子も選考委員のひとりで、そのせいなのかどうかは知らないが、紫は選考会に姿を現さなくなっているが――ともかく、紫は当時、幽々子の『桜の下に沈む夢』を推してくれたひとりである。それに関してはもちろん感謝しているし、楽しみと言われればもちろん嬉しい。まあ、だからといって急いで仕上げようとは思わないが。亡霊も妖怪も生は長い。焦っても仕方ないのである。
「ところで、どんな作品になるのかしら?」
「うーん、まだ全然固まってないんだけどね~」
 小首をかしげて、幽々子は中空に目を細める。
「たぶん、『忘れること』についての話になるんじゃないかしら~」
「――忘却、ね」
 不意に、紫の声音が低くなった。それがどういう意味を持つのか、幽々子には見透かせるようで、やはりこの友人の考えていることは解らない。
 そっと息をついて、幽々子は紫から視線を外す。
「昔のことをね、思い出してみようとしたのよ~。私が生きてた頃のこと。結局、思い出せなかったんだけどね~」
 これは紫へ向けた言葉ではない。ただの独り言だ。
 幽々子に生前の記憶は無い。あるのは亡霊になってからの記憶だけだ。記憶の中で、既に魂魄妖忌は自分の傍らにいた。あの無数の皺と傷跡が刻まれた、寡黙な横顔。
 彼がそこにいることは、幽々子にとってあまりにも当たり前のことで、それを疑問に思ったことさえほとんど無かった。なぜ彼が自分の元にいるのか。半人半霊という身で、この亡霊に仕えているのか――何ひとつ、幽々子は知らないでいた。
「妖忌は、私が生きてた頃のことを、知っていたのよね~。紫、貴方も」
「ええ、そうですわ」
 紫の返事はひどく平板だった。幽々子はただ、虚空に息を吐く。
「別に、聞き出そうというわけじゃないわ。今更知ったところで、私が死んだことはどうしようもないし、今の暮らしに私は満足してるしね~」
 そう、幽々子はおおむね、現状には満足していた。美味しいものが食べられて、暇をもてあまさない程度には仕事があり、季節の移ろいを味わう優雅な余裕もある。多くはないが友人もいる。従者が頼りないことを除けば、まずまず上等な生活と言えるだろう。
 ただ――それはあくまで幽々子にとってのことでしかない。
「でも、妖忌はそうでもなかったのかしらね、って。……考えてみたら、私、妖忌のことを全然知らないのよ~。彼がどうしてここにいたのかも、どうしていなくなったのかも」
 幽々子があの異変を起こす少し前、魂魄妖忌は幼い妖夢を残し、白玉楼から姿を消した。それ以来、彼の行方は杳として知れない。半人半霊で永い寿命を持つとはいえ、幽々子の生前を知る彼は既に千年近く生きていたはずだから――あるいは彼の失踪は、己の死期を悟ってのことだったのではないか、と最近幽々子は思っている。
 けれどそれならば、彼は何故この白玉楼を死に場所に選ばなかったのだろう? どうして長年仕えた自分と、幼い妖夢だけを残して、この場所を去ってしまったのだろう。
 彼はいつも寡黙で、己のことをあまり語らなかった。ひょっとしたら妖忌については、妖夢の方がよく知っているのかもしれない。『辻斬り双剣伝』に記された妖忌の武勇伝だって、幽々子の知らない話の方が多かったのだ。
 魂魄妖忌という従者について、自分はあまりに何も知らなすぎた。
 知らないことを、疑問にすら思わなかった。
 いや、それはおそらく無知ではない。自分はきっと知っていたはずだった。――かつて、自分がまだ人間として生きていた頃。自分と妖忌が出会ったのがその頃であるならば、少なくとも妖忌が自分のそばにいた理由ぐらいは、知っていたはずなのだ。
 だけど亡霊となった西行寺幽々子は、それすらも忘れていた。
 ――だからこそ、なのだろうか?
 だからこそ妖忌は、己の死に際にこの場所を去ることを選んだのだろうか?
「ねえ、紫」
 ぽつりと幽々子は呟いた。紫の返事は無かった。
 無くて構わない。これはただの独り言なのだから。
 そして自分は、妖忌のそんな独り言すら聞いたことが無かったのだ。
 彼の胸の裡に何があったのかは、今は決して知りようも無い。
 それは――自分が全てを忘れてしまっていたからなのか。
「……過去に囚われるのと、過去を捨て去るのと、果たしてどっちが罪深いのかしらね~」
 紫は答えなかった。いや、もう既に彼女はいなくなっているのかもしれなかった。
 幽々子はただ、天井に向かって深く息を吐き出す。
 忘却の彼方に沈んだものは、果たしてどんな形をしていたのか。
 ――思い出せるのはただ、魂魄妖忌の険しく引き締められた横顔だけだった。


        ◆


 妖忌は寺で暮らし始めました。どうせ行く宛ても無い身の上ですし、あの山賊のような夜盗野伏が跋扈する中、娘と老婆のふたり暮らしは不用心であるように思われたからです。
 しばらくここに厄介になっても構わぬだろうか、と問うた妖忌に、老婆は満足げな笑みを浮かべて頷き、ゆゆはどこかぼんやりとした顔で虚空を見つめていました。あの晩に見せた微かな表情がその顔に浮かぶことはありません。
 妖忌にしても雨風を凌げる屋根のあるだけでありがたい話でしたので、かたじけない、と老婆に頭を下げ、それからふと己の身なりを見下ろして不思議に思いました。蓬髪といい着流した襤褸のような水干といい、妖忌の姿もあの山賊と大差ありません。しかし老婆は、初めて妖忌がここに現れたときから恐れるでもなく妖忌を迎え入れたのが、奇妙に思われたのです。
 妖忌がそのことを問うと、老婆は笑って答えました。
「貴方が悪人でないことぐらいは解ります」
「だが、人を殺めた数ならば、あの山賊どもよりも俺の方が余程多い」
 訝しんで妖忌はそう言いました。事実、かつて主とともに幾多の戦場を駆け回る中で、妖忌がその手にかけた者の数はおそらく百ではきかないでしょう。
 しかし、妖忌のそんな言葉にも、老婆は静かに首を横に振るのでした。
「私欲のために無辜の民を傷つける者ではないということです」
 私欲、という言葉に妖忌はまた、微かに自嘲気味に笑いました。彼はただ、主の宿願を果たすために刃を振るっていただけでした。あるいはそれもまた私欲と言っていいかもしれません。彼自身には主のような宿願も、あるいは野望も理想もありませんでした。ただ彼は主のために、その望みを果たすためだけに人を斬り続けたのです。それもまた私欲であろう、と彼は思いましたが、言ったところで詮無いことでありました。
 寺のある山の裾野には、小さな里がぽつぽつと点在しておりました。ゆゆと老婆の生活は、専らそこからの寄進物でまかなわれておりました。寄進物を届けに来た里の者は、あの桜の咲く境内には近寄ろうとせず、寺の前で荷車から積み荷を降ろすと、逃げるように去って行くのでした。人を殺す桜と、その下に平然と暮らす娘と老婆は、里では祟り神や怨霊のような扱いを受けているのでありましょう。
 月に一度届くという寄進物は、ゆゆと老婆が細々と暮らしていける程度のものでありましたから、妖忌は山に入って獣を狩ることにしました。手慣れたものですから、たちまちに鹿を仕留めて戻ってきた妖忌に、老婆は驚き、そして喜びました。
 また妖忌は、殺した山賊の持っていた鍬を見て、畑を作ろうと思い立ちました。寄進物があるうちは良いのですが、もしこの寺が里から見捨てられたら、老婆とゆゆの細腕では生きていく術はありません。せめて畑のひとつもあれば、と境内の近くの草むらを太刀で切り開き始めました。
 そのようにして寺での暮らしを始めた妖忌の姿を、ゆゆは日がな一日、あの桜の下でぼんやりと見つめておりました。鹿を仕留めて戻り、それを解体する妖忌の姿を、ゆゆは何を言うでもなく――いえ、あるいはその目は何も見ていないのかもしれません。ゆゆは一日、ほとんど口もきかず、専らあの桜の下に佇んで虚空を見つめているばかりでありました。妖忌も口数の多い質ではありませんから、一日に一言、言葉を交わせば多いようなものでした。
 あの桜が何であるのか、ゆゆと老婆が何者であるのか、疑問に思うところはありましたが、深く詮索したところで何がどうなるというわけでもありません。そもそも妖忌こそが、己の素性をほとんど語っていないのですからお互い様でありました。
 ただ、あの晩に、ゆゆが胸の傷に触れた瞬間と、「妖忌」という名を与えられたときの、得体の知れぬ感覚の正体が掴めぬことに、妖忌は戸惑っているのでした。

 そうして、妖忌が寺に住み着いて七日ばかりが過ぎた頃のことです。
 妖忌はその日、草を刈り取った空き地に鍬を振るっておりました。農作業の心得はあるにはありましたが、畑の開墾などはおよそ手探りでしたので、果たしてこれでいいものか疑問に覚えながらも、尋ねる相手もおらず、記憶を頼りに手探りで妖忌は作業を進めておりました。
 晩夏の日射しに、妖忌が顔を上げて額の汗を拭ったところで、寺へ続く道を歩く足音があることに妖忌は気付きました。男ふたりの足音と察し、妖忌は鍬を手にしたまま草むらから道を振り返りました。
 こちらへ歩いてきているのは、小柄な初老の男と、その傍らに鋤を持って従う青年でありました。寺へ続く道は、寺を過ぎれば山奥へと続いていくばかりの険しい道でありますから、いかにも軽装のふたりは旅人とは思われません。
 妖忌が訝しんで目を細めると、その姿に気付いて、初老の男がこちらを振り返りました。傍らの青年が身構えますが、初老の男はそれを制して妖忌へと向き直ります。
「そちは近頃、あの寺に住み着いたという浪人か」
「……いかにも」
「この山には山賊が住み着いておる。よもやその仲間か」
「そやつらならば、俺が殺した」
 妖忌の言葉に、初老の男と青年は驚愕に目を見開きました。
「まことか」
「十日ほど前か。七人ばかり斬った」
 正確には妖忌が斬ったのは六人で、ひとりはあの桜、あるいはゆゆが殺したのですが、それは言っても詮無いことでありました。
「確かか」
「死体は向こうに捨てた」
「……見て参ります」
 青年がそう言って足早に妖忌の指した方へ向かいました。少しの後、軽く顔を青ざめさせて戻ってきた青年の手には、襤褸切れが握られておりました。
「確かに、あの山賊どもの水干と同じものを纏った死体が。獣に食い荒らされておりましたゆえ、何人分かは解りませぬが……」
「七人だ。そやつらの得物もある。入り用ならば持って行けばいい」
 それだけ言って、妖忌は背を向けようとしました。が、「おお……!」という初老の男の歓喜の声が聞こえ振り返ると、初老の男はその場に膝をついて妖忌に頭を垂れていました。
「儂は麓の里で長をしておりまする。あやつらはここ何年も、このあたり一帯を荒らし回っていた連中。それを始末してくださるとは、なんとありがたきこと――」
 平伏する長の傍らで、青年もそれに倣い膝をついて頭を垂れました。困惑したのは妖忌の方です。別に、麓の里に感謝されるためにあの山賊どもを斬ったわけではありません。ただ――ただ、強いて言えば邪魔であったから斬った。それだけのことです。
「この者も、あやつらに母親を殺されたのです」
 長の言葉に、青年は微かに唇を噛みました。しかし、そのような事情も、妖忌にとっては興味のあることではありません。
「それで、俺に何用か。俺がここに住むのはそちらに不都合か」
 妖忌の問いかけに、長は顔を上げ、首を横に振りました。傍らの青年は、まだ警戒心をあらわにした顔で妖忌を見つめておりました。ああ、と妖忌は思い至ります。この者たちは恐れているのです。妖忌がこれまで里を襲っていた山賊と同じような存在となることを。それも当然のことでしょう。彼らにとって、妖忌は得体の知れぬ浪人でしかありません。あの、死を誘う桜の咲く寺に住むとなれば、なおさら物の怪の類いかとも訝しむでしょう。
「そちらの里に害意は無い。俺のことは放っておいてくれれば良い」
「そのようなこと。名のあるお侍様とお見受けいたします」
「侍ではない。名も無き浪人よ」
 無造作にそう答えて、妖忌は一度鍬を置くと、境内の方へ向かいました。庵の隅に転がしてあった山賊たちの太刀を抱えて道に戻ると、長と青年の足下にそれを転がします。
「好きに持って行け。手入れをすれば売り手もつくだろう」
 長は目を白黒させて、太刀と妖忌の顔を見比べました。しかし、傍らの青年は太刀の数をかぞえて、眉間に皺を寄せて妖忌を睨みます。
「……六本。山賊は七人では」
 ああ、と青年の問いに、妖忌は軽く首を竦めました。
「あとひとつは鍬だ。今、俺がそこで使っている」
「鍬――ここに畑を?」
 妖忌は頷き、また彼らに背を向けて草むらに分け入ります。長は足下に転がった太刀をどうしたものか考えあぐねている様子でした。構わず、また鍬を手にとって妖忌は振りかぶります。
「何を育てるのです」
「……決めておらぬ」
 痛いところを突かれ、妖忌は口ごもりました。畑を作ろう、と思い立ったものの、肝心の植える種が手元に無いのです。
 顔をしかめた妖忌に、不意に青年が微かに表情を緩めました。青年も農民ですから、畑を作ろうという妖忌の意志に共感を覚えたのかもしれません。がさがさと青年は草むらに分け入ると、妖忌の耕そうとしていた土を見下ろしました。
「種なら、里に戻れば多少は。……手伝いましょうか」
「……ああ、すまぬ」
 青年は護身用にか手にしていた鋤を振り上げ、地面に振り下ろしました。固い音が響いて、土の中から小石が姿を現します。「まずはこの石と草の根を除ききらないといけませんね」と青年は言いました。妖忌は頷き、己も鍬を振るい始めました。
 長の相手は、様子を見に来た老婆がしているようでした。その様子を横目に見ながら妖忌が鍬を振るっていると、青年が不意に口を開きました。
「何故、ここに住もうというのです」
「不都合か」
「いえ、ただの興味です。――あの桜が怖ろしくはないのですか」
 鋤を振るいながらこちらに問いかける青年の瞳は、その正体を見据えようとするかのように真摯に妖忌を見据えておりました。妖忌は息を吐いて、境内の方を見やります。
「今更、死を怖れるような身ではない」
 妖忌の言葉をどう受け取ったのか、青年は訝しげな顔をしました。
「夜盗野伏の跋扈するこの時世に、娘と老婆の二人暮らしなど不用心であろう」
 ますます奇妙な表情をして、青年は妖忌を見つめました。ふと妖忌の中に、あの桜と、ゆゆたちについての疑問が膨らんできました。なぜあの桜は死を誘うのか、ゆゆと老婆はこの荒れた寺になぜふたりで暮らしているのか――。他者に対して浮かんだそのような好奇心に、妖忌は微かに戸惑いました。
「――あの桜は、何なのだ。なぜあの樹は死を誘う」
 妖忌の問いかけに、「ご存じでしたか」と青年は顔を伏せ、ぽつぽつと語り始めました。
「元々、あれはただの桜でした。満開ともなればたいそう立派な花を咲かせると評判の桜だったのです。それがあのようになったのは――私が幼い頃、あの寺に庵を結んだ、ある高名な歌人がそもそもの発端でした」
「歌人?」
 問い返した妖忌に、青年は歌人の名を答えました。和歌など縁の無い暮らしをしていた妖忌でしたが、それでもかつて都にいた頃に名を聞き及んでいるほどの人物でした。
「彼は見事な桜の下で往生を遂げることを望んで、あの桜の下で望みを果たしました。……それから、彼を慕う者がその話を聞いて、相次いであの桜の下で往生を遂げていったのです。貴方の斬った山賊どもも、元はあの寺を訪れる者を狙ってこの山に住み着いた連中でした」
 山の頂を見上げて、青年は目を細めました。
「ところが、多くの者があの桜の下で死んでいったことで、あの桜はいつからか、人の精を吸う妖怪桜になったのです。最初に死んだのは寺の住職と僧侶でした。それから、寺に入り込んだ者が何人もあの桜に近づいたことで死に――誰もあの寺には近寄らなくなったのです」
 それであの寺は僧侶もおらず荒れていたのか、と妖忌は納得しました。
 しかし、と妖忌は再び眉を寄せます。今までの話には、ゆゆと老婆が登場していません。
「ならば、あの娘と老婆は何者だ」
「それは、誰も知りません」
 青年は息を吐き出します。掘り返された足下の土はまだ固く石まじりで、かなり念入りに耕さないといけませんね、と青年は呟きました。
「あの寺に誰も近寄らなくなった頃、いつの間にか住み着いていたのです。――あの娘は桜の化身か何かでしょう。里の者はあの桜と同様に恐れて近付きません」
 桜の化身。案外とその表現は的を射ているように妖忌には思われました。日頃、あの桜の下でぼんやりと過ごしているゆゆの姿は、それが自然であるようにそこに収まっています。桜が死を誘うのか、ゆゆが死を誘うのか、いずれにしてもゆゆがあの桜の下にいるのは、その存在自体が切っても切り離せぬものであると考えられるのでした。
 里の者がゆゆを恐れる気持ちは解らぬでもありません。しかし、己もまた既に世の理を外れていることを知っている妖忌には、ゆゆはただ無口で脆弱な少女にしか見えないのでありました。人を殺すだけならば、妖忌の方が余程多くの命を奪って生きてきたのですから。
「あの娘が、桜が怖ろしいか」
「貴方は怖ろしくないのですか。死ぬことが怖ろしいのは誰でも同じでありましょう」
「――そうだな、そういうものであろうな」
 問い返した青年の言葉に、妖忌は微かに苦笑しました。
 主を失ってから、妖忌は己の死を怖れたことはありませんでした。いえ、むしろ望んでいたのでしょう。あのとき、主を守って終わるはずだったこの命を、理をねじ曲げてまで生きながらえさせられた生を断ち切ってくれるものを。
 しかし、では何故己はここで畑を作ろうとしているのか。
 ふとその疑念に立ち至り、妖忌は鍬を地面に突き立てて唸りました。畑を作るという行為は、死を望む者には相応しからぬ生の行為でありましょう。確かに己は死を望んでいたはずだ、と妖忌は考えました。しかし妖忌は今、こうして畑を作っているのです。
 誰のために? それは――。
「ならば、お前は俺が怖ろしくはないのか」
 首を振って思考を払い、妖忌は青年に問いかけました。
 青年はどこかきょとんとした顔で妖忌を見返します。
「殺そうと思えば、俺はいつでもこの鍬でお前を殺せる」
 妖忌の言葉に、青年はふっと笑みを浮かべて、首をゆっくりと横に振りました。
「……貴方は不思議な御方だ」
「そうか」
「ええ、とても」
 青年はどこか楽しげに笑い、妖忌は軽く口を尖らせて唸りました。笑われる筋合いはない、と思いましたが、青年は心を許したように朗らかに妖忌に笑いかけているのでした。
「おお、ここにおったか。戻るぞ」
 と、そこへ長が戻ってきました。先ほどの感謝の念はいずこへやら、長は妖忌とは目を合わせようとせず、青年に手招きします。青年はひとつ頭を下げました。
「今度、種を持ってきましょう。それまでに、石と余分な草を取り除いて、草を焼いた灰を土に蒔いておいてください」
「灰?」
「作物がよく育つまじないです」
「……成る程。心得た」
 では、と青年はもう一度頭を下げて長の元へ小走りに向かっていきました。その姿を見送り、妖忌は再び鍬を振り上げて土を耕しにかかりました。
 と、草むらが誰かの足音とともにざわめきました。青年が戻ってきたのかと振り返りますと、意想外な姿がそこにあり、妖忌は目を見開きました。
「ゆゆ。どうした」
 現れたのはゆゆでした。ゆゆはぼんやりと、妖忌の顔と、その手の鍬と、足下の地面を見比べます。ゆゆがあの桜の下を離れて歩き回るのは珍しいことでしたので、妖忌は訝しく思いましたが、単にそこにいるだけならば邪魔でもありませんので、再び妖忌は鍬を振るいます。
 ゆゆは立ち尽くしたまま、地面に鍬を振るう妖忌を静かに眺めておりました。妖忌の作業の何かが彼女の興味を引いたのかもしれませんが、そのぼんやりとした表情からは感情が読み取れませんので、妖忌は黙々と作業を続けました。
「……土を」
「ん?」
 ふと、声が聞こえて妖忌は振り返りました。土を耕す音に紛れてしまいそうな微かな声でしたが、それは確かにゆゆの声でした。――そういえば、ゆゆの方からこちらに話しかけてきたのはあの晩以来だ、と妖忌は思いました。
 ゆゆはまた、妖忌の耕す土を見下ろし、鍬を見つめ、小首をかしげました。
「土を、殺しているのですか」
 一瞬、ゆゆが何を言ったのか理解できず、妖忌は瞬きしました。
 土を殺す。何のことかと首をひねり、それから鍬を見下ろして、まさか、と妖忌は思い至ります。まさかゆゆは、土を耕すのを、鍬で土を殴って殺しているとでも思ったのか、と。
「……違う。耕しているのだ」
「たが、やす」
 初めて聞いた言葉のように、ゆゆはオウム返しに言いました。その白く細い指先を見て、そもそもこの娘は農作業などとは縁の無い者か、と妖忌は思いました。あるいはゆゆの出自は、案外と都の貴族の娘あたりなのやもしれませんが、今はどうでもいいことです。
「畑を作っているのだ」
「はたけ……」
「他人に頼らずとも、飯が食える方が良かろう」
 かがみ込み、耕した土の中に混じった小石を、妖忌はひとつひとつ手で取り除きます。それを見つめるゆゆの視線に、どこか興味深げな色が混じっているのに気付き、妖忌は目を細めました。ゆゆの顔から感情や考えが読み取れたのは、初めてのことだったかもしれません。
 石を除き、また鍬を振るい始めた妖忌の姿を、ゆゆはその傍らに立って見つめておりました。陽はまだ高く、晩夏の要項がじりじりとゆゆの影を土に落とします。けれどもゆゆの白い肌には、汗の一粒も浮いていないのでありました。
 その視線がどうにも気になって、妖忌は手を止めて小さく肩をすくめました。手伝われるでもなく、ただ見られているだけというのはどうにも落ち着きません。しかし、ただ追い払うのも何故か気が引けたのでした。
「……お前もやってみるか」
 鍬の持ち手を、妖忌はゆゆの方へ差し出しました。ゆゆはきょとんと、鍬と妖忌の顔を交互に見比べます。妖忌はその白く細い手に、押しつけるように鍬の持ち手を握らせました。
「持ち上げられるか」
 妖忌が振りかぶるように手を持ち上げてみせると、ゆゆもそれに倣って、鍬を持ち上げようとしました。しかし、地面から鍬は少し動いただけで、持ち手はゆゆの手から離れて地面に転がりました。あまりの非力ぶりに妖忌は思わず息を吐いて、転がった鍬を拾い上げると、ゆゆに背を向けました。
「お前のやるべき仕事ではないということだ」
 そう言って、また鍬を振りかぶりますが、やはりゆゆはその場を動かずに、じっと妖忌を見つめています。やはりこの娘の考えていることは解らぬ、と妖忌は眉を寄せました。
「……どうしたいのだ、お前は」
 息を吐きながら問うと、ゆゆはようやく、静かに口を開きました。
「見ていたいのです」
「何をだ」
「貴方を」
「……面白いものでもあるまい。炎天下に突っ立って倒れても知らぬぞ」
 また妖忌は、ゆゆの言葉に戸惑いました。しかしそれは、いつかのような怖れを孕んだ戸惑いではなく、何かもっと単純なもののように思われました。ただ妖忌の反応がどうあれ、ゆゆはそこから動く気はないようでした。
 妖忌はそれ以上言葉を失って、鍬を振り下ろします。鍬の先が埋まっていた石を叩いて、固い音をたてました。
「ああ、お前にもできそうなことがあったな」
 かがみこんで、妖忌はゆゆにもしゃがむように促しました。ゆゆは妖忌の顔を見つめて、それからおずおずとその場に膝を折ります。
「俺がこうして掘り返したあとの土に、石が埋まっていたら除いてくれ」
「石」
「こうやってだ」
 埋まっていた小石をひとつ土の中から掘り出して、妖忌は背後の草むらに放り捨てます。
 ゆゆも、土に顔を見せていた石に指を伸ばしました。ゆゆの白い指先が土に触れ、微かに黒ずんだ汚れをそこに残して、小石はころりとゆゆの手の中に転がりました。
「そうだ。石はそのあたりに捨ててくれれば良い」
 妖忌が言うと、ゆゆは手のひらの石をじっと見つめると、ぽとりとその場に落としました。それでは大差ないではないか、と妖忌が言おうとしましたが、ゆゆは何かを期待するような眼差しでじっと妖忌を見つめておりまして、それ以上妖忌は何も言えなくなったのでした。
「……ほら、まだ埋まっているぞ」
 妖忌が指し示してやると、ゆゆはそれを除きにかかります。そんなゆゆの姿を、妖忌は奇妙なものを見るように見つめました。
 普段、ゆゆはほとんどじっとしているばかりで、老婆や妖忌が何かをしていても手伝おうとはしません。そのゆゆが、畑仕事に興味らしきものを覚え、働くことを知らぬ指を土に汚している姿は、どうにも不思議なものに思われました。
「ゆゆ」
 立ち上がり、妖忌は場所を変えてまた鍬を振り上げます。ぼんやりこちらを見上げたゆゆの顔は、幼子のように純朴な表情をしているようにも、妖忌には思われました。
「……なるべく、お前に美味いものを食わせてやれるよう努力しよう」
 独り言のようにそう呟いた言葉は、土を鍬が掻く音にかき消されたのでした。


        ◆


 夕飯の支度が出来たことを、料理番の幽霊が告げていった。
 外を見やれば、冥界も既に黄昏の色に染まっている。陽が沈むのも、だんだんと早くなってきた。もう夏も終わり、季節は秋へ巡ろうとしている。
 食欲の秋。ぐぅ、とお腹が鳴って、幽々子は立ち上がった。
 縁側に出ると、庭に剣を振る妖夢の姿がある。真剣な横顔に幽々子が目を細めていると、ふと妖夢が手を止めてこちらを振り返った。別に気配を隠していたわけでは無いが、この鋭さをもう少し普段から発揮できないものか、と幽々子は思う。
「幽々子様? どうなさいました?」
「お夕飯よ~。もうお腹ぺこぺこ」
「ああ、すみません、もうそんな時間でしたか」
 剣を鞘に仕舞い、妖夢は慌てて縁側へと戻ってくる。軽く火照った額に汗が浮いていた。随分と集中して剣を振るっていたようだ。
「ここのところ、熱心ね~」
「……そうですか?」
 小首をかしげた妖夢に、幽々子は口元を扇子で隠して笑った。
「悪い友達に誘惑されて道を誤らないか、ちょっと心配してたんだけどね~」
「れっ、鈴仙は、悪い友達なんかじゃありませんよ!」
 真剣な顔で抗議されて、幽々子は目を丸くする。と、妖夢はすぐにもじもじと俯いて、「あ、いや、そもそも友達なのか、どうか……」ともごもご呟いた。幽々子は苦笑する。
 夏頃から、妖夢にはどうやら友達ができたようだった。永遠亭の兎、鈴仙・優曇華院・イナバである。幽々子にとっては永遠亭の蓬莱人たちは天敵であるし、医者の世話になる必要も無いので、今まで白玉楼と永遠亭とは没交渉だった。その従者同士が何の因果か友達同士になったのは意外だったが、幽々子としては別にお邪魔をするつもりはない。
 ただ妖夢は、基本的に用が無ければ冥界の外には出ない。そんなだから友達もいなかったわけで、理由なく友達に会いに出かけるという発想自体がそもそも妖夢には無いようだった。だから幽々子としては、妖夢が人里に出かけたときは多少帰りが遅くなっても黙認することにしている。
 なんだかんだ言っても、妖夢が楽しそうにしていると、幽々子も嬉しいのだ。
「ほら、汗を拭いて手を洗ってらっしゃい」
「あ、はい」
 ぱたぱたと洗面所へ駆けていく妖夢の背中に、「早く戻らないと先に妖夢の分も食べちゃうわよ~」と幽々子は声をかけた。洗面所の扉越しに、妖夢のため息が聞こえてきた。

「いただきます」
「いただきます~」
 妖夢と囲む食卓には、今日も様々なおかずが並んでいる。料理番の幽霊は、長年幽々子の舌に鍛えられているだけあって味は確かだ。ときどきちょっと味の落ちるものが紛れ込んでいるのは、たいていは妖夢が手伝ったときである。まあ、それも愛嬌だが。
 その妖夢は、料理番の幽霊に手伝えなかったことを詫びていた。妖夢がどの程度料理の役に立っているのかは知らないけれども、妖夢の本業は庭師なのだから、そこまで気にするほどのことではないだろう。実際、妖夢の祖父の妖忌は、台所に立っている姿なんて――。
「幽々子様」
「うん~?」
 あむ、と揚げ出し豆腐をほおばっていると、不意に妖夢に呼びかけられた。
「あの、祖父は――庭師以外は、やはり剣一筋だったのでしょうか」
 考えを読まれたのかと一瞬思ったが、まさかそんなことは無いだろう、と幽々子は心の中だけで苦笑した。それから味噌汁を煤って、ひとつ鼻を鳴らす。
「そうね~」
 ――妖夢はこのところ、こうして祖父、魂魄妖忌のことを口に出すことが多くなった。
 それは専ら、先日から着手しているはずの『辻斬り双剣伝』の続編のことがあるからだろう。妖忌との付き合いは、幽々子の方がずっと永い。妖夢が、自分の知らない妖忌の姿を幽々子に問うてくるのは至極当然のことだ。必要なものがあれば何でも言いなさい、と妖夢に言ったのは他でもない幽々子である。
 しかし――その問いかけを、このところ少し気が重く感じている自分がいることに、幽々子は気付いていた。理由は明白だ。
 妖忌について問われれば問われるほど、自分が魂魄妖忌という従者について驚くほど何も知らないのだということを、まざまざと突きつけられるからだ。
「妖忌が台所に入っている姿は記憶にないわね~」
 空いた皿を片付けていた料理番の幽霊が、不意にぴたりと動きを止めた。幽々子が横目に見やると、慌てたように台所に下がっていく。軽く首をかしげながら、幽々子はおひたしを箸でつまんだ。
「庭を見回っているか、剣を振っているか、瞑想しているか――妖忌はいつもそうだったわ」
 そう、思い返しても、幽々子の記憶に浮かんでくるのは妖忌のそんな姿ばかりだった。
 庭師としての妖忌。剣士としての妖忌。それ以外の姿を、彼が幽々子の前で見せたことはあっただろうか?
 目を閉じても、瞼に浮かぶのは、老いてなお精悍だった彼の引き締まった横顔ばかり。
 深い皺と、無数の傷跡に覆われた顔はいつだって厳しく前を見つめていた。
 ――妖忌の笑顔が、思い出せない。
「瞑想してるときに、いたずらしようとしても、すぐ気付かれちゃってつまらなかったわ~」
 笑ってみせると、妖夢は困ったように苦笑いを返す。
 そう、妖忌はいつも、どこか張り詰めたような緊張感を纏っていた。それこそ、眠っているときであっても。それは、自分を守る従者として必要であったからだろうか?
「妖夢は?」
「はい?」
「妖夢から見て、妖忌はどんな風に見えていたの~?」
「祖父、ですか」
 漬け物を口に含みながら、妖夢はひとつ首をかしげた。
「……そうですね。やっぱり、厳しかった印象が強いです。正直に言えば、怖いと思ったことも何度もあります。怒鳴られたり殴られたりはしませんでしたけど……あの顔で睨まれて、正面から見つめられると、身が竦んでしまって……」
 思い出したのか、妖夢は軽く首を竦めて身を震わせた。
 そう、妖忌はいつだって、寡黙で実直で、自分にも他人にも厳しかった。
「でも」
 と、妖夢は少し表情を緩めて、照れくさそうに言葉を続けた。
「稽古の後、たまに祖父は頭を撫でてくれました。あの固い手のひらで、こう、わしわしと。乱暴でちょっと痛かったですけど、それは嬉しかったのを、覚えています」
「……そう」
 幽々子はただ、目を細めてそれに頷いた。
 ――妖忌が、自分にそんな風に触れようとしたことはあっただろうか?
 考えてみたけれど、やっぱり幽々子には、思い出せはしなかった。妖忌の手が、自分の身体に触れた記憶が――無かったはずはないのに、どうしても。


        ◆


 それからというもの、ゆゆはよく畑に姿を現すようになりました。
 ほとんどの場合、妖忌が鍬を振るうのをゆゆは黙って見ているばかりでしたが、ときおりかがみ込んでは、土の中の小石を取ろうとします。とは言っても、せっかく耕したところを踏み固めてしまったり、取り除いた小石を耕したところに捨てたりするので、あまり手伝いにはなっていませんでしたが、妖忌は気にしないことにしました。
 老婆にしてみれば、ゆゆのそのような行動はたいそう意想外であったらしく、ゆゆが指を土に汚して戻ったときは目を丸くしました。しかし、普段はあの桜の下でぼんやりしているだけのゆゆが何事かに興味を示したことが喜ばしいようで、すぐに老婆は顔をほころばせて、ゆゆが畑に向かうのを見守るようになりました。
 そうして、山での狩りと平行しながら、妖忌は十日ほどでどうにか小さな畑らしきものを形にしました。青年が再びやってきたのは、そんな頃合いでした。
「ひとりで、十日でこれを? いやはや、大したものだ」
 妖忌の耕した土地を見下ろして、青年は目を丸くしました。青年はいくつか妖忌に確認を取ると、懐から小さな包みを取り出します。広げると、中身は赤茶色の種でした。
「大根です。今から蒔けば二月ほどで取れましょう」
 そう言って、青年は畑の畝の高さを調整し始めました。手慣れた様子の青年に任せた方がよかろう、と妖忌がそれを見守っていると、また草むらが音を立てました。正体は分かりきっておりますので、妖忌はゆっくりと振り返ります。はたして、現れたのはゆゆでありました。
「ゆゆか。畑がどうやらできあがりそうだぞ」
 妖忌が言うと、ゆゆはまた普段のぼんやりした表情で畑を見下ろしました。その視線が、こちらを振り返った青年とかち合い、青年は困惑した顔で目を背けました。
「……どなたですか」
 ゆゆが、微かな声で呟きました。そういえば、己がここに来たときもゆゆの第一声はそれであったな、と妖忌は思い返しました。
「里の者だ。畑作りを手伝ってくれている」
 妖忌は答えます。青年はこちらを見ないように、畝の形成に集中しておりました。そういえば、青年がゆゆと顔を合わせるのは初めてのはずですから、やはり青年もまたゆゆを怖れているのでしょう。
 妖忌はのそりと青年に近寄り、「手伝おう」と言いました。青年は困ったような苦笑を浮かべて頷きました。
「……怖れることはない。あの桜に近寄らなければ何事も無い」
 ぼそりと妖忌が呟いた言葉に、青年は顔を上げて目を細めました。
 ゆゆは少し離れたところから、こちらをぼんやり見つめています。小声の会話は、ゆゆの耳まではおそらく届かないでしょうが、青年は声を潜めました。
「里は、あの山賊どもが現れなくなったことを喜んでいます」
「……そうか」
「ですが……その、貴方がたのことは、何とも」
 言いにくそうに口にした青年に、妖忌は鼻を鳴らして首を振りました。
「己がどのように見られるか、そのぐらいは予想できる」
「すみません」
「お前が謝る義理は無い。――良かったのか、そのような者に貴重な種を」
 妖忌の問いに、青年はまた答えにくそうに口ごもりました。その表情で、おおよそ里で自分に対してどのような判断が下されたのか、妖忌は悟りました。
「飢えさせなければ襲われることはない、か」
「いえ、そのような」
「構わぬ。飢えた浪人は何をしでかすか解らぬからな」
 それがたとえば山賊であり、夜盗であり、野伏であります。里を長年苦しめた山賊をひとりで壊滅させた妖忌が敵となることを里が怖れるのは当然でありました。
「私としては、貴方に里の農作業を手伝ってもらいたいぐらいです」
 青年の言葉に、妖忌は目を細めました。そうして、胸元に走る己の傷跡を見下ろしました。
 それはできぬだろう、と妖忌は思いました。生まれてこの方、民草の中に永く腰を落ち着けたことなどなく、主と出会ってからは潜伏と合戦、逃走の日々でありました。そうして今や、世の理を外れた自分には、人々の中での暮らしなど、望むのもおこがましいことです。
 これでいいでしょう、と畝のできあがった畑を見下ろして、青年が言いました。それから包みの中の種を取り出すと、畝にくぼみを作り、何粒かをそこに落として土で隠します。「一カ所に五粒ほど蒔いてください。あとで間引きます」と青年は種を妖忌に手渡しました。妖忌も見よう見まねで、畝に種を蒔いていきます。
「……気遣いはありがたいが」
 その作業の中、妖忌はぽつりと呟くように言いました。
「お前にも里での立場や家族があろう。そちらを大事にするが良い」
 里の総意があくまで妖忌を遠ざけることにあるならば、その畑作りの手伝いをする青年の行為は里にしてみればあまり好ましいものとも言えないはずです。
 妖忌の言葉に、青年はまた困ったような苦笑を浮かべました。
「家族はおらぬか」
「……いえ、妻と息子が」
「ならば、お前が守るべきものはそれだ。俺などには構わずとも良い」
 この気の良い青年が、己のために村での立場を悪くするのは忍びないと妖忌は思いました。けれどやはり青年はその気の良さが故に、その言葉の通りにはできないようでした。
「乗りかかった船です。収穫まではたまにお手伝いをさせてください」
「いいのか」
「貴方が悪さをせぬよう見張っている、と言えば角も立たぬでしょう。寄進物を増やせば里の負担も増えますし、畑作りが失敗して飢えられる方が困ります」
「……それもそうだな」
 意外とこの青年はしたたかかもしれぬ、と妖忌は思いました。もっとも、このご時世にただ脳天気なお人好しであるばかりでは生きていかれぬのも、また事実でありましょう。
 青年は妖忌よりもずっと手早く畑の半分に種を蒔き終えて立ち上がりました。
「芽が出てからも、毎日水まきを欠かさぬようにしてください。害獣と害虫に気をつけて。間引きが必要な頃合いになったら、また来ます」
「ああ、すまぬ」
「目処が立ったら、次の春に向けて畑を広げるのも良いでしょう」
 草むらを見渡して、青年は言いました。次の春か、と妖忌は目を細めました。次の春に、己はまだここにいるでしょうか。そして――そのとき、あの桜とゆゆは、
「では、私は自分の畑もありますので、これで」
 青年はそう言って、一度お辞儀すると、畑を後にしました。それを妖忌が見送っていると、背後に足音が近付きます。
「畝を踏むな」
 種を植えた畝を踏みそうになったゆゆに、思わず鋭く声を上げると、ゆゆは驚いたように目をまん丸に見開いて、踏み出しかけた足を中にさまよわせ、そのまま重心を崩して尻餅をつきました。
「大丈夫か」
 妖忌が歩み寄ると、ゆゆは微かに顔をしかめながら、どこか拗ねたような顔で妖忌を見上げました。妖忌が首をすくめて手をさしのべると、ゆゆはその手を取って立ち上がります。その表情はやはり、どこか不機嫌そうに妖忌には見えましたが、理由はわかりません。
 ほっそりとして冷たいゆゆの手は、妖忌の大きな手の中では容易く折れてしまいそうに華奢で、その身体も引き起こすときには体重を感じないほど軽いのでした。その細さと軽さに、妖忌はまた正体の解らぬ戸惑いのようなものを覚えて、ひとつ咳払いします。
 それから、ふと思い立って、残っている種の包みをゆゆの手に握らせました。ゆゆは不思議そうな顔で包みと妖忌の顔を見比べます。
「種蒔きなら、お前にもできるだろう」
 かがみ込んで、妖忌は畝に指で軽くくぼみを作ります。のぞき込んだゆゆに、妖忌はくぼみを指さして、「ここに種を落とすんだ。五粒ほどでいい」と告げます。ゆゆはその場にしゃがむと、包みから種を一粒ひとつぶ、丁寧につまんで、くぼみに落としました。
「よし、あとは土をかぶせるんだ」
 妖忌がやって見せたのに倣って、ゆゆの白い指が畝の土をならし、くぼみを埋めて種を隠します。種が完全に隠れてしまうと、ゆゆは妖忌の顔を見上げて小首を傾げました。
「ああ、それで良い」
 思わず、妖忌はその頭を、幼子にするように撫でていました。固い妖忌の手のひらに髪をかき乱されて、ゆゆはくすぐったそうに目を細めて――微かに、妖忌へ向けて笑いました。
 それは童女のように純朴で、清廉な微笑みでした。
 妖忌は軽く息を飲んで、ゆゆの髪から手を離しました。ゆゆはまたいつもの無表情に戻っていましたが、手のひらに残った髪のつややかな感触と、ゆゆの見せた微笑みは確かに、妖忌の中にまた微かな戸惑いとしてくすぶったのでした。
 やはり妖忌には、その戸惑いの正体が解らぬままで、それが解らぬことへの微かな怖れのようなものを感じながら――けれど、ひとつの確信めいたものを妖忌は得ていました。
 ゆゆは、ただ童女のように無垢で、感情の表現が不得手なだけなのだ、と。
 その表情の裏には、誰もが抱えているような感情が隠れているのだ、と。

 それからしばらく、寺での暮らしは存外、平穏に続いていきました。
 妖忌は畑の手入れをし、山に入って獣を狩り、糧を手に入れます。獣たちもあの桜が怖ろしいのか、畑は害獣に寄りつかれることもなく、種蒔きから数日後に芽吹いた大根はどうやら順調に育っているようでした。
 ゆゆは、蒔いた種の芽吹きにいたく関心を覚えたようで、毎日用もなく畑に姿を現しては、何をするでも無く芽吹いた葉を眺めておりました。その傍らで畑に井戸から汲んだ水を撒きながら、妖忌は静かにゆゆを見守っておりました。
 里の者はあれからも、やはり寺には近付こうとはしませんでした。寄進物を届けるのはあの青年の仕事になったようで、青年はそれ以外にもときおり寺に顔を見せては、畑の様子を見て妖忌にあれこれ指示を送りました。
 青年によれば、里では相変わらず、妖忌は物の怪の仲間として扱われているそうでした。しかし里の者との接点はこの青年しかありませんでしたから、そのことは妖忌は特に気にしてはいませんでした。
 むしろ気にしていたのは、ゆゆのことでした。里ではゆゆもやはり、物の怪であるという認識が支配しているようでした。妖忌自身もあの桜のことがある以上、ゆゆがどちらかといえばそちら寄りの者であることは否定しかねたのですが、今は静寂を保っている里からの疎外の意志――敵意がこちらに向けられる可能性を、妖忌は微かに憂えていました。
 同時に、それを考えると、今のこの暮らしはやはり、何者かの配剤であるようにも思えるのでした。
 死を誘う桜。ゆゆ。老婆。そして、かつて死に損ねた己。
 全てを失い、死を求めてさまよっていた妖忌が、死を誘う桜とともに生きる娘と出会ったという事実。その娘は力なく、老婆と二人暮らしという守られるべき立場にあり、敵意を向けうる里という存在がある。そして己には、ゆゆを守るだけの力がある――。
 考えてみれば、やはり何者かの意志がそこに働いているように思われるのです。
 ふと訪れる眠れぬ晩に、妖忌は冴えた思考でそのようなことを考え続けていました。
 そのような考えに至ったのは、配剤をなし得る存在にひとつ、心当たりがあったからでした。いや、その者の意志によって妖忌は生かされ、この地に導かれたことは明らかであると言ってもいいはずでした。
 ――それは、妖忌が全てを、守るべき己の半身を失ったときのことでした。
 ごうごうと風の鳴る闇の中、妖忌は追憶にそっと目を伏せます。
 それは、己が死ぬはずだったときのこと。
 妖忌がまだ別の名を名乗っていた頃の、今は遠い残映であります。

 その日、はじめに彼の目に入ったのは、柔らかな金色でありました。
 極楽の光であろうか、と目を開けた彼は、しかし次の刹那、猛烈な身体の痛みに低く呻き声をあげました。肩といわず腹といわず、身体を動かそうとすると全身のあちらこちらに灼けるような激痛が走ります。身を起こすこともままならず、彼は瞬きしてぼんやりとした視界の輪郭を取り戻そうとしました。
『目が覚めましたか』
 ふと若い娘の声が響き、彼の視界にまた、ふわりとした金色が揺れました。
 目の前に現れたのは、彼を覗きこむ年若い娘の顔でありました。その異様なる姿に、彼は目を見開きました。彼を覗きこんだのは、麦の穂のような金色の髪と、深い紫の瞳をした娘であったのです。金色の髪の人間などいるはずもありません。彼は物の怪、妖かと身構えようとしましたが、全身の激痛にまた呻いて臥しました。
『まだ傷が癒えていませんわ。大人しくなさって』
 そう言って金色の髪をした娘は、濡らした布で彼の身体を拭います。それを遮ることもできず、彼はただ娘の手が己の身体をなぞるに身を任せるしかありませんでした。
『……何者だ。物の怪か。ここは地獄か』
『あら嫌だ。貴方はまだ生きておりますわよ。半分だけ、ね』
 物の怪であることは否定せず、娘は彼に向かって悠然と微笑みました。
 娘の正体よりも、彼はまず、己が生きているということを訝しみました。彼は確かに死んだはずだったからです。主の館を襲った裏切りの軍勢を前に、薙刀を振るって戦い、雨のように降り注いだ矢を全身に受けたところで、彼の記憶は途切れておりました。
 全身を襲う激痛は、その傷の痛みでありましょう。なればやはり、あの戦いは現実であったはずです。しかしそれならば、今彼が生きている道理があろうはずもありません。
『ここはどこだ。衣川か。――義経はどうなった』
 彼の言葉に、金色の髪の娘は目を細めて、ゆっくりと首を振りました。その仕草で全てを悟り、彼は大きく息を吐いて天井を見上げました。――解っていたことではありました。最早それこそが主の定めでしかなかったことも。己の戦いが最早、主を守り生きながらえさせるためのものではなかったことも。
 平氏を滅ぼすことだけが、主に与えられた天命であり宿願でありました。それを果たし、主の役目は終わったのでした。その生涯とともに。――しかしそれならば、彼の命運もまた同時に尽きているはずでありました。五条の橋で出会ったその時より、彼はただ主のための生きてきたのでした。源義経という希代の将の忠臣として、その命を守るため、その宿願を果たすために刃を振るい、無数の命を屠ってきたのでありました。
 ――武蔵坊弁慶。その名ももはや、彼をそう呼ぶ者は居ないのです。
『何故、俺は生きている。――義経が死んだのならば、俺は何故、』
『彼の役目は終わりました。ですが、貴方にはまだ役目が残っている。それだけですわ』
 娘は淡々と、そう答えました。役目。彼は眉を寄せて娘を睨みました。
『何がある。この俺に、義経を失った俺に何が残されている』
『その命が。その腕が。そして、貴方が仕えるべきもうひとりの主が』
『――俺の主は、源九郎義経ただひとりだ』
 彼の言葉に、娘はただ目を細めて、彼の頬にその白い手で触れました。
 血が通っているとは思えぬほど冷たい手に、彼は微かに身を震わせました。
『俺を生きながらえさせたのは――お前か』
 娘は曖昧に微笑むばかりでありましたが、それが事実であろうと、彼は確信しました。
 やはり彼は死んだはずだったのです。その理を、この妖の娘がねじ曲げ、彼をこの世に無理矢理繋ぎ止めたに相違ありません。――だとすれば、この身は既にこの世の理を外れているのか、と彼は思いました。
 そう、一度死んだ者が生き返ったとすれば、彼もまたもはや妖でしかないのでした。その事実に彼は深く歎息し、厳しい顔で娘を見つめました。
『仕えるべきもうひとりの主がいる、と言ったな』
『ええ』
『それは、お前のことか』
『いいえ。――その者には、いずれ西の地で巡り会うでしょう』
『西とは、京のことか』
 娘はそれにはただ、曖昧に微笑むばかりでありました。その顔に目を細めるうちに、彼にはふと、その娘の異貌がどこか――哀しげであるようにも思えました。
 娘は立ち上がりました。そこでようやく、娘の身に纏う異様な衣裳を彼は目の当たりにしました。白い衣に薄い紫の前掛けに似た布を垂らし、金色の髪には赤い布が結ばれております。赤い紐の飾られた白い帽を被り、娘は手にしていた長物を頭上に翳しました。それは花がほころぶように白く娘の頭上に広がり、その顔を覆い隠します。
 今までに見たことのない、まさに異様な風体でありました。しかしその姿は同時に、妖しく蠱惑的なまでの美しさをたたえておりました。その姿に己が見入っていることに彼は気付き、また自分が妖の側に引き寄せられつつあることを感じたのでした。
『今の貴方は魂無き魄のもの。しかしいずれ、貴方は己の魂を取り戻すでしょう』
 娘の言葉とともに、風が吹き抜けたように彼には思われました。しかしそれは錯覚でした。
 風ではなく、彼の目の前に現れたのは――巨大な裂け目でありました。
 中空が不意に割れ、ぎょろりとした目がこちらを覗きこむ紫の闇が、その空間に現れたのです。彼は戦慄しましたが、痛みが故に指先ひとつ動かせず、その空の隙間を見つめました。
『生きなさい。貴方が死を臨むならば、それはその先にあります』
 そして娘は、その隙間に身を躍らせました。目を見開いた彼の眼前で、娘は隙間から身を乗り出して、彼へ向かって優雅に微笑んだのでありました。
『また会いましょう』
 それだけを言い残して、娘の姿は隙間の中に消えました。そして幻であったかのように、その隙間は閉じて跡形もなく消え失せ、あとにはただ臥した彼だけが残されているのでした。

 ――あの妖の娘が何者であったのか、妖忌には未だに解らないでいました。
 ただ、事実として、彼はその後も生き続け、あてもない放浪の旅を続けたのでした。主亡き今、生きる目的もなく、されどあの娘の言う通りに西へ、陸奥からこの河内の地まで彷徨ってきたのは何故であろうか、と妖忌は己に問いかけますが、やはり答えは出ないのでした。
 仕えるべきもうひとりの主。あの娘の言うそれが誰であるのかも、まだ妖忌には解りません。――ゆゆなのであろうか。妖忌は身を起こし、老婆を隔てて眠るゆゆの顔を見下ろしながら、微かに目を細めました。
 己がゆゆに惹かれていることを、妖忌は既に否定できなくなっておりました。ただそれは、かつて五条の橋で出会い、従者として仕えたあの少年へ向けたようなものとは決定的に異なることを妖忌は肌で感じておりました。しかし、何が違うのか、どう違うのかということになると、途端に思考は闇の中を彷徨うばかりで、妖忌はただ当惑し立ちすくむしかないのでした。
 息を吐き、もう一度布団に潜り込もうとしたところで、身じろぎする気配を感じて、妖忌は振り返りました。見れば、ゆゆが微かに瞼を開けて、妖忌の方を見上げておりました。
「すまぬ、起こしてしまったか」
 老婆を起こさぬよう、妖忌は小声でそう詫びました。ゆゆはぼんやりと身体を起こすと、ゆるゆると首を横に振って、妖忌に向き直りました。
「……どうした」
 妖忌が訝しんで訊ねると、ゆゆは布団から抜け出して、隣で眠る老婆を避けて妖忌の方へと歩み寄りました。思わず身を起こした妖忌の傍らに膝を折り、ゆゆはその顔を見上げます。妖忌はまた、その言葉もないゆゆの動作に当惑し、闇の中でも白いその顔を見つめました。
「ようき」
 微かな声で、ゆゆがその名を呼びました。はっと妖忌が息を飲んだときには、ゆゆの手が妖忌の顔に伸ばされ、その冷たい指先が、その顔に刻まれた古傷と皺をなぞりました。
「どうして、そんな顔を、しているのですか」
 妖忌は小さく息を飲みました。ゆゆはじっと、その瞳で妖忌を見つめていました。
 死人のような冷たい指、白い肌、されどゆゆがそこに確かに存在することを認めようとするように、妖忌は節くれだった手で、ゆゆの頬に触れました。
「生憎、己の顔は見えぬ。……俺はどんな顔をしている」
 妖忌の問いに、ゆゆは目を細めて、ゆるゆると首を横に振りました。
 問いに答える言葉を、ゆゆは持ち合わせていないのかもしれません。妖忌は微かに苦笑して、のそりと立ち上がりました。ぼんやりとこちらを見上げたゆゆに、妖忌は手を差し伸べます。妖忌の無骨な手を、細く折れそうな指が握りしめ、ゆゆは立ち上がりました。
 妖忌はゆゆの手を引き、庵をそっと出ました。夜の境内はしんと静まりかえり、ただ風に山の木々がざわめく音と、遠く獣や梟の声が響くばかりです。
 そんな夜の静寂の中に、あの桜はやはり、八分咲きのままに薄紅を広げておりました。
「……ゆゆ。お前はこの桜の下で何を見ている」
 ゆゆの手を引き、妖忌はゆっくりと桜に歩み寄りました。ゆゆは手を引かれるままに桜の下へと向かいますが、妖忌の問いにはたと足を止め、また首を横に振りました。
「夢を、見ます」
「……夢?」
「この桜が枯れ果てて、花を咲かせることもない、そんな夢を見ます」
 ゆゆの言葉に、妖忌はただ八分咲きの桜を見上げました。人の命を吸って咲くという妖怪桜。この桜に近付いたが故に命を止めた烏、あるいはあの山賊の男。咲かぬ桜は枯れることもありません。なればこの桜が枯れるときとは、即ちこの桜が咲いて散るときでしょうか。
 ――ああ、と妖忌は不意に悟りました。
 あの娘が言った、己の仕えるべき主とは、この桜なのやもしれぬ。この生きながらえた命は、妖怪桜を咲かすための糧となるべきなのか。――そのために己はここへ来たのか。
 妖忌は傍らのゆゆを振り返りました。そしてその顔に、静かに目を細めました。
 己がこの桜の下で死ぬならば、それはきっと、ゆゆの手にかかるのだろう、と妖忌は思いました。世の理を外れた生に終わりを告げるのが、この世の理から外れた娘であるならば、それもまた相応しかろう、と妖忌は思いました。
「ゆゆ」
 妖忌はゆゆの手を離しました。そして軽く背中を押すと、ゆゆはよろめくように桜の幹に寄りかかってこちらを振り返りました。妖忌は薄く笑って、八分咲きの花を見上げました。
 来年、桜の花が咲いたら、と妖忌は考えました。この桜の下で、己の命を吸って満開となる桜を見上げて終わるのも悪くはないかもしれぬ。妖忌はそんな風に考えていたのでした。
「俺を殺すか」
 妖忌は、ゆゆにそう問いかけました。ゆゆは目をまん丸に見開くと、妖忌に倣うように桜の花を見上げました。そうして、妖忌に向き直り、――首を横に振りました。
 意外な心持ちがして、妖忌は瞬きしました。そのときにはもう、ゆゆは桜の下を離れて、妖忌の眼前に再び歩み寄りました。そしてまた、妖忌の胸の傷痕に手を伸ばしました。
「妖忌」
 胸の傷、彼の命を奪うはずであった無数の矢傷の跡は、しかし確かに彼が今もまだここに生きている証でもありました。それをゆゆはひとつひとつ指でなぞるように触れて、そして、しなだれかかるように、その胸元に頬を寄せました。
 突然に寄せられたゆゆの肌の感触と、その冷たい温もりに、妖忌は立ちすくみました。
 女好きであった主であれば、ここで気の利いた言葉のひとつも、娘にかけてやったのやもしれません。しかし妖忌は今まで女を知りませんでした。彼にとって女とは、常に主や、周囲の者たちが不思議にうつつを抜かす得体の知れぬものであり、彼には理解のしがたいものでした。ですから、妖忌はただ戸惑い、しかしゆゆの身体を引き離すことも、その背中に太い腕を回して不器用に抱きしめることさえもできずに、呆然と桜を見上げているのでした。
「……願はくは、花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ」
 ぽつりと、ゆゆがそう呟きました。それはかつてこの桜の下で往生を遂げた歌人の残した歌でありましたが、妖忌にはそれは知り得ません。
「貴方は、死なないでください」
 ゆゆは、ただ妖忌の胸元に頬を寄せたまま、そう囁きました。
 妖忌は、それへ答える言葉を見つけられずに、ただ立ち尽くしていました。
 桜の花が満開となるときに、終わるのが何であるのか、妖忌には解らないままでした。
 桜の向こうに、白い月がぼんやりと浮かぶ夜でありました。


        ◆


 白い月がぼんやりと、雲間に浮かぶ夜。
 ちろちろと揺れる蝋燭の灯りを頼りに、幽々子は書斎で文机に向かっていた。と言っても、今は書き物のためではない。文机に広げられているのは、古びた和綴じの本だった。
 それは、書斎を漁っていて偶然に見つけた本だった。表紙には題もなく、中身も印刷物ではなく、手書きのものを本の形に綴じたものである。誰かの私的な書き物であったようだが、いったい誰の書いたものなのか。不思議に思い、幽々子はそれを先ほどから読みふけっていたのだった。
 流麗な文字は、日記のように、その身辺のことを淡々と綴っていた。季節の移ろい、月見の夜、あるいは食事のこと、読んだ書物のこと――。しかし日記と呼ぶには、書き手の情感が全く透けて見えないことが、幽々子には不思議であった。随筆のような筆致に見えて、その実、文字は書き手の想いを何ひとつ語ってはいない。稚拙な小説の、何の効果ももたらさない情景描写にも似ていた。書き手が敢えて、己の心情を書き落としている――そのようにも思える。
 幽々子は訝しむ。己の心情をいっさい記録せぬ日記や随筆に、いったい何の意味があるというのか。そんな疑念を覚えながら読み進めていた幽々子は、しかしやがて、その日記に綴られたものに心当たりがあることに思い至った。
 風景の描写が、幽々子がふだん見ている白玉楼からの冥界の景色に酷似しているのだ。それに気づいたのは、春の描写に至ってのことだ。爛漫と咲き乱れる無数の桜の中、一輪のみ花を咲かせることのない桜がある。――それは、かつて幽々子が咲かせようとして果たせなかった、あの西行妖のことではないか。
 だが、と幽々子は再び首をひねる。これを書いた者が白玉楼の住人であるとしても、幽々子にこんなものを書いた覚えはない。字は確かにどこか自分のものに似ているが、自分ならもう少し情感を込めて上手く書くだろう、という思いはあった。これでも曲がりなりにも作家のはしくれである。
 しかし、妖夢でもあり得ないだろう。日付はないが、本の古さからいって、これは妖夢の生まれる前に書かれたものに違いない。――だとすれば、
「……幽々子様? まだ起きていらっしゃったのですか?」
 襖の開く音と、かけられた声に、幽々子の思考は中断させられた。小さく息を吐いて振り返る。襖の間からのぞき込むように、妖夢がこちらを見やっていた。気がつけば、ずいぶん遅い時間まで読みふけっていたらしい。
「あら、妖夢こそこんな時間にどうしたの~?」
「いえ、私はお手洗いに――」
 妖夢がそう言いかけて顔を横に向ける。その瞬間、ぼんやりと灯りに浮かんだ妖夢の顔に、幽々子は思わず吹き出した。扇子に口元を隠しても、笑いは堪えきれない。
「幽々子様?」
 妖夢は何も気付いていない様子で、きょとんと目をしばたたかせた。そういうところが相変わらず、粗忽というか未熟者である。
「妖夢、顔」
「顔?」
 頬に触れながら、妖夢は首を傾げる。
 ――その頬には、おそらく書き物の上で眠ってしまったのだろう、文字の跡がはっきりと残っているのだが、妖夢は相変わらず気付かない。
 幽々子は笑いを堪えながら、手鏡を妖夢に差し出す。それをのぞき込んで、ようやく自分の顔の惨状を悟ったか、「うあ」と妖夢は変な悲鳴をあげた。
「顔、洗ってらっしゃい」
「……そうします」
 がくりとうなだれ、妖夢は頷く。
「幽々子様も、あまり遅くなりすぎないうちにお休みになってくださいね」
 そう言い添えて、妖夢は踵を返して襖を開く。――その隙だらけの背中に、ふと悪戯心が沸き上がった。人が真面目な考えごとをしていたときに、笑わせてくれた意趣返しでもある。
 幽々子はふっと蝋燭の火を吹き消した。灯りが消え、書斎が闇に包まれる。亡霊だから夜目は効く。突然灯りが消えたことに、襖を閉めようとしていた妖夢が足を止める。幽々子はその首筋にそっと手を伸ばし、無防備なうなじを撫で上げて、耳元で囁いた。
「う~ら~め~し~や~」
「ひゃああああああああっ!?」
 情けない悲鳴を上げて、妖夢はその場に尻餅をつく。その姿に苦笑をこぼしながら、幽々子はマッチを擦って再び蝋燭に灯りをともした。スカートの裾を握りしめて、妖夢は座り込んだまま目を白黒させてこちらを見上げていた。
「隙が多すぎるわよ~。まだまだ未熟、ね~」
「ゆっ、幽々子様――」
 笑った幽々子に、妖夢は真っ赤になって抗議の声をあげようとしたが、すぐにその気勢はしぼんだ。冥界に暮らしているのにお化けが苦手という、この従者の性質に幽々子は苦笑を漏らす。妖夢自身も苦手であることは気にしているようなので、驚かせて楽しむ分はいいけれど、これ以上つついたら泣かせてしまうだろう。
「し、失礼します」
 妖夢は取り繕うように立ち上がって一礼するが、全く取り繕えていない。というか顔の変な模様もそのままなので、生真面目な顔を作ろうとするほど間抜けである。そんな姿に笑みをかみ殺しながら、幽々子は頷く。
「はいはい。……背後には気をつけないとだめよ~?」
 幽々子のそんな言葉を聞いてか聞かずか、妖夢は足早に書斎を辞していった。その背中を見送って、幽々子は文机に開きっぱなしになっていたその本を再び見下ろす。
 ――妖忌は、自分が背後に近付くと、すぐに気付いて振り返った。
 妖忌はいつだってそうだった。自分が近付くと、たとえ死角からでもすぐに振り返った。いつ、幽々子がどこにいても妖忌は気付いてくれたし、――幽々子に対しても、隙を決して見せようとはしなかった。
 今、自分が妖夢にしたように、その身体に触れさせてくれることなんて――。
「……妖、忌」
 幽々子が亡霊になってから、既に千年近くが経っている。その間、妖忌はずっと従者として白玉楼にいたはずだった。しかし――それだけの時間を共に過ごして、一度も妖忌の身体に触れたことが無い、なんてことがあり得るのだろうか?
 あり得ない、と思う。しかし、妖忌に触れた記憶が、幽々子には無い。
 いつだって、妖忌は従者として忠実に自分に仕えながら、確かな距離をそこに保っていた。ほんの僅かの、しかしあまりにも絶対的な、手を伸ばしても届かない距離。
 その距離は、主と従者という一線を保つために妖忌が定めたものだったのだろうか。
 だが、既に老境だった妖忌が、敢えてそのような――。
 考えても答えは出ない。幽々子はぱらぱらと、その古い本をめくった。終わりのページにたどり着いて、本を閉じようとし――そこに記された文字に、目が留まった。
「……え?」
 瞬いた。目をこすった。だが、そこに書かれていた文字は変わらなかった。
 ――西行寺幽々子。その名前が、署名のように記されていた。
「私……?」
 震える手で、幽々子は本をもう一度めくった。確かに字は自分のものに似ている。だが、そこに記されている文字に、文章に、幽々子は全く覚えがなかった。
 これは、昔の自分の日記なのか? だが――いつの?
 日付は無い。何年前の日記なのか、文章からは全く判然としない。本の古さからして数百年は前のものだろう。……数百年前。その頃の自分のこと。幽々子は考える。思い出そうとする。そして、愕然と暗い天井を仰いだ。
 ――思い出せない。自分の記憶が何年前のものから存在するのかが解らない。
 代わり映えのしない、白玉楼での暮らし。百年、二百年と、冥界は何も変わらず、歳をとらぬ幽々子も幽霊たちも、何も変わらずに続いてきた。まるで時が止まったかのように。
 いや、何事も無かったはずはない。そう、妖夢が生まれたこと。妖忌の孫娘として、妖夢がこの白玉楼に生を受けたのは――。
 それはいつだ? 妖夢が生まれたのはいつだった?
「え? あれ? ……え?」
 混乱する。思考が乱れて、自分が何を理解しているのか、理解できていないのか、思い出せないのか、忘れているのか――解らない。解らない。解らない。
 妖夢が生まれたのは何年前だった? あの子は何年前からここにいる?
 妖忌は? いや――いや。待て。
 そもそも、妖夢の両親はいったい誰だ?
 あの子は妖忌の孫娘だ。そうだ。そのはずだ。――ならば、妖忌の子があの子の親のはずだ。その、妖忌の子はどこにいる? いや、そもそも妖忌に子供がいたのか? いたとしたら、なぜ今白玉楼にいない? 妖夢はいったい、誰と誰の子供だった?
「わたし、は」
 足下が崩れていくような感覚に襲われて、幽々子は呻いた。自分は何を忘れている? いや、自分はいったい、何を――どれほどのことを覚えているのだ?
 亡霊となって千年近く。ずっとこの白玉楼で代わり映えのしない生活を続けてきた。それはただの事実であって、思い出すまでも無いことのはずだった。だから思い出そうともしなかった。昔のことなんて考えようともしなかった。
 自分は、忘れていることすらも忘れていた――?
 ふらりと、視界が傾いだ。倒れ込みそうになり、しかし踏ん張ることもできず、幽々子はそのまま身体を傾けて――、
「――思い出しては駄目よ、幽々子」
 聞き慣れた声とともに、どこかから伸ばされた手が、幽々子の身体を支えた。
 振り返ると、そこにはひどく深刻な顔でこちらを見つめる紫の姿があった。
「ゆか、り」
「忘れなさい。今貴方が考えていたことを全て」
 紫はその指を、幽々子の額に伸ばした。冷たい紫の手。幽々子は目を閉じた。
 暗闇が、安寧のように、幽々子の意識をその底深くへと引きずり込んでいく。
「忘れなさい、幽々子。何もかも。貴方は何も思い出さなくていいの。貴方は貴方のままでいなさい。……それが、彼の願いだから」
 子守歌のようなその声を聞きながら、幽々子の意識は――闇に落ちた。


        ◆


 その日、妖忌は山で鹿を追っていました。妖忌の手製の矢に脚を射られた鹿は、懸命に逃げ続けましたが、沢への崖を転がり落ちて動かなくなりました。それを見届け、妖忌は沢へ降りると、動かなくなった鹿を担ぎ上げます。
 沢から寺まで戻るのは結構な距離を歩かねばなりませんが、何しろあの桜を怖れてか、寺の近くには獣が寄りつきませんので、妖忌は山の奥まで狩りに出なければなりませんでした。
 鹿を担いで沢を下っていると、川べりにうずくまる小さな影が不意に視界に入りました。幼い少年であります。鹿を一度下ろして妖忌が歩み寄ると、少年は泣き出しそうな顔で妖忌を見上げ、怯えたように身を竦めました。
「……足を挫いたのか」
 少年の足首が腫れていることに気付いて、妖忌は眉を寄せました。腹を空かせた獣に見つかっていれば、幼い子供などひとたまりもなかったでしょうに、少年は運が良かったと言うべきでしょう。
「何故こんなところに一人でいる」
 妖忌が問うと、少年は涙目で傍らに置かれたかごを見やりました。中には山菜が摘まれています。山菜を採りに来て親とはぐれ迷ったのでしょう。
「麓の里の子か。立てるか」
 捨て置くわけにもいきませんので、妖忌は少年に手をさしのべました。少年はこわごわと、妖忌の手を取って立ち上がります。が、すぐに痛みに顔をしかめて呻き声をあげました。
「川でしばらく冷やせ。さすれば多少は痛みも引く」
 川の流れに少年の足を浸させて、妖忌は鹿を見やりました。少年が歩けるのなら良いのですが、歩けないとなると鹿と少年を一緒に負ぶっては行けません。そのときは仕方ありませんから、鹿を置いていくしかないでしょう。
「……逃げずとも良い。山賊ではないし、お前をさらいも殺しもせん」
 少年が立ち上がろうとしていたのに気付いて、妖忌は息を吐きながらそう言いました。少年は驚いたようにこちらを振り向いて、「……本当?」と問いました。その目には既に涙はありません。
「本当だ」
 妖忌は少年に目を細めてそう言いました。少年はそれでようやく緊張を解いたようでした。妖忌は懐から、干し肉を取り出して少年に差し出しました。
「食え」
 少年は干し肉と妖忌の顔を見比べて、奪い取るようにそれを掴むと、貪るようにかじりつきました。元気で結構なことだ、と妖忌はその場に腰を下ろして、川に浸された少年の足を見やりました。
「あんた、ひょっとしてあの寺の妖怪?」
 少年が、妖忌に問いかけました。その顔には怯えよりも、どこか好奇心が勝っているようでした。子供らしいその顔と、ぶしつけに「妖怪」と妖忌を呼ぶ恐れ知らずに、妖忌は思わず苦笑しました。
「妖怪か。まあ、似たようなものだ」
「もっと熊みたいな化け物かと思ってた」
「……俺は里で何と噂されているのだ」
 妖忌が眉を寄せると、少年は何がおかしいのかけたけたと笑いました。
「ほんとに、あの山賊どもをあんたがやっつけたの? ひとりで?」
「まあな」
「おっちゃん、すげえや!」
 少年は目を輝かせました。その無邪気な顔に、妖忌は何と答えたものか、と眉を寄せました。確かに、里を襲っていた山賊を退治したと言えば英雄のようにも聞こえましょうが、少年がこちらに向ける無邪気な笑みは、相手を殺す血生臭さを知らぬ者のそれでしかありません。
「人を殺すのに長けることが立派とは限らぬ」
「うえ?」
「殺さずとも、守るべきものを救える者の方が、よほど上等だ」
 妖忌の言葉の意味は、少年には解らないようで、きょとんと少年は首を傾げました。己とてそれを知るにあまりに多くの血を流しすぎた、と妖忌は微かに自嘲します。
 あの主、源義経と出会うまで、妖忌――武蔵坊の力はただどこまでも己のためのものでしかなく、その価値を疑いもしませんでした。主と出会い、守るべきものを持って、彼は初めてその力を振るう意味を知りました。しかし既に主も亡く、彼だけが生き延びてしまった今は、やはりその力も、武蔵坊の名とともに、もはや意味が無くなっていたのでした。
「足はどうだ。歩けるか」
「あ、当たり前だ!」
 少年は虚勢を張るように水から足を引き上げて立ち上がりますが、すぐに痛みに顔をしかめてうずくまりました。鹿は諦めるしかあるまい、と妖忌は息を吐いて、少年の身体を持ち上げると、その背中に負ぶいました。
「な、なんだよ、歩けるよ」
「無理をすればかえって足に悪い。歩けなくなるぞ」
 妖忌の言葉に、少年は黙り込みます。妖忌は少年の持っていた山菜の籠を拾うと、「行くぞ」と言って歩き始めました。
「おっちゃん、あの鹿はいいの? 食われちゃうよ?」
「ならば、お前が代わりに熊に食われるか?」
 妖忌が置いていった鹿を振り返って言った少年に、妖忌はそう答えました。少年は「うひゃあ」と悲鳴をあげて妖忌にしがみつきます。
 沢を下るとやがて道に出ました。ここを下れば寺があり、里へと続いています。少年を負ぶったまま、妖忌は黙々と歩き続けました。
「父ちゃんの言ったとおりだ」
「ん?」
「みんな、寺にいるのはあの妖怪桜に誘われた妖怪だって怖がってるけど、あれは妖怪なんかじゃないって、父ちゃん言ってた」
 妖忌の背中で、少年はそう言いました。自分をそう評する里の者の心当たりは、妖忌にはひとりしかいません。妖忌の畑仕事をたまに手伝ってくれるあの青年でしょう。
「お前はあの男の息子か」
「おっちゃん、あんた妖怪じゃないよな? 父ちゃんとって食ったり、あの桜で父ちゃん殺したりしないよな?」
「こっちも世話になっている身だ。そんな真似はせん」
「だよな!」
 少年は嬉しそうに、妖忌の首にしがみつきました。
「母ちゃんがうるさいんだ。もうあんな寺に近付くなって父ちゃんにさ」
「……いや、それはお前の母親が正しい」
「なんでだよ?」
 不満げに問う少年に、妖忌は目を細めます。
 あの桜が死を誘うことは厳然たる事実ですし、自分が人の理の中で生きてゆかれぬ身であることは妖忌は既に重々承知しています。――少しあの青年と関わりすぎたかもしれぬ、と妖忌は思いました。
「妖怪桜のことはお前も知っているだろう」
「……あれ、ほんとに近付くと死ぬの?」
「ああ、死ぬ」
「じゃあなんでおっちゃんは平気なのさ?」
「俺もあの桜と同類だからだ。だが、お前やお前の父はそうではない。死を恐れるのは当然だ。寺には近付かぬ方が良い」
「……里の大人と同じこと言うなよ、おっちゃん」
 不満げに少年は唸りますが、やはりそれは事実なのです。あの桜の力、ゆゆの力で余計な死人を増やしたくはない、と妖忌も思いました。
「お前の母親は、お前や父親に無事でいてほしいだけだ。今だって心配しているだろう。その気持ちは汲んでやれ」
 自分が妖忌より前に熊か何かに見つかっていれば死んでいただろうということは、少年も解っているのでしょう。妖忌の言葉には何も言わず、ただその首にしがみつきました。
 やがて寺と、八分咲きの桜が見えてきました。寺の前まで来たところで、「ここでいいよ」と少年が言いました。妖忌が背中から下ろすと、少年は挫いた方の足をひょこひょことさせながら、妖忌に向き直って頭を下げます。
「ありがと、おっちゃん」
「礼には及ばん」
「母ちゃんや長に言っておくよ。寺のおっちゃんに助けてもらったって」
「そんなことはどうでも良い。両親が心配している、早く里に戻れ」
 半ば追い払うように妖忌が手を振ると、少年はまた不満げに口を尖らせましたが、陽も傾いておりますので、片足をかばいながら里の方へ歩き始めました。
「――おっちゃん!」
 しかし、途中で振り返って、少年は声をあげました。妖忌が足を止めると、少年は手を振りながら、どこか懇願するように叫びました。
「また里に悪い奴が来たら、おっちゃん、やっつけてくれるのかい?」
 妖忌は口ごもりました。もともと、あの山賊どもを斬ったのは決して里のためなどではなく、ただ己に――あるいはゆゆに危害を及ぼすやもしれぬ者を排除しただけのことだったからです。もちろん、あの青年や、寺に送られる寄進物という形での義理は里にありますが、別に里から用心棒を頼まれている身でもありません。
 ですが、こちらを見つめる真剣な少年の瞳に、妖忌は目を細めました。
 守る主を失った己の刃は、何を守れるだろうか、と妖忌はひとつ唸りました。
「……相手によるがな。お前の家族に危険が及ぶようなら、考えておこう」
「本当か? 約束だぞ、おっちゃん!」
 少年は大きく手を振って、片足をかばいながらまた里へ向かっていきました。
 その背中を見送って、陽の傾いた空を仰ぎ、妖忌は目を閉じます。
 不思議なものだな、と妖忌は思いました。
 主を失ってからこの場所にたどり着くまで、妖忌は他者との関わりを可能な限り避けてきました。自分が生きているのか死んでいるのかも解らなかった妖忌には、守るべきものも、守りたいと思うものもありませんでした。
 それが今や、住む家を持ち、同じ屋根の下にゆゆと老婆が暮らし、畑を作り、獣を狩り、そして里の者と関わり合って生きているのです。
 かつて主と、潜伏生活を続けていた頃のことを、妖忌は思いました。
 平氏を滅ぼし父の宿願を果たす、という使命に燃えながら、力も機会も無くくすぶっていた若い頃の義経のそばで、己が義経を守るために、そして義経がその宿願を果たすまで自身を守れるように、妖忌――弁慶は己の剣術の全てを義経に教えていったのでした。
 今の暮らしは、あるいはその頃に似ているやもしれません。
 少なくとも、己に守るものがある、という一点においては、確かに。
 しかし――と妖忌はまた、過ぎ去ったものを思いました。
 その宿願を果たし終えた主は、それだけで歴史の中での役割を終えたとでも言うかのように、彼の前から失われていきました。
 それが運命であったとするならば、今のこの暮らしもまた――。
 考えても詮無いことではありました。少なくとも今のところ、山に再び山賊が住み着くこともなく、寺も里も平穏が続いておりました。今はそれだけで十分であると、妖忌は思いました。
「妖忌」
 不意に名を呼ばれ、妖忌は目を開けました。境内から、ゆゆが姿を現していました。
「ゆゆ」
「……おかえりなさい」
 ゆゆはそう言って、妖忌に向けた顔をほんの少し歪ませました。その微細な表情の変化が、ゆゆの微笑であることを、妖忌は理解し始めていました。
「ああ――」
 と、そこで妖忌は、自分が獲物を置いてきてしまったことを思い出しました。
 あの鹿は今頃、熊か狼かに食い荒らされているでしょう。
 妖忌はゆゆの元に歩み寄ると、その白い微笑みを見下ろして苦笑しました。
「すまぬ、今日は獲物を仕留め損ねた。明日また狩りに出よう」
 妖忌がそう詫びると、ゆゆはゆっくりと首を振って、また妖忌に手を伸ばしました。
 ゆゆはどうしてか、ことあるごとに、妖忌の胸元の傷跡に触れたがりました。妖忌もはじめは触れられることに戸惑いましたが、ゆゆはただ冷たい指先で傷跡をなぞるだけで、それ以上何をするわけでもありませんので、勝手にさせておくことにしました。
「……もうすぐ陽が暮れる。そのような格好のままでは風邪を引くぞ」
 ゆゆの肩を軽く押してその身体を離し、妖忌はそう言って境内の方に歩き始めました。後ろから、ゆゆがついてくる足音がします。
 その足音を聞きながら、妖忌は境内に咲く八分咲きの桜を見上げました。
 ――終わりがくるとすれば、この桜が満開になるときだろう。
 何故そう思ったのか、妖忌にも理由は解りません。
 ただ、そんな予感が胸の奥に燻っていたのでした。

 翌日、青年が寺を訪れて、妖忌に深々と頭を下げました。
「息子がご迷惑をおかけしました」
「気にするほどのことではない」
 種を蒔いてから二月、畑の大根は青々とした葉を広げていました。来年の春に備え、その傍らに畑を広げるために妖忌は鍬を振るっているところでした。
「お主には世話になりっぱなしだ。ようやく少しぐらい恩を返せただろうか」
「とんでもない。――ありがとうございました、本当に」
 もう一度頭を下げ、青年はそれから畑の大根を見やりました。妖忌が手を止めて振り返ると、青年はこちらを振り向き、「そろそろ収穫しても良い頃合いでしょう」と笑いました。
「なかなか立派に育ちましたね」
「そうか」
「ここは良い畑になるでしょう」
 青年の笑みに、妖忌は僅かに表情を緩めました。気付けば鍬もすっかり手になじみ、土と汗にまみれることにも慣れていました。
 ――自分が衣川で生き延びたのは、あるいはこんな暮らしをして生きても良いということだったのかもしれぬ、と妖忌は思いました。
 鍬を振るい、畑を耕し、作物を育て、命を育んで生きる。
 戦場で刃を振るい、鮮血にまみれて戦い続ける生き方は、主を失った彼には、もう必要のないものとなっていたのかもしれません。
 そうして、侍でも従者でもなく、ただの人間として死ぬことが、自分に許されたのかもしれぬ、と妖忌は己の手を見下ろして目を細めました。
 ――と、また草むらが音をたて、ゆゆが畑に姿を現しました。青年の方はまだ警戒心の混じった視線をゆゆに向けていましたが、妖忌は構わず、ゆゆに手招きします。
「大根が収穫できるぞ、ゆゆ。お前の植えた大根だ」
 妖忌の言葉に、ゆゆは目を丸くし、足下に繁る大根の葉を見下ろしました。
 その姿に目を細めていると――不意に青年がこちらに歩み寄り、小声でささやきました。
「……あの子も、笑うのですね」
「笑ったか、ゆゆは」
「ええ……確かに」
 妖忌は、大根の葉に指先で触れるゆゆの姿を見下ろしました。
 青年にも解るほど、ゆゆの変化は明らかなものとなっているのかもしれません。
 そうすれば、あるいは――あるいは、里からゆゆが怖れられることもなく、この寺で平穏に、ゆゆと暮らし続けられるのかもしれぬ、という根拠も無い想像を、妖忌は浮かべました。
 もちろん、あの桜がある以上は、それも難しいのでしょうが――。
「貴方にとって、あの子は何なのです?」
「……ゆゆがか?」
 ふと青年に問われ、妖忌は唸って首を傾げました。
 己にとって、ゆゆという少女が何であるのかなど、考えたこともありませんでした。二回りも歳の離れているであろうこの少女は、娘のようなものと考えるのが良いのかもしれませんが、妖忌はこれまでの生涯に妻も子も持ちませんでしたので、妻子を持つという感覚が未だに解らないでいたのでした。
「何なのであろうな」
 ため息のように妖忌が言うと、青年はどこか意味ありげに笑いました。
「当人にこそ、解らぬものかもしれませんね」
「――お主にはどのように見える?」
「さあ――親子にも、あるいは歳の離れた夫婦にも」
 妖忌はゆゆを見つめました。ゆゆがその視線に気付いたか、顔をあげて微笑みました。
 ぎこちなく妖忌は表情を引きつらせて、口の中だけで「めおと」と呟きました。
 これまでの生涯、妖忌は女を愛したことがありませんでした。自分がゆゆに向ける感情が男女の愛情なのかも、ですから妖忌には解りません。
 ただ、確かなことがあるとすれば。
 ――自分は、ここでずっとゆゆと暮らしていられれば良いと思っている。
 それだけは、どうしようもなく妖忌の中では確かなことになっていたのでした。
「収穫しましょうか」
 青年が言い、「あ、ああ」と妖忌は首を振ってその後に続きました。詮無い思考は途切れ、何か救われたような感覚で、妖忌は畝の前にしゃがみ込みました。
「これなど良い具合でしょう」
 青年が指したのは、ゆゆが蒔いた種から芽吹いたものでした。ゆゆが軽く目を見開きます。妖忌は小さく苦笑して、その葉に手をかけました。
 ゆっくりと引き抜くと、土の中から白い大根が姿を現します。途中で少し曲がっており、形はいびつでしたが、立派に太った大根でした。
 青年が満足げに微笑み、妖忌はその土を軽く払うと、目を丸くしているゆゆの前にその大根を差し出しました。
「ゆゆ。お前が蒔いた種から育った大根だ」
 まだ土に汚れたそれに、ゆゆはおっかなびっくり、その白い指で触れました。
 土の匂いが満ちる中で、不思議そうな顔をして、ゆゆは大根をしきりに撫でておりました。
 ――死を誘う桜とともにあるゆゆも、その手で命を育むことができるのだ。
 それは、これから妖忌がゆゆとともに、ここで生きていくことを許す証のようでした。

 やがて秋も終わり、冬が訪れました。
 山の頂には雪が積もり、麓にもうっすらと雪が積もる季節となっても、桜は相変わらず八分咲きのまま、時を止めたように冷たい風に花を揺らしていました。
 幸い、寄進物を冬に備えて備蓄してありましたし、畑で取れた大根や妖忌が飼った獣の肉も保存してありましたので、食料の心配はさほどありませんでした。ただ、畑は既に広げ終えて春を待つばかりでしたし、獣を狩ろうにも雪山の深くまで踏み入るのは危険でしたから、妖忌はいささか手持ちぶさたな日々を過ごしていました。
 天気の良い日などは境内で太刀を振るって鍛錬をしておりましたが、それは身に染みついた習慣のようなもので、ふとその合間に、妖忌は己が何のために太刀を振るっているのかと疑問に思いました。今はもう、自分の手には太刀よりも鍬がなじんでいるような気さえしました。しかし、獣を狩るには太刀は必要でしたので、そのためであると己に言い聞かせて妖忌は鍛錬を続けましたが、かつては太刀を振るうことに疑問など覚えたこともなかった己の変化を、妖忌は自覚せざるを得なかったのでした。
 変化といえば、ゆゆの方も、あの桜の下よりも妖忌のそばに居ようとする時間が長くなっておりました。この寒空の下、夏や秋のように桜の下にいては凍えてしまうのはもちろんですが、老婆によれば前の冬はそれでも、日中は専ら桜の下にいたそうでした。それが今は、妖忌が庵で囲炉裏に当たっていれば、ゆゆはその隣に腰を下ろし、妖忌が外で太刀を振るっていれば、その近くで妖忌の姿を見つめているのでした。
 老婆はそのようなゆゆの姿を微笑ましく見つめておりました。妖忌は困惑しながらも、ゆゆの好きにさせておくことにしました。――実際のところ、妖忌の方も、ゆゆがそうして寄り添ってくることを、心地よく思うようになっていたからでした。
 秋頃に青年に言われた、夫婦という言葉を妖忌は思いました。己はゆゆを妻としたいのだろうか、と妖忌は自身に問いかけますが、答えは出ませんでした。瞼には、雪の吉野山で愛した女と別れた主の姿が浮かびます。主に妻を娶らぬかとよくからかわれたことを思い、ふと妖忌は郷愁に浸るのでした。
 そして同時に、己の全てであったかつての主のことが、もはや追憶の中のものでしかなくなっていることと――今の己の中心にある少女の存在について、また思わざるを得ないのでした。
 かつての主、義経を失ったとき、彼は己の半身を失いました。生涯をかけて仕えるはずだった主を失ってなお死にそびれた己の生を、疎ましくさえ思っておりました。何も求めず、ただ生きているから生きるだけの放浪を続けて、たどり着いたこの寺で、彼は再び未来を考えることを得たのでした。
 桜が満開にならねば良い、と妖忌は考えるようになりました。あの桜が満開になってしまえば、満開の桜が散り始めるように、己とゆゆの暮らしも終わり始める気がしたのです。彼はそれを怖れました。あの桜が八分咲きのまま、永遠に咲ききらなければ、己はこの場所に居続けられるという、根拠の無い確証を、彼は抱いておりました。
 桜はただ、冬の冷たい風にあっても、八分咲きのままに揺れておりました。

 妖忌がそれを見つけたのは、年の暮れが迫ったある日のことでした。
 その日の朝、ゆゆが桜を見上げながらどこか不安げな顔をしておりました。どうかしたのか、と妖忌が問うと、「桜がざわめいています」とゆゆは答えました。しかし妖忌には、桜はいつもと変わらず、八分咲きのまま揺れているようにしか見えませんでした。
 朝食の後、妖忌は野ウサギを狩りに山の方へ足を向けておりました。保存していた干し肉ばかりで味気ない食卓が続いておりましたので、この季節でも捕らえやすいウサギの肉で少し食卓に彩りを加え、ゆゆを喜ばせたいと思ってのことでした。
 しかし、山道を少しばかり登ったところで、道ばたの草むらに転がっていたそれを見つけて、妖忌は顔をしかめました。それは鳥のたかる人間の死体でありました。まだ原型をとどめておりましたので、死んだばかりであるのは明らかでした。
 屍肉をついばむ鳥を追い払って死体を見やると、既に顔は鳥に傷つけられ無残な姿になっておりましたが、どうやらまだ若い女のようでした。ここからさらに険しい山道となるこの場所に、なぜ女の死体がひとつきりで転がっているのか、妖忌は訝しみました。
 さらに死体を改めると、死因と思わしき傷跡が脇腹にあるのに妖忌は気付き、その傷口に眉を寄せました。明らかにそれは、獣に襲われた傷跡ではありません。短刀か何かで刺されたような傷跡だったのです。
 この山に潜んでいた山賊は、妖忌が斬ったはずでした。別の山賊が住み着いたのか、あるいは妖忌の知らぬ生き残りが居たのか、いずれにしても妖忌の手による死体ではない以上、この山にいる何者かがこの女を殺したとみるべきでしょう。
 追い払った鳥たちは、上空をぐるぐると旋回しておりました。野ざらしも忍びなくは思いましたが、さりとてこの場ではどうすることもできません。妖忌はため息をついて、死体から離れました。それを待ち構えていたかのように、鳥たちがまた死体に群がります。
 野ウサギどころではないな、と妖忌が顔をしかめたところで――不意に視界の隅、森の木陰に、さっと動く影を認めました。ウサギにしては大きな影です。妖忌は警戒心を強めて、その影の方へじりじりと歩み寄りました。
 妖忌に気付いたか、影は逃げるように山の奥の方へと駆け上っていきます。それ以上追っても仕方ありませんので妖忌は見送りましたが、それはいささか小柄な人影であったように、妖忌には見えました。
 女の死体と、逃げていった影。ふたつの事象をいかに扱うべきか考えながら、妖忌は一度寺へと戻りました。すると、境内の手前で老婆が何者かと話をしておりました。見やれば、それは血相を変えたあの青年であります。嫌な予感が妖忌の背筋を走り抜けました。
「どうした。何があった」
 妖忌が歩み寄って尋ねると、青年は顔を上げて、悲鳴のように呻きました。
「妻がいないのです。今朝に息子を探しに行ったきり――」
 青年によれば、今朝方彼の息子の姿が見当たらなくなり、夫婦で探していたとのことです。幸い息子の方は里のはずれですぐに見つかったのですが、青年が息子を連れて家へ戻ると、今度は妻の姿が見当たらなくなっていたというのでした。
 妖忌は顔をしかめました。あの女の死体が脳裏をよぎります。その表情の変化を、青年は見逃してはくれませんでした。
「何かあったのですか」
 青年に問われ、妖忌は口ごもりました。しかし、隠してもこの山道を上って探せばすぐに見つかることです。観念し、妖忌は「女の死体があった」と答えました。青年の顔が、雪よりも蒼白に染まりました。
「――どこです」
「この上だ。道ばたの草むらに――」
 妖忌の答えを最後まで聞かず、青年は走り出していました。妖忌は舌打ちして、青年の後を追いかけました。青年は足をもつれさせながら坂を駆け上がっていきます。そして、妖忌が追いつくよりも早く、その場所へとたどり着いてしまいました。
 死体にたかる鳥の中に、青年は足を進め、鳥たちを追い払い――そして、何事かを叫びました。それは人間の声とは思われぬほどの慟哭で、妖忌はその場に立ちすくみました。
 紛れもなく、その死体は青年の妻であったのでした。
 鳥に食い荒らされて無残な姿と化した女の死体に取りすがって、青年は泣き崩れました。
 その姿をあざ笑うように、屍肉をついばむ鳥たちが上空を旋回していました。
 妖忌はそれを、唇を噛んで見つめているしかありませんでした。

 里の者たちによって、女の死体は村へと運ばれていきました。
 役人が呼ばれ、検非違使が現場を改めているのを、妖忌は境内から遠目に見つめておりました。青年はひどくやつれた顔で役人の相手をしておりました。
 それから、女の死体が運ばれていくのを、無表情に見つめている少年がいました。いつか妖忌が助けた、あの青年の息子でありました。
『また里に悪い奴が来たら、おっちゃん、やっつけてくれるのかい?』
 ふと、そんな声が妖忌の耳に甦り、妖忌は少年の姿から目をそらしました。
『……相手によるがな。お前の家族に危険が及ぶようなら、考えておこう』
『本当か? 約束だぞ、おっちゃん!』
 そう答えたのは、紛れもなく妖忌自身であったからです。
 どうしようもないことだったかもしれません。しかし、山賊の残党を妖忌が見逃していたが故に青年の妻が殺されたのであれば、山賊を全員斬ったと言った妖忌の責でもありました。
 里ではおそらく、女を殺したのが妖忌ではないかと疑われているでしょう。ただでさえ元から怖れられている上に、里に危害を及ぼすと見なされれば、妖忌にも――あるいはゆゆたちにも、居場所は無くなるかもしれません。
 せめて、山賊の残党は己の手で始末せねばならぬ。妖忌は、そう決意しました。
「浪人とやらはいずこか」
 と、境内に上がり込む影がありました。検非違使庁の役人です。妖忌がのそりと振り向くと、役人はその体格と眼光にひるみましたが、咳払いをして妖忌へと向き直りました。
「検非違使庁の者だ。死骸を見つけたのはお主か」
「……いかにも」
「この寺に住んでいる浪人だそうだが、名はなんとする。どこから流れてきた」
 妖忌は口ごもりました。おそらく己はとうの昔に死んだものとされているはずです。正直に答えたところで、一笑に付されるのが関の山でしょうし、かつての名は既に捨てた身の上です。今の妖忌は、この寺に暮らすただの浪人、妖忌でしかありません。
「言えぬか。殺したのはお主か」
「違う。夏頃までこの山に巣くっていた山賊の、残党だ。それらしき影を見た」
「ほう? 確かか」
 役人の目には明らかな疑念が浮かんでおりました。――里の者が、女殺しの罪を己に被せるような讒言をしたのかもしれぬ、と妖忌は考えました。それも仕方の無いことかもしれません。取りなしてくれそうな青年は、今は妻を失ったばかりで憔悴しきっています。
「確かだ。――数日中に俺が捕らえてそちらへ引き渡そう」
「だから今は見逃せと? お主が逃げぬという保証がどこにある」
「私が、保証いたしましょう」
 声がかかりました。妖忌が振り返ると、そこに老婆が佇んでおりました。老婆は毅然とした顔で役人に向き直ります。役人は鼻を鳴らしました。
「何者だ」
「この者の妻の、母にございます。この者は殺してなどおりませぬ」
 老婆の言葉に、妖忌は思わず目を見開きました。老婆は妖忌へ一度微笑みかけると、役人に向き直り、両の手を差し出しました。
「さあ、いずこへなりと。この者が逃げましたなら、その罪は私が被りましょう」
 凛とした老婆の言葉に役人は鼻白み、妖忌をにらみつけました。
「お前を捕らえたところで意味は無かろう。――お主の妻とやらはあれか」
 役人は気味の悪そうな顔をして、桜の下からこちらを見つめるゆゆを見やりました。
「ゆゆには手を出すな」
 妖忌は思わずそう口にしていました。役人は、はっ、と鼻で笑います。
「誰が妖怪桜の娘などに手を出すか。――明日また来る。そのときまでに山賊の残党とやらを捕らえていなければお主を連行する。逃げたらば――」
「言われずとも解っている。逃げも隠れもせぬ」
 妖忌の答えに、役人はもう一度あざけるように鼻を鳴らして、足早に境内を去りました。あの妖怪桜のことは役人も聞き及んでいたのでしょう、早くここから離れたかったのかもしれません。妖忌が深く息を吐き出すと、ゆゆがこちらに小走りに向かってきておりました。
「ようき」
「……大丈夫だ、ゆゆ」
 つとめて穏やかな表情を作り、妖忌はゆゆの頭を撫でました。そして老婆にひとつ頭を下げると、太刀を腰に寺を出ました。心配そうなゆゆの顔に見送られて。
 いえ、もうひとつ彼を見送る視線がありました。
 それは――あの青年の、冷たい無表情でした。
 その視線に妖忌は気付いておりましたが、青年とは目を合わせず、妖忌はうっすらと雪の積もる山の中へと足を踏み入れていきました。

 霜の降りた草を踏みしめながら、妖忌は山を登っていきます。
 妖忌が山賊たちを斬ったのは夏の終わりのことでした。山賊の残党が残って山に潜んでいたとしたら、妖忌が普段狩りをしていたあたりよりもさらに奥深くということになります。
 しかし、と妖忌は考えます。山賊に生き残りが居たとして、冬まで山奥に潜み続けたのはどういう理由があってのことでしょうか。
 ともかく、今日のうちには残党を捕まえなければなりません。今朝、山道の近くで見かけている以上、痕跡はまだ残っているはずでした。普段は人の踏み入れぬ獣道を、立ち枯れの木々をかき分けながら妖忌は深く進んでいきます。
 陽は既に中天を過ぎて傾きつつありました。闇に包まれて探索もままなりませんから、残された時間はほとんどありません。
「……む」
 野ウサギが驚いたように駆けていくのを見送った先に、妖忌は目を細めました。腐葉土の上に、踏み荒らされたような跡が残っています。獣の足跡には見えません。妖忌はその足跡の元に近付くと、周囲に目をこらしました。
 近くの樹に、目印のような傷がありました。明らかに刀でつけた、古い傷です。近くか、と妖忌は目を細め、息を殺して気配を探りました。
 しんと静まりかえる冬の山に、遠く獣の声ばかりが響いています。
 耳を澄ませて、妖忌は音を探りました。獣の足音、鳥の羽音、風の音、それらの中に紛れ込む人の音を逃さぬように、神経を研ぎ澄ませて、さらに斜面を上っていきます。
 ほどなく、木々の合間に軽く開けた場所が見つかりました。その奥には、切り立った面に洞穴が広がっています。ここが山賊のねぐらであったのでしょう。妖忌は太刀に手をかけたまま、洞穴に近付いていきました。――中に、確かに人らしき気配があります。
 妖忌が洞穴の前に立つと、刹那、確かな荒い息づかいが聞こえました。そして次の瞬間、闇の中に鈍くきらめくものがあり、妖忌は太刀を振るいました。固い感触が響き、からん、とはじき飛ばされた短刀が、洞穴の壁にぶつかって音を反響させました。
 闇の中から姿を現した気配は、妖忌の足下にうめき声を上げてうずくまります。
「……子供?」
 それはやせ細った、十をいくつか過ぎたばかりであろう少年でありました。意表をつかれて眉を寄せた妖忌を、少年は見上げて睨み付け、何事かを吠えるように叫びました。
 妖忌は眉間に皺を寄せながら、太刀の束で少年のこめかみを殴りつけました。少年はもんどりうって転がり、昏倒します。
 かつて主と駆け抜けた戦場であれば、年端もいかぬ少年であろうと敵であれば構わず斬り捨てていたでしょう。しかし今は、素手の子供を斬り捨てることは妖忌にはできませんでした。
 昏倒した少年を見下ろし、妖忌は転がった短刀を拾い上げました。あの女を殺したのはこの短刀でしょう。やせた少年の身体は、飢えに苦しんでいたことを物語っていました。
 山賊の残党には違いありません。しかしおそらく、少年は山賊の誰かの子だったのでしょう。
 妖忌によって親たちを殺され、山の中に取り残され、人里に出ることもできず、洞穴で寒さを凌ぎ、山の中で草木の根を囓って飢えを凌いでいたというところでしょうか。それがついにこらえきれなくなり、山道へ出たところであの女と不幸にも鉢合わせたのでしょう。
 妖忌は少年の頬を張って起こしました。意識を取り戻した少年は、ふらつく視界に酔ったように呻いて、妖忌を見上げ、睨みました。
「お前は、ここに居た山賊の子か」
「……おやじたち、俺を、捨てた」
 少年はそう答えました。彼は捨てられたと思い込んでいたのでしょう。妖忌は目を細め、首を横に振りました。
「お前の父親たちは、俺が殺した」
 少年が目を見開き、濁った目で妖忌を見つめました。そして、獣のような叫び声をあげて妖忌に襲いかかろうとしました。妖忌はそれを軽くいなすと、地面に少年を組み伏せました。
「女を殺したな」
 少年の痩せた身体を地面に押さえつけて、妖忌は問います。少年は唸るばかりで答えませんでしたが、あの短刀がここにあり、その姿は妖忌が朝に見かけたものに酷似していましたから、それはただの確認でした。
「罪業は因果、か。――恨むならば恨め。殺すならば、いつでも俺を殺しに来い」
 そう言って、妖忌は少年の首に手刀をたたき込みました。少年はがくりと再び意識を失います。その細い身体を担ぎ上げて、妖忌は短刀をしまうと、山を下り始めました。
 陽は既に山の端にかかり、沈みゆこうとしていました。
 木々の合間から洩れる黄昏に、妖忌は目を細めました。
 ――この子供が女を殺したのは、妖忌が親を殺したがために飢えた結果でしょう。しかし、妖忌がこの子の親を殺したのは、彼らが山賊であり、妖忌を殺そうとしたからでした。山賊たちは略奪に生き、その罪業の上に少年の生があったのだとすれば、全ての発端がどこにあったのかなど、もはや誰にも解りません。
 妖忌が山賊を斬らずとも、あの女は山賊に拐かされ殺されていたかもしれません。しかしそれも仮定に過ぎず、全てはもはや定まってしまった事実でしか無いのでした。
 己の罪業も、いずれは何者かによって裁かれるのであろう、と妖忌は思いました。
 ただ、そのときが来るまでは。
 妖忌は眼下に、あの桜の咲く境内を見下ろしました。
 八分咲きの桜が、そこに揺れています。冬に咲き続ける薄紅の花が。
 ――いずれ訪れるそのときまでは、ゆゆのそばに居たいと、そう願っていました。
 それが叶わぬかもしれぬということを、どこかで悟っていたからかもしれません。
 ただ妖忌は、終わりはまだ先であると、そのときは信じていました。
 ――願わくば花の下にて春死なむ、そのきさらぎの望月のころ。
 今は冬でした。桜の満開となる季節には、まだ遠い頃合いでありました。
 けれども、――桜はやはり、人の世の理を外れたものでしかなかったのでした。
 妖忌や、ゆゆとともに。


        ◆


 夢を見る。
 そこは、普段と変わらぬ白玉楼の縁側。
 幽々子はそこに腰を下ろして、庭にある彼の姿を見つめている。
 虚空に向き合い、刀を構えるその姿。白髪と顎髭、そしていくつもの傷跡の刻まれた、精悍な横顔。それは幽々子にとって、何よりも見慣れた顔。
 魂魄妖忌は、音も無くその長刀を虚空に一閃し、鞘に仕舞う。ひらりと風が吹いて、木の葉が一枚幽々子の元に流れてくる。その木の葉は幽々子の足下に落ちたところで、断ち切られたことを思い出したかのようにふたつに分かれる。
 幽々子が拍手をすると、妖忌はこちらを振り向いて目を細める。
 ひどく優しく、いとおしむような眼差しで、妖忌はこちらを見つめる。
 ――彼がこんな顔を見せたことがあっただろうか?
 幽々子は訝しむ。けれど夢の中の幽々子は、その妖忌の優しい眼差しを当たり前のように、あたたかく受け止めて笑っている。
 妖忌がこちらに歩み寄り、幽々子の隣に腰を下ろす。さらさらと風の流れていく白玉楼の庭を、妖忌と肩を並べて、幽々子は見つめている。
 隣にある妖忌の顔を盗み見れば、彼は瞑想するように目を閉じている。
 その頬に、幽々子はそっと右手を伸ばす。触れようとしたところで、妖忌が目を開いてこちらを振り向く。苦笑して幽々子が手を引っ込めようとすると、
『幽々子』
 妖忌が、その手を掴む。固く厚い手のひらが、幽々子の細い指先を包み込む。
 あたたかな妖忌の手の感触に、幽々子は目を細める。
 ――妖忌が自分を呼び捨てたことを、夢を見ている幽々子はまた訝しむ。
 妖忌はいつだって、自分のことを常に『幽々子様』と呼んでいたはずだったのに。
『妖忌』
 夢の中の幽々子は、空いた左手を妖忌の頬に伸ばす。妖忌はそれは止めようとせず、幽々子の手が妖忌の頬に触れる。そこにある傷跡を、幽々子の指先がなぞる。
 いとおしい、と幽々子は思う。
 それが夢の中の自分の思いなのか、夢を見ている自分の思いなのか、幽々子には咄嗟に判別できない。ただ、目の前の妖忌に対するいとおしさばかりがこみ上げてくる。
 それはまるで、従者へ向けるものではなく。
 愛した者へ向ける、切なる恋慕のような、胸を締め付ける感情。
 幽々子は、妖忌の胸元に顔を埋める。彼の胸元には、そこにも無数の古傷が刻まれ、微かな汗の匂いがする。その傷跡に頬を寄せて、幽々子はまた『妖忌』とささやく。
 妖忌の手が、どこかぎこちなく幽々子の髪を撫でる。指先で梳く。それをたまらなく、幽々子は心地よく感じて、妖忌の胸元で目を閉じる。
 髪を撫でていた妖忌の手が、幽々子の背中に回される。不器用に、けれども精一杯に優しく、幽々子は妖忌に抱きしめられている。その身体のぬくもりを感じて、幽々子は幸福に包まれている。――それが愛情だということを、幽々子は知ってしまっている。
 主と従者では無く、女と男として睦み合う幽々子と妖忌の姿が、白玉楼の庭にある。
 ――ようき。
 幽々子はその名前を、口の中だけで繰り返す。
 妖忌。妖忌。……妖忌。
 呼びかける声は言葉にならない。それは夢を見ている自分の言葉だと幽々子は悟る。
 妖忌。貴方は私を愛していたの?
 私は――貴方を愛していたの?
 問いは言葉にならず、夢の中の幽々子はただ、妖忌の腕に抱かれて目を閉じている。
 解らない。思い出せない。こんな記憶は、幽々子には無いはずだったのに。
 けれども、夢の中の妖忌のぬくもりを、どうしようもなく懐かしく感じている。
 妖忌、と幽々子は言葉にならない呼びかけを繰り返す。
 抱きしめられたぬくもりが、心地よく、あまりに幸福なのに、どうしようもなく悲しい。

 妖忌。貴方は私の――。
 それならばどうして、私はそれさえ忘れているの?
 そして貴方は、どうして私を――私の元を――。

 夢の中の幽々子は目を閉じる。耳に妖忌の心音が聞こえてくる。
 その鼓動に混じって、微かな妖忌の声が聞こえる。
 ――それは、「すまぬ」という謝罪の言葉にも聞こえるけれど。
 その意味を質すこともできずに、夢は闇の底へ沈んでいく。

 夢を見ている。ひどく幸せで、悲しい夢を見ている。
 その残滓も、目覚めてしまえば記憶の底に沈んで、決して甦ることはなかった。


        ◆


 少年を担いで妖忌が寺に戻ったときには、既に陽も暮れておりました。
 妖忌がたどり着くと、老婆はすぐに里へ役人を呼びに向かいました。いつもならば妖忌を出迎えるゆゆは、何が気になるのか、桜の幹に身を寄せて目を閉じていました。妖忌はその姿を横目に見ながら、意識を失ったままの少年を見張っておりました。
 ほどなく、長や青年を伴って、役人が姿を現しました。翌日を待つまでも無く、妖忌が犯人を捕まえてきたことを、役人は明らかに訝しんでいるようでした。
「子供ではないか」
「得物はこれだ。あとはこやつに聞け」
 妖忌の言葉に役人は嘲弄するように鼻を鳴らすと、子供の腕を縛り上げ、そして揺さぶり起こしました。状況を把握しきれていない様子の少年に、役人は検非違使の者であることを告げ、女殺しの件で検非違使庁へ連行すると言って少年を立ち上がらせました。
「そこのお主。――名は何だったか」
「妖忌だ」
「お主も来い。聞きたいことはいくらでもある」
 役人はあくまで傲岸にそう言い放ちました。妖忌は息を吐き、「承知した」と頷きました。断ればただ検非違使庁に目をつけられるだけです。都には妖忌の過去――武蔵坊弁慶であった頃の彼を知る者もいるでしょうが、いずれにしても妖忌は今は妖忌でしかなく、女殺しについては潔白なのですから、従うよりありません。
「……妖忌」
 と、桜の下にいたゆゆが、こちらに駆け寄ってきました。妖忌は振り向くと、その髪をくしゃりと撫でて、「大丈夫だ」と言いました。ゆゆは首を振って、妖忌にしがみつこうとしますが、妖忌はそれをやんわりと押しとどめました。
「すまぬ。少しばかり留守にする。……すぐ戻る」
 老婆に頭を下げると、老婆はただ黙して頷きました。
「だめ――」
 しかし、ゆゆはだだをこねるように首を振り続けました。まるでここで離れたら、二度と妖忌と会えないと確信しているかのように。妖忌もその姿に離れがたさを覚えましたが、しかし役人に呼ばれて、振り払うように踵を返しました。
 そうして妖忌は、役人に連行される少年の後について、寺の前の道を歩き始めました。
 里へ続く道の方には、里の者たちが野次馬として集まっておりました。あの寺の妖怪が里の者を殺したのか、そうでないのか――里の者たちにとっては気にするなと言う方が無理な話であったのでしょう。その中を、妖忌は黙して進もうとし、
「――あああああぁぁぁぁっ!!」
 悲鳴のような声とともに、連行される少年の元へ飛び出してくる影がありました。
 それは、太刀を振りかざしたあの青年でありました。
 少年が振り返り、驚愕に悲鳴をあげました。役人がうろたえます。妖忌は咄嗟に、少年へ太刀を突きだそうとした青年の足を払いました。太刀を放して倒れ込んだ青年に、妖忌はつかみかかると、その身体を羽交い締めにします。青年は獣のようなうなり声を上げてもがきますが、妖忌の力に押さえ込まれてはどうしようもありませんでした。
「よくも、よくもぉっ――」
 青年は泣いていました。妻を無残に奪われた悲しみに、青年はその犯人へ刃を向けることでしか立ち向かえないほどに憔悴しきっていたのでした。その憎悪をたたきつけられてひるんだ少年は、その場に尻餅をついて怯えた声をあげました。
 どこからか、山賊の少年へ向かって石が飛びました。投げたのは、青年の息子でした。
「山賊めっ、母ちゃんを返せぇっ――」
 投げられた石は山賊の少年の額に当たり、それをかわぎりに、周囲で見守っていた里の者たちが、いっせいに山賊の少年へ石を投げ始めました。彼らもまた、長年山賊に苦しめられていた者たちでした。たったひとり残された、飢えた少年へであっても、彼らはその憎しみをぶつけるより無かったのでした。
 妖忌はそれを、半ば呆然と見つめておりました。いつの間にか、腕の中の青年は力を抜いてうなだれておりました。青年の目はうつろでした。そんな青年の元に、息子が駆け寄って、そして妖忌の方を睨み付けて、泣きそうな声で叫びました。
「おっちゃんのうそつき! ――死んじまえ!」
 闇の中に石が乱れ飛び、巻き添えになった役人が身を丸め、山賊の少年は投げつけられる石を浴びながらへたり込んで震えておりました。青年はそれを疲れ切った瞳で見つめ、妖忌はただ、その場を突然支配した狂気じみた何かに、薄ら寒いものを感じておりました。
 ――そのときでした。不意に、強く強く冷たい風が吹き抜けました。
 その風に乗って――乱れ飛ぶ石の中に、それが舞いました。
 薄紅に光る、蝶でした。
 いや、それは桜の花びらであったのかもしれません。
 いずれにしてもそれは、妖忌には見覚えのあるものでした。
 あの夏の日――山賊の命を奪った、おぼろな光そのものでありました。
 その蝶はゆっくりと羽ばたいて、へたりこんだ山賊の少年にまとわりつきました。
「っ――――!?」
 山賊の少年が、声にならぬ何事かを叫んで、その身を痙攣させました。異変を察して、乱れ飛ぶ石が止まりました。山賊の少年は、その口を大きく開き、まるで呼吸を奪われたように、打ち上げられた魚のようにあえいで――その場に、事切れました。
 誰もが呆然と、突然命を失った少年の姿を見つめていました。
 ――次の瞬間、信じがたいことが起こりました。
 倒れ伏し事切れた少年の身体が、薄紅にぼんやりと、闇の中で光り始めたのです。
 その身体はやがて光に包まれて見えなくなり――そこから、無数の薄紅に光る蝶が舞い上がりました。その跡にはもう、少年の身体は跡形も無く消え失せていました。
 舞い上がった薄紅の蝶は、少年の傍らに丸まっていた役人を飲み込みました。役人は悲鳴をあげる間もなく蝶に飲み込まれ、薄紅の光に包まれ――そしてまた、役人のいたところから無数の蝶が羽ばたきました。役人の身体は消えていました。
 ――連れて行かないで、
 どこからかそんな声が、聞こえたような気がしました。
 誰かが悲鳴をあげました。恐慌がその場を支配しました。石を投げていた里の者たちは、光る蝶から逃げようと皆てんでばらばらに走り出しました。しかし、再び強い風が吹き抜けると、その風に乗って蝶たちは、逃げ惑う里の者たちに襲いかかるように舞い踊り、次々と里の者たちを光に包んでいきました。――そしてまた、新たな薄紅の蝶が生まれていきます。
 何が起こっているのか、愕然と見つめた妖忌たちの元にも、蝶が舞い降りました。
「――やめろ!」
 妖忌が叫んだときにはもう、青年が妖忌を振り払い、その蝶に手を伸ばしていました。
 青年の指先が蝶に触れた瞬間、青年の身体は指先から光り始めました。
「父ちゃん!」
 息子が青年にすがりつきました。青年の身体はみるみる薄紅の光に飲み込まれ、その光はすがりついた息子をも飲み込みました。悲鳴のような声があがり――そして、妖忌の目の前で、青年とその息子も、無数の薄紅の蝶と化して消え失せました。
 それは死でした。圧倒的な、完全な、死の襲来でありました。
 死そのものがその場を包み込んで、全てを容赦なく飲み込んでいきました。
 ――そのただ中で、妖忌は立ち上がると、寺へ向かって走りました。
 夜の闇。月の光。冬の冷たい風の中、妖忌が見上げた、境内の桜は。
 まるで狂気のように――爛漫と、満開になっておりました。
 全てを覆い尽くすような、狂い咲きの、真冬の桜。
 風に乗って舞い散る花びらは、次々と薄紅の蝶に変わっていきました。
 その中を、妖忌は走りました。走って、走って――境内の、桜の下へたどり着きました。
 ゆゆは、そこにいました。
 爛漫と満開になった桜の下で、ゆゆはひとり、泣いていました。
「ゆゆ!」
 妖忌は駆け寄り、その肩を揺さぶりました。ゆゆは泣きはらした顔で、妖忌を見上げ、ゆるゆると首を横に振りました。この殺戮は、死の舞踏は、ゆゆの意志ではありませんでした。桜の、ただ桜だけの、狂瀾でありました。
 妖忌は満開の桜を見上げました。全てが終わろうとしていました。これが終わりか。ここで全ての命を奪い尽くして、この桜とともに、己もまた終わるのか。
 それならば、それでもいい。
 妖忌は、せめてもとゆゆを抱きしめようとしました。この桜がゆゆを殺すことは無いはずでしたが、それでも己が消えるそのときまで、この狂気の桜の花びらからゆゆを守ろうとしました。そのために、ゆゆに手を伸ばしました。
 けれど――ゆゆは、妖忌の身体を突き放しました。
「ゆゆ?」
 呆然と目を見開いた妖忌の前で、ゆゆは首を何度も横に振りました。妖忌が手を伸ばそうとしても、その手から逃れるかのように、桜の幹にしがみつくのでした。
「ゆゆ――」
 ざあっ、と再び風が吹きました。妖忌の目の前を、無数の薄紅の光が通り過ぎていきました。
 そして、ゆゆに伸ばした妖忌の指先が――ぼんやりと、薄紅色に光り始めました。
「妖忌!」
 ゆゆが悲鳴を上げました。蝶に触れ、薄紅の光に染まり始めた己の手を見下ろして、ああ、と妖忌は悟りました。やはりこれが終わりなのだ、と。
 けれど、けれど。
 こんなところで終わってしまうのならば、己は何のためにここに来たのだ。妖忌はそう、自分自身に問いかけました。ここで死ぬためか? 否。それならば、己はゆゆを――。
 ゆゆを、愛したりはしなかった。そう、妖忌は悟りました。
 死にたくない、と妖忌は思いました。このようなところで終わりたくない、これからもゆゆと、畑を耕し、獣を狩って、細々と、しかし幸福な暮らしを――あんな風に――。
 桜は爛漫と咲き乱れ、花びらを散らし続けていました。
 その下で、ゆゆは泣き出しそうな顔で佇んで、妖忌を見つめていました。
 光に包まれた左手を、妖忌はゆゆへ伸ばしました。その左手から、蝶が飛び立とうとしていました。光は手首を超え、左腕を包み込もうとしていました。
「ようき――」
 しゃくりあげるような声で、ゆゆは妖忌の名を呼びました。
 妖忌の腕は、どんどんと光に包まれていきました。
 このまま消えてしまうのか、消える前にせめてゆゆを、ゆゆに――。
 そう、ゆゆへ手を伸ばした妖忌へ、けれどゆゆは、首を横に振りました。
「私を――殺して、ください」
 ゆゆの言葉に、妖忌は愕然と目を見開きました。
 できるはずがありません。そのようなことは、妖忌にできるはずもありません。
「馬鹿な――なぜ! なぜお前を、」
「このままでは、私が、桜が、貴方を殺してしまう――っ」
 ゆゆは顔を覆って、桜を仰ぎました。ごうごう、ごうごうと風が張り詰めていました。
 もう、ゆゆにもどうにもならないのです。
 この桜は、ただひたすらに、死を振りまき続けるばかりのものと化したのです。
 ――それはあるいは、多くの死にまつわったあの狂気のせいだったのかもしれません。
「お前が死ぬ必要など無い! お前は、お前は桜の化身などではない、ゆゆ!」
 妖忌は叫びました。腕の付け根まで光に侵されながら、妖忌は残った右腕で太刀を抜き放ちました。鈍色の刀身が、薄紅の光を反射してきらめいていました。
 そうです。全てはこの桜のせいなのです。
 ゆゆはただ――この桜に殺されないだけの少女に過ぎないはずなのです。
 なぜなら、妖忌は確かに、桜ではなくゆゆを愛していたのですから。
 死を誘う桜よりも、ゆゆと生きることを望んでいたのですから。
「ゆゆ、お前は――お前は、俺が――っ」
 斬らねばならぬ、と妖忌は悟りました。
 この桜を斬らねばならぬ。この世の理を外れたのはただひとつ、この桜だけだったのです。これさえ無ければ、己はゆゆと平穏に暮らしていけるはずだったのだ、と妖忌はただ、それだけを念じて、桜に向かって刃を振り上げました。
 ゆゆが、悲鳴のように何かを叫びました。
 それに構わず――妖忌は、桜の幹へ向けて、右腕一本で、その刃を振り下ろしました。

 鮮血が、妖忌の身体に返り血となって浴びせかけられました。
 それは、刃によって傷を刻まれた桜の幹からあふれた血だと、妖忌は思いました。
 けれど、桜が血を流すはずはありません。
 だというのに、妖忌の右腕を汚したのは紛れもなく鮮血でした。
「――――ゆゆ?」
 妖忌の太刀は、ただ桜の幹に傷を刻んだだけのはずでした。
 ゆゆの身体は、その太刀の切っ先にかかっているはずがありませんでした。
 それなのに――妖忌の振り返った先で。
 ゆゆは、切り裂かれたようにその胸元から赤い血を噴き上げて、崩れ落ちていきました。

 白い肌が、着物が、薄紅の光の下で、深紅に染まっていました。
 右腕だけで抱き留めたゆゆの身体はあまりに軽く、あまりに冷たく、そしてあまりに細く、妖忌はただ、その身体から命が抜け落ちていくのを、見下ろしているしかありませんでした。
「ゆゆ……!」
 妖忌が名前を呼ぶと、ゆゆは白い唇を微かに振るわせて、赤く染まった指先を、妖忌の頬に伸ばしました。その唇が紡いだはずの言葉は、しかし声になりませんでした。
 そして――伸ばした指がぱたりと、その胸元に落ちました。
 身体が力を失い、瞳はもう虚空を見つめたまま、凍り付いておりました。
 妖忌の腕の中で、ゆゆの命は深紅とともに、こぼれ落ちていきました。
「ゆ……ゆ」
 絶望も、慟哭も、衝撃すらも、妖忌にはありませんでした。
 ただ妖忌は呆然と、狂瀾の桜を見上げました。
 桜は満開のまま、無数の花びらを散らして――薄紅の光が、しんしんと雪のように、ゆゆの身体に降り積もっていこうとしていました。
 妖忌はその花びらを取ってやろうとしました。しかし左腕は既に薄紅の光に変わって、蝶となって崩れ落ちようとしていました。
 やがてゆゆの身体も、薄紅に染まって光り始めていました。このままここで、ゆゆとともに消え失せてしまおうと、妖忌は願って、ゆゆの冷たくなった身体を抱きしめました。
「……これが、俺をここに導いた理由か」
 ゆゆの亡骸を抱いたまま、背後に迫った気配に、妖忌は振り返らず呟きました。
「俺に、ゆゆを殺させることが、お前の――」
「ええ、その通りですわ」
 答えたのは老婆でした。いいえ、それはもはや老婆ではありませんでした。
 妖忌が振り返れば、そこにいたのはあの老婆では無く、金色の髪の妖の娘でした。
 そう、あの妖の娘はずっと、ここで妖忌とゆゆを見守っていたのです。人間の老婆に姿を変えて、この終わりが訪れるのを静かに――。
「何故だ。――何故俺に、二度も半身を失わせる」
「それが運命だからです」
 静かに、妖の娘は答えました。
「貴方が、その子を愛してくれることも」
「運命だと?」
「――私には何も救えはしないのです。ですから貴方が、幽々子を救ってください」
「救う? 今更、何を――」
「終わりの無い輪廻の苦しみから、今、解き放ちます」
 妖の娘はふわりとその場に浮き上がると、爛漫と散りきらぬ桜へ、何か印を組み、呪文のようなものを唱えました。
「妖忌――貴方は、幽々子を――どうか、幸せに――」
 強い風が、竜巻のように桜の周囲を吹き荒れました。
 その風に思わず妖忌が顔を覆うと、風に舞い上がるように、薄紅に染まったゆゆの身体が浮かび上がり、磔られるように桜の幹に吸い込まれようとしました。
 妖忌は手を伸ばしました。しかし伸ばす手はもう蝶になって消えていました。
 そしてゆゆの姿も、風に溶けるように蝶になって、光となって舞い上がりました。
 ひときわ、強い風が上空へ向かって吹き上げます。
 その風は、爛漫と咲き乱れていた花びらを巻き上げて、月の浮かぶ空に薄紅の光をまき散らし、嵐のように蝶たちは夜空を舞い踊って――。
 その光の中で、妖忌の姿もまた、やがて薄紅の光となって消え失せました。
 あとには、ただ張り詰めたような静寂だけが残されているのでした。


        ◆


「……幽々子様。幽々子様、起きてください」
 ――ゆゆ、ゆゆ、起きろ。
 夢と現のあわいで、ふたつの声が混ざり合っていた。
 ゆっくりと瞼を開けた幽々子の視界に入ったのは、ひどく懐かしい顔だった気がした。
 けれどそれは幻のように溶けて消え、もう視界は焦点を結ばない。
「幽々子様。こんな格好でお休みになってはいけませんよ」
 声。幼い声。違う。彼の声はこれではない。
「よう、き」
 名前を呼んだ。その響きがあまりにいとおしくて、不意に幽々子は泣き出しそうになった。
「違います」
 けれど、返ってくるのは呆れたような幼い声。
「寝ぼけてらっしゃるのですか? 幽々子様。妖夢です。祖父と間違えないでくださ――」
 口を尖らせて、その幼い少女は首を横に振った。
 違う。違う。ようき、妖忌はどこ。
 妖忌。私の妖忌。私の、たいせつな――。
「妖忌――」
「幽々子様?」
 虚空に手を伸ばして、幽々子はその名前を呼んだ。何度も何度も呼んだ。
 返事は無かった。もう永久に彼が言葉を返してはくれないことを幽々子は知っていた。
 いや――そのとき、初めて幽々子は知ったのかもしれなかった。
 自分が失ったものが、今まで信じていたよりも、遙かに大きなものだったことを。
 それは過去。それは失った記憶。それは――。
「よう、き……ぃ」
 頭痛がする。感情が入り乱れて幼子のように顔をゆがめ、幽々子はだだをこねるように両手をさまよわせてその名を呼び続けた。
「幽々子様、どうなさったのです? 幽々子様――」
 ――ゆゆ、こ。
 そう呼びかけてくれる彼の声は、もう記憶の奥底に沈んでしまって蘇りもしない。
 ただ、幽々子は得体の知れない喪失に怯えて泣いていた。
 胸の奥に突然開いた空洞をどうしていいか解らずに、泣き崩れていた。
 ――妖夢はただ困惑して、そんな主の姿を見つめているしかなかった。


        ◆


 妖忌が目を覚ましたとき、そこは既にあの寺ではありませんでした。
 顔を上げると、花を散らしきって、立ち枯れた桜の樹がそこにありました。
 そして、その根元に目を閉じて横たわる、少女の姿がありました。
「ゆゆ……!」
 妖忌は駆け寄ろうとして、己の身体の感覚がひどく曖昧なことに気付きました。
 そして、自分の傍らに、半透明の気体のような、固体のような、不可解な冷たいものが浮かんでいることを悟りました。
 それが何なのか解らぬままに、ただ妖忌は曖昧な身体の感覚の中、手探りで少女の元に這い寄り、その冷たい身体に触れました。
 少女は、確かに妖忌の愛したあの娘でした。けれどその身体には体温がなく、まるで藁を抱いているかのようにその身体は軽いのでした。
 ゆゆ、と妖忌は少女の名を呼びました。何度も何度も呼びかけました。
 それが死体であることを、妖忌は知っていました。けれども、呼びかけ続けました。
 ――そうしてやがて、少女がゆっくりと瞼を開けました。
 ああ、と妖忌は悟りました。このときだったのです。彼と彼女が、紛れもなく人の世の理を外れたのは。
 けれども、――けれども。
 彼には体温があり、少女には体温がありませんでした。
 そのことの意味を彼が知るのは、もっと後のことでした。
 ――どれほど愛しても、たとえ彼女との間に子をなしたとしてさえも。
 人は亡霊のそばに、永遠には居られぬことを悟るまでのことでした。
「ゆゆ……!」
 妖忌は、瞼を開けた少女にそう呼びかけました。
 少女は妖忌の顔を見上げて、不思議そうに目を瞬きました。
「……だれ?」
 小首を傾げて、少女は妖忌の胸元に残る傷に手を伸ばし、体温のない指で触れました。
「あたた、かい……」
 少女は目を閉じ、妖忌の胸元にそっと頬を寄せて目を閉じました。
 妖忌はただ、強く強く、少女を抱きしめたのでした。
 命の証を失い、けれど確かに腕の中にある、愛した少女の身体を。

 ――全ては、私が彼から聞いた話です。
 私は彼女を救いたかった。生の中で彼女を救えないならば、せめて亡霊となっても、彼女を愛し、永遠に彼女の傍らにいてくれる存在を、彼女に与えたかった。
 彼女が笑っていられるように、悲しい記憶を封じて。
 彼と彼女が静かに、深く、愛し合っていられるように。
 ただ私は、彼女に笑っていてほしかったのです。
 私では、彼女をそれほどまでに愛することはできなかったから――。

 彼はもういません。
 彼が彼女を愛したことも、もう彼女は忘れてしまっています。
 それは、彼の望みでした。彼はあのとき命の半分を失い、けれど半分が残って半人半霊となりました。亡霊となった彼女のそばに、彼は永く居続け、夫として彼女を愛し――そして、人と亡霊の間に、ひとりの娘が生まれました。妖夢という名の。
 けれど彼はそれとともに、己のゆるやかな老いを悟ったのでした。
 いずれ自分は死に、今度こそ彼女のそばにいられなくなることを悟った彼は、私にもう一度彼女の記憶を封じることを頼みました。愛し合った記憶を封じ、妖夢が彼と彼女の子である記憶も封じ――夫ではなく、従者として生きるために。
 いずれ訪れる己の死に、彼女が悲しまなくともいいように。
 歳の離れた娘に祖父と名乗り、愛した少女の従者となって、彼は晩年を生き続けました。

 もう、全ては桜の下に沈んだ、夢でしかありません。
 ――ふふ、それならなぜ、私は今、こんな話をしているのでしょうね。
 ただ、ただ――私は。
 彼女の笑顔を見るたびに、その笑顔のために全てを捧げた彼を思い出すのです。

 あの桜が満開となることは、もう二度とありません。
2011年3月13日発行の書き下ろし同人誌(完売)から。
これぐらいしか投げるものが無かったんや……
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



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素晴らしきゆゆ妖忌でした。